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あれから、レイチェルはずっと、刺繍の大作に取り掛かっている。
ゾイドが愛している、とても古い魔術の錬成式をモチーフにしたものだ。
レイチェルは、古代の魔術の世界に思いを馳せながら、刺繍を受け取る、愛しい人を思って、今日も針を進める。
あれからもテオは、ずっと理路整然と、この国でテオを一緒にいるべき理由を述べ立てて、レイチェルを困らせてはふらりと竜人達の集まりに顔を出してる様子だ。
非常に聡明なこの男に、理路整然とそう、諭されると、そうなのかと思わず納得してしてしまいそうになる。
実際に、テオの隣は、これ以上ないほど心地よい。
テオはとても繊細で、優しいのだ。
下界にいるときは散々レイチェルの言う事を無視してしつこい付き纏いをしていたのに、今は、レイチェルが寂しいと思うと、どこからともなくふ、と現れて、レイチェルが一人になりたいと思うと、いつの間にかお茶だけ用意してくれて、姿を消してくれる。
いつも静かにレイチェルの隣にいて、時々、面白かった出来事を話したり、レイチェルの話を聞いてくれる。
そして、一緒になって、施している魔術の魔法陣の効率の良い手芸での描き方を考えてくれたり、ともかくテオといると、時間は静かにすぎて、そして穏やかだ。
テオはレイチェルに何も求めない。
ただ、時々、思い出したように、君を愛していると、レイチェルの小さな手を握って、子供のように綺麗な、まっすぐな瞳で告げるだけだ。
レイチェルは、今日も美しい庭の四阿で、一人、思いにふけりながら針を進めていた。
今日は良い風が吹く。
「やあ、今日は一人なのかい。刺繍の進み具合はどう?」
ゆらりと光の粒が現れて、ギーが、その白い服の長い裾を翻しながら、その姿をレイチェルの目の前に表した。
(本当に、人外に美しいわ。。)
レイチェルは引きこもりなので、あまり宮殿の外に出て他の竜人と交流をしたりする事を好まないが、テオいわく、美しい竜人達の中でもギーは一際美しい。
ギーはこの階層では、最も古い竜人だという。
「ギー様。こんにちわ。」
ギーは優しい赤い瞳をレイチェルに向けると、レイチェルの刺している刺繍を、興味深そうに眺めて、その細い指で少し撫でた。
「良くできているね。発動に必要な魔力も最低限で計算されている。だがこの刺繍の良いところは、発動に必要な魔術以外は無駄ばかりのところだよ。君は無駄が多くてとてもいい。竜人は無駄のないことばかり考えてるからね。」
(えっと。。褒められているのかどうか良くわからない。。。)
レイチェルはどうギーの言葉を受け取って良いのか、曖昧に微笑みを返す。
この国の竜人は皆非常に知性が高い。
学園にすら通っていなかったレイチェルは、魔術の話以外はほとんど竜人達の会話にはついてはいけないが、彼らはいつもとても親切で、そして善意に満ちている。
テオがようやく本来の、繊細で理知的な姿を取り戻し、生き生きとできるほどに。
ギーは、どうやら何かがレイチェルの心を大いに悩ませていることを感じとったらしい。
優しい微笑みのまま、どこからかお茶のセットを手品のように出現させて、レイチェルの前に深く腰かける。
「言葉にして言ってごらん。君の心を曇らせている何かを。」
ギーに促される。
(何もかも、お見通しね。。)
レイチェルは覚悟を決めて、言葉にする。
「。。テオ様は、私に、何もお求めになりません。。なのに、下界には、ゾイド様の元には返しては下さらないの。。」
レイチェルは、白状した。ギーには何も隠せない。
そして、やはりレイチェルは、ギーに教えて欲しかったのかもしれない。
「テオ様は、私を愛していると、おっしゃいます。でも、私には何も、お求めにならない。ゾイド様のおっしゃるその愛と、何もかもが違うような、そんな気がして、、」
テオはレイチェルを愛している、そう口にする。テオの言葉には嘘はない。ここは竜人の国だ。
嘘をつく理由も、そして方法も存在しない。
だが、テオの瞳には、ゾイドがレイチェルに愛を語るときのような、どうしようもない切なさや、情熱や、そして欲の渇望は写っていないような、そんな気がするのだ。
ゾイドが愛を語ると、レイチェルは身体中が熱をもち、体の中から痺れるような、捕らえられたような、震えるような感覚がある。
だが、テオがレイチェルに愛を囁くと、レイチェルの心は満ちて、まるで暖かい日溜りの中にいるような、そんな気持ちになる。
ゾイドのような激しさも、温度も感じない。
テオは、レイチェルには何も求めない。
この国で、レイチェルの隣にいる事以外は、何も求めない。レイチェルの愛を乞うわけでも、男女の触れ合いを求めるわけでも、ない。だというのに、テオの愛は、レイチェルが下界に戻る事を許さないほど、激しい力だ。
レイチェルは、困惑しているのだ。
ギーは、少し空中を見つめると、しばらく沈黙した。
そして、パッと弾けたようにニコニコと笑みになる。
レイチェルは、いまだにギーの事がよくわからないが、ギーが何かを知ったらしい。という事は、分かった。
「君で丁度きっかり、100番目の命だ。不思議だね。偶然というか、なんというか。」
「。。何の数です?」
「テオが子供の頃から、拾ってきて保護してきた魔獣や、行き場のない孤児や、動物の数だよ。」
レイチェルは思わず持っていた針の手が止まった。
「。。保護、ですか。。」
クスクスと、さも楽しそうにギーは笑うと、
「あの子は心がとても優しいからね。傷ついている生き物を、放っておけないのだよ。傷が剥き出しのままの放って置けない君に出会って、付き纏っているうちに、君の美しい心に触れてしまって、恋に落ちたという事だね。」
そう、おかしそうに、上品に、しかし腹を抱えて笑い出した。いつも感情が緩やかなギーには、実に珍しいことだ。
(そういえば、ゾイド様もそんな事を言っていたような。。)
レイチェルには思いあたる事がある。
魔獣のマーガレットちゃんも、獣に襲われて瀕死の状態だった所をテオが連れて帰ってきたと、セリーヌ夫人は言っていた。
「テオちゃんは何でも拾って帰っちゃうから、困っちゃうわ。」
リンデンバーグの領地の孤児院も、随分の数の子供が、テオに保護されて連れてこられてきた子供だという事は、竜人の国にきてから、知った。
テオは、あまり自分の事を語るのが、好きではないのだ。
他にも、屋敷の敷地内にある牧場は、テオが拾ってきた、保護された生き物のために、テオが管理しているとも。
もう使い物にならない使役馬や、子供を生みすぎた老いた牛などが、のんびりと敷地内でその余生を送っているとか。
「なぜギー様はそんな事を知っているの?」
レイチェルも、これらはつい最近、やっとポツポツ自分の事を教えてくれるようになったテオから、知った事実だ。
「私は長く生きているからね。魂に刻まれた記憶は、手にとるように分かる。君の綺麗な心の剥き出しの傷を、テオは放って置けないんだよ。それを恋と呼ぶか、愛と呼ぶかは本人次第だ。少なくともテオは、君にとても執着している事は確かだね。」
それからね、レイチェル。
そうギーは、紅茶のカップを置くと、少し真剣な顔をしてレイチェルに言った。
「今の君は、自分を守る事も知らないのに、傷ついたその心のままで、その優しさを誰彼なしに与えすぎて、壊れてしまいそうで、見ていられないよ。この私でも、今のままの君を、下界の恋人の元に戻すのは躊躇われるからね。」
レイチェルは、驚いてギーの方を見た。
「テオはあの頑固さだ。あの頑固で不器用な男が、どんな動機であれ、君を妻として、永遠にこの場所で生きると決断しているんだよ。あの男は、何よりも、君の傷ついた心が癒える事を、そして君が、安心してそのままの君でいられる日を願っている。優しい子だね。テオは、その日が来るまでは、君に、自分の気持ちを押し付けて困らせたり、自分の欲を君にぶつける事は、決してしないと、決めているんだよ。」




