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「なぜ?苦しみと悲しみに満ちたその世界に、なぜ帰りたいと思う?」
ギーは、優しい瞳で、レイチェルを見つめた。
赤いその瞳は、興味深そうに、少し光を放ったのが見える。
「レイチェル!君は、こんな素晴らしい場所から、離れたいのか??」
テオは心底驚いた様子で、椅子から立ち上がった。
レイチェルも、よく分からない。確かに、ここは素晴らしい場所だ。
思いを言葉にするのは、レイチェルは苦手だ。思いを心でまとめるのも、とても苦手だ。
長い時間をかけて、ゆっくりとレイチェルの心は、言葉を紡いだ。
一言一言、ゆっくり。
「ギー様、私、下の世界では、苦しいことも悲しいことも多かったわ。たくさん傷ついたし、たくさん涙も流したの。」
ギーは、何も言わない。レイチェルの言葉を、待ち続ける。
テオは、立ち尽くしたまま、言葉がない。
「でもね、私は愛しい人と巡り合えたの。知らずにいた楽しい事にも、巡り合えたの。私はこれからも、苦しいことも、悲しい目にも会う。でもね、だからと言って、巡り合えた大切な人と触れ合う事を諦めたくないし、巡り合えるかもしれない、素晴らしい事や、人たちとの出会いを諦めたくないの。」
レイチェルは、感情の見えにくい、聞かん坊のあの人を、思う。
「それにね、下界の喜びも、なかなかの物よ。お父様の目を盗んでこっそりベッドの中で縫う刺繍も、大きなキルトを仕上げた日にだけ、マーサに入れてもらうちょっと上等の紅茶の味も、格別なのよ。」
そしてレイチェルは悪戯っぽく笑った。
「なるほどね、レイチェル。君はリンジーのような事を言うね。」
クスリ、とギーは微笑んだ。
そして、不思議そうな顔をしているテオに向かって、
「君の始祖だよ。アストリア王に恋をして、ここに帰ってくる羽を、手放した、あの娘の事。あの娘も、同じ事を言っていたね」
そう、おかしそうに、懐かしんだ。
レイチェルは、太古の昔に、恋をした一人の竜人の娘に、思いをはせる。
(その恋をして、竜人の国を離れたリンジーが授かった子供が、また恋をして、そしてまたその子供が恋をして、そうして紡がれた命の先に、ゾイド様がいるのね。。)
建国の歴史と同じ歴史を誇る、リンデンバーグ家。
全ては、一人の恋する娘の勇気から始まった、長い、長い、恋の系譜だとすれば。
(なんだか、とても壮大な恋の物語見たいね。)
レイチェルは、王都の館にずらりと並んだ、美貌のリンデンバーグ家の代々の肖像画を思い出す。そんな恋の系譜になら、レイチェルは、仲間になれるような気がした。
そんな時だ。
「レイチェル、私は君を返したくないよ。」
とても固い声がした。
「君と一緒に、ずっとここにいたいよ。」
「テオ様?」
テオの心が、言葉を紡いだ声だ。
レイチェルの困惑する声を聞いても、テオの心は言葉を止めない。
正しくは、止める事が、できないのだ。
「。。私では不足だろうか。私なら、決して君を不安にさせたりしない。君を傷つけたりしない。」
テオは、竜人の国の永遠の時の中で、たくさんの話を、レイチェルと交わしてきたのだ。
優しくて、お人好しで、そしてレイチェルが、レイチェルである事で、どれほどたくさん傷ついてきたのかを、テオはその繊細な心で、レイチェルの痛みを受け止めていた。
テオは2度と、決してこの優しい娘を、傷つけたくなかった。
ゾイドはレイチェルを愛している。
だが、ゾイドは必ず、またレイチェルを不安にするだろう。そして傷つけるだろう。そして、レイチェルを泣かせるだろう。
ゾイドの心は、とても強くそして気高い。
そんなゾイドのような一流の心の持ち主は、本人の意図しないところで、周囲を無邪気に傷つける。
テオは、いや、テオがそれは、一番よく知っている事だ。
「テオ様!」
聞きたくない。聞いてはいけない事を、この男の心は今、言葉として紡いでいる。
「レイチェル、私は君を愛している。君と竜人の国で、永遠に共に時を過ごしたい。」




