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泉の水は、やはり水浴びには冷たかったらしい。
レイチェルはミツワに帰ってから高熱を出してしまった。
引きこもり令嬢に無理は禁物だ。
「レイチェル様、しばらくは手芸はおよしになってください。ルーク様の御命令ですので、このバスケットはお預かりしますからね。」
ルーナは今回はおだてても、何をしても手芸道具を返してくれない。
ぼんやり頭に霧がかかったようで、体の節々が痛い。でもなんか縫いたい。
きっとレイチェルは中毒なのだ。ルーナが薬を飲ませてくれたが、今日は本当に食欲もない。体を起こすもの精一杯だ。
扉の向こうでは、ルーナが誰かと話をしている声が聞こえる。
「レイチェルはまだ往生際悪く手芸したいとか言ってるのか?」
「はい、ルーク様。まるで針を握っていないと息ができないと言った様子です。一体全体、こんな寒い秋の夜口に水に入るなんて。。」
ノックの後、扉が開く音がする。
今更ながら、この男は乙女の寝室に、無遠慮に出入りしすぎだと思うのだが、今日は本当に文句を言う元気もない。
「。。。。ルーク様ですか。。?」
「俺以外の誰だと言うのだ馬鹿者。」
相変わらず口が悪い。ツカツカ勝手にベットの側に座って、ルーナにお茶を持ってきてもらっている。
何しにきたんだか。
「お前の書き付けについて、バルト様が直々にお話があるそうだ。お前の体が落ち着いたら謁見だ。」
ああ、報告か。
レイチェルはバルトと直接謁見する覚悟はしていた。
あのような内容、バルトにはどう受け止められたのか予想に難くない。でも女神様のお言葉だ。レイチェルには、バルトと話す事は正直何もない。女神の言葉をどう解釈するかは、バルト次第だ。戦争となるか、はたまた和平への道とするか。。
ルークは紅茶を手にとって、淡々と続ける。
森から帰ってから、ルークはずっと機嫌が良い。遺跡解読の功績によって、褒賞が認められたからと言うが、一体何を褒賞として受け取るのかについては口を濁すばかりだ。きっとルーク様がいつも欲しがっていたワインの産地の領土か何かだと思う。
「謁見の後、お前の身分は宰相の客分から、王宮の預かりになり、王の後見で、然るべき身分の男の元に、降嫁される事になっている。喜べ!王は最大の敬意を持ってお前をこの国に迎えるとの事だ。」
レイチェルは風邪で重い体を思わず退け反らせた。
ルークは書き付けの内容を知らないから、そんな呑気な事を言っているのだ。実際の内容は、国のあり方を問われるほど、大きな問題を含んだ頭の痛いもの。バルトがその手の中で握り潰しても、レイチェルに激怒して、首から胴体が離れても、レイチェルは驚きはしない。
そこでふと、ようやくレイチェルは気がついた。
(。。。。?降嫁???)
「。。。ルーク様?私は仕事を終えたので、アストリアに返して頂けるのでしょう。。?私、婚約者がいるのです。」
ルークは頭をぽりぽりと掻きながら、レイチェルの方を見ずに言った。
「お前は大変に大きな功績を挙げた。王の後見で、この国きっての大貴族の子息に降嫁されるんだ。女としてこれ以上の栄誉はあるまい。」
ルークの言葉に嘘も含みもなかった。
しかし、レイチェルの問いには何も答えなかった。
確かにルークの喜ぶその通りだ。
末端男爵家の、変わり者の次女として、これ以上は望めないほどの行幸だ。
だが。
「。。ルーク様、私はアストリアに返して頂けるのでしょう?お姉さまの子供がもうすぐ生まれるの。ゾイド様にもお会いしたいの。ゾイド様にパイを焼く約束してるの。ゾイド様、私の事を好きって言ってくださったのよ!ルーク様、なんとか言って!」
ルークは淡々と声を繋いだ。
「レイチェル。お前の功績は国の最高の栄誉を持って答えられる。豪奢な暮らしも、最高の名誉もお前のものだ。ただ、お前をアストリアに返す事だけはできない。お前をアストリアに返す事はフォート・リーにとって、危険分子だ。降嫁先も、決定している。あきらめろ。」
いつも口が悪いが優しいルークの声が、温度を伴わない。
(それでは。。ゾイド様には二度と、二度とお会いできないの。。。???)
レイチェルはゾイドの赤い瞳を、銀の髪を、大きな体を、柔らかい唇を、そしてジャコウの香りを、思った。
(ゾイド様、ゾイド様、ゾイド様、ゾイド様!!)
息ができない。目の前が見えない。ゾイド様。ゾイド様!
「キャー!レイチェル様!しっかりなさってください!」
レイチェルは寝台の上で、我を忘れて、流れる涙をぬぐいもせずに、ゾイドの名を叫び、嗚咽し続けた。
やがて医師が呼ばれ、何かを嗅がされてレイチェルはようやく、気を失うように眠りについた。




