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レイチェルは振り返る事なく、聖なる橋を渡り、たった一人天幕の中に入って行った。
月明かりに照らされて、天幕は水上に浮かび上がった幻の城の様だった。
水面に映る、レイチェルの美しい背中が、音も無く吸い込まれていく。
「ゾイド、お前。。」
痛々しそうにルイスが上擦った声をかけた。
赤い氷と呼ばれる国で屈指の魔力を誇るこの男が、剥き出しの感情で、あの地味な娘の愛を乞い。その安全を案じ、身を悶えて苦しんでいるのだ。
ルイスは、ゾイドの感情の薄さがずっと気に入らなかった。
どんな場面でも飄々と、まるで劇を観劇しているかの様に感情の起伏を見せることはなかった。
先の大戦でも、淡々と敵軍を駆逐してゆくゾイドを目の当たりにして、人の心があるのかと、密かに思っていた事もある。
「お前もただの男だったんだな」
しんみりとルイスは呟く。
この男との長い付き合いの中、今日この日ほどゾイドの事を近くに感じた事はなかった。
「なんとでも言え。」
吐き捨てるようにゾイドは言い放つ。
胸が苦しい。立っているのも辛い。
まだおのれの胸元に残る、レイチェルの香りが風に乗って霧散してゆくのが憎い。
ローブをとって、乙女の白いドレスの姿で橋を渡るレイチェルは、この世の者とは思えないほど可憐で、その大きく開いた背中はどこまでも頼りなく白く華奢だった。
「レイチェル嬢に託すしかなかった。すまない。」
苦しそうにジークは声を絞った。
ゾイドにも理解できている。この場合の適任者はレイチェル以外にいないのだ。
だから、このどうしようもない思いは、ゾイド個人の物だ。
胸が引き裂かれるように痛い。
レイチェルを思うと、叫びだしたくなるような、泣きたくなるような、甘い甘い痛み。
(レイチェルが戻ったら)
天幕の中にレイチェルの影が見えた。ここからは、男達にできることは何もない。
(もう一度、結婚を申し込もう)
固くゾイドの拳は握られた。




