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レイチェルは、テオと、この国の見所の一つである、竜人の果樹園にやってきていた。
竜の食事の摂取に関して、北の大国でも随分と研究が進んでいたが、どの竜も一貫して、特別に果汁の多い、甘い果物を好むことは、最近判明したばかりだ。
この国の果物の味が、おそらく竜達の理想なのだろう。
もう、レイチェルは針を握っていない。
少し、手芸から離れて、私と、ただ時を過ごして欲しい。
そう、テオに真剣に言われたのだ。
「君は、一度何もかもから離れて、これから先の事を、それから、願わくば私の事を、考えて見て欲しい。急がないでいいから。」
テオの、押し付けない優しさは、いつもレイチェルの心を温める。
今よりも繊細だった子供の頃のテオは、優しさなり、善意なり、感情を押しつけられることが心から嫌だったと言う。
「なんだか手持ち無沙汰だわ。。テオ様、普通の人って、どうやって手芸もせずに、時間を過ごしているのかしら。なんだか針を握っていないと、指が震える気がするもの。」
レイチェルにとっては真剣な問いだったのだが、テオは大笑いだ。
「レイチェル、その症状は、医学的には中毒と言うよ。禁断症状が現れているみたいだ。手芸に、中毒性があるなんて、初めての症例だな。」
「だって。。」
拗ねるレイチェルの頭をポンポンと叩くと、手持ちぶたさのレイチェルに、テオは、サヤに入ったままの、マメ科の雑草の実を手渡した。
中身を取り出して吹けば、笛にもなるが、このプチプチと取り出す感触が、なんとも良い感触なのだ。
テオにもらったマメをおもちゃにしながら、随分の距離を歩いたはずなのに、息もきれないのは、竜の国の素晴らしいところだ。
残念令嬢は体力がない。遠くまで歩いて行くような、脚力は持ち合わせていない。
「。。ここだよ。」
テオの連れてきた場所は、見渡す限りの桃のそのだった。竜人の国に自生している桃は、とても甘く、竜人達の中でとても人気がある。
誰もいないのに、地平線の向こうにまで続く、桃色の海は、枯れ葉の一枚も見当たらない、見事に手入れされた庭園だ。
「わあ、なんて綺麗!」
「気に入った?好きなだけ、食べてもいいんだって、ギーが言っていたよ。」
そう言って、高いところに成っている、綺麗な小ぶりな桃をとってやり、丁寧に皮を剥いて、レイチェルに手渡す。
「お腹がいっぱいになったら、あそこの池で、小舟に乗ろう。私はあまり上手ではないけれど、リュートが弾ける。夜になったら、舟の上で弾いてあげるよ。大きな月が見えて、とても綺麗だよ。」
そうやって、毎日レイチェルを連れ出して、レイチェルの知らなかった楽しい遊びを教えてくれるのだ。
子供の頃から引きこもっていたレイチェルは、テオが教えてくれる、素朴な男の子の遊びの全てに胸が踊る。
テオが川の水面ギリギリに投げる石が跳ねるのも、上手に蝶々を捕まえるのを見るのも、何もかもが、楽しい。
そして、空に飛び交う美しい竜達をながめ、気が向けば、テオがどこからか出してくる甘いお菓子を楽しんで。
レイチェルは、生まれて初めて、手芸の事を考えずに、魔術の事も考えずに、ただ、ぼんやりと優しい日々を、テオと共に過ごしていたのだ。
テオは、呪いのように、レイチェルを蝕んでいた、深い心の奥の闇に、光を当てていたのだ。
おそらくは、館で引きこもって、経験ができなかった素晴らしいはずだった子供時代を、二人でやり直すかのように。
「何もできない私を、愛して」
まだ小さな子供の頃の、レイチェルの心の声が。一番深い、レイチェルの心の奥の奥で燻っていた、本当の願いが、やっと声になる。
このぼんやり優しい時間の中で、何度も、何度も、何度もレイチェルの心から、漏れ出した、心の声。
「。。ああ、レイチェル。何もできなくていい。何もできない君を、愛してる。」
テオは、レイチェルに、まるで許しを与えるように、何度も、何度もそう告げる。
だと言うのに、愛していると、そう告げるその度に、いまだに赤面するテオ。
レイチェルは、おずおずとテオの元に近づいて、テオの赤面している美しい顔を、まじまじと見つめる。
「レイチェル、見ないでくれ。私にも、恥ずかしいと言う感情はあるんだ。」
そう言って、プイと、赤くなった顔を横にむけてしまったテオに、レイチェルは、新しい感情が沸き起こってきた事を認めずには居られなかった。
(ここで、テオ様と、ずっと一緒にいたい。。)




