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「ええっと。。本当にごめんなさい。。。」
まだ髪の毛は濡れそぼって、神殿にあった簡素な神官の服に着替えたテオは、呆然と空を見つめていた。
頭から汚物を浴びてしまったテオは、すぐに浴場に連れて行かれて、清められて、せっかくの騎士の最盛装から、見習い神官の平服に着替えさせられていた。
何時間も準備して、聖女のお迎えを待っていたテオは、ショックで立ち直ることができない。
砂漠の聖女。竜の母。
あの気難しい父からもどれだけ素晴らしい女性であったか、散々聞かされた。尊敬して止まない兄が、恋焦がれてようやく手に入れた女性だと聞いていた。
どれほどのたおやかな女性、どれほどの神々しい女性、どれほどの美しい女性だろうか。
聖女にお会いできるこの瞬間を、ずっと待っていたと言うのに。
「。。。まだ臭いな。」
憮然と、兄が髪の毛の匂いを嗅いで、気の毒そうに呟いた。
兄の横には、黒い砂漠の服を汚してしまい、テオと同じく清められて、それしか在庫がなかったのだろうぶかぶかの神殿の乙女の服装の、地味な娘が、半分泣きそうになりながら謝っていた。
(これが。。?)
「テオ、悪かった。私からも謝罪する。私が転移魔法に集中していなかったから、揺れがひどかったんだ。」
「テオ様、本当にごめんなさい。足元に人がいらっしゃるなんて、知らなかったの。」
ハラハラと涙を流す地味な娘。
(これ。。。)
出会い頭に頭から汚物を浴びせかけられた、この地味な娘が聖女だというのか。
「。。。。」
テオは言葉が出てこない。頭の中が真っ白だ。
「。。。」
「テオ、紹介しよう。私のつつつつ、妻だ。」
「レイチェル・ジーンです。。。」
この後に及んで、無表情で、だが耳まで赤くなるゾイドを尻目に、ジークは話を進める。
「。。えっと、神殿長を呼んできたから、後は証人になる家族が署名したら、アストリアの法律にのっとって、婚姻が成立するんだけど。。」
壁際で、ものすごく存在感を消しているご老体は、さすが人生の先駆者である。こういう時は空気になるのが一番と、心得ている様子だ。
真っ白になっているテオは、何も言わない。
「あー、二人とも疲れてるし、また今度でいいんじゃないすかね、殿下」
アッハッハ、と白々しく、わざとらしく笑うルイス。この男、空気を変えようと、無理やり明るく振舞う。できる部下の鏡のような男だ。
「どうしたんだゾイド、転移魔法に集中しろよ!あんなに荒い術式でレイチェル嬢を連れて帰ったお前のせいだ!」
ルイスは空気を軽くしようと、パンパンと友の肩を軽く掴んで、今度は困った男の怒りの導線に火をつけてしまったらしい。
「そうだ!!!!ユーセフのやつ、畜生、八つ裂きにしてやる!私の大切なレイチェルにちょっかいばかりかけやがって。。。!!!」
(ユーセフ第一王子の事かと、転移門の送り主ですよ。)
ローランドがジークに耳打ちする。
名を呼び捨てにするほどの仲になっているらしいが、察するに、この男がレイチェルにちょっかいをかけて、ゾイドの怒りを買っているらしい。
「ゾイド様、落ち着いて!」
レイチェルはおろおろと、ゾイドの腕にしがみついて、ゾイドを落ち着かせようと右往左往だ。
さっきまで怒り狂っていたゾイドが、今度は溶けそうに甘い瞳でこの地味な娘を見つめ、心配してくれてありがとう、と宝物のように小さな手を握りしめる。
テオは顔を上げて、少し驚きながら、ぼんやりと尊敬する兄と、そしてその横に立っている、大切な人を眺めた。
兄が感情を表すことは、滅多にないのだ。
黒い砂漠の服を着ていた時はわからなかったが、清められて、ぶかぶかながらも神殿の乙女のドレスを(実際、一応レイチェルは神殿の乙女だ)纏ったレイチェルの姿を、ようやくきちんと、テオは視界にいれた。
。。信じられない。
胸元には、フォートリーの婚姻の錠の魔術のかかった大きなサファイアの首飾り。兄の魔力がじっとりと漏れ出している蝙蝠石の首飾り。。兄が大切そうに握り締めているその小さな手には、魅了の魔術で妖しく光が蠢いている、赤い竜のから取り出した至宝の石でできた、赤い指輪。
「ふふふふふ、不潔だ!!!」
ブルブルと震えながら、今度は、先ほどまで茫然と空を見つめていたテオは、ガバリと体を翻して、レイチェルとゾイドの二人から離れる。
「こ、ここ、この女、不潔だ!!あく、ああ、悪女だ!近づくな!」
レイチェルを指差して、そして、キエエー!!!と火を食べる鳥のごとく奇声を発すると、全速力で出口まで走る。
「あ、兄上、離れてください、ここここの女は不潔だ!!!」
「テオ、いくらお前でも言って許される事ではない。その口を凍らせるぞ。」
静かに表情の見えないその顔を、テオの方に向ける。
「兄上!兄上にき、き、キキ嫌われた!!あの女のせいだ!!きえー!!』
脱兎のごとく神殿を走り去ってゆく、その背中をレイチェルは、びっくりして、固まりながら見送る。
「ええと。。。」
混乱しているレイチェルに、ゾイドが長いため息をついて、こう説明した。
「。。あれは、私の弟、テオドア・ド・リンデンバーグ。ちょっと極端なところがあるのだが、悪い男ではないのだが。。。」
ローランドが続ける。
「レイチェル嬢、テオはギムナジウムの排出した最高の頭脳と言われていて、この国の頭脳集団の中枢にいるような、優秀なお方です。ただ、ちょっとクセが強いのと、ゾイド様への偏愛が激しくて。。」
ルイスも続ける。
「ああ、本当に悪いやつではないんだ。ちょっと極端に、潔癖症なだけで。いろんな意味で潔癖なんだよ。。。清潔好きを通り越し気味というか、男女関係も、融通が効かないというか、なんというか。。」
口々に、なんとも面倒臭そうな言い回しで、テオドア青年を庇う。
「まあ、レイチェル嬢には研究協力を仰ぐ必要があるから、テオもそう失礼な事はしないと思うのですが。。」
ゴニョゴニョと、ローランドがつぶやく。
「研究協力?テオ様は何を研究されているの?」
ゾイドは、レイチェルにまっすぐ見つめてもらって、嬉しくてニヤニヤしながら、こう答えた。
「竜ですよ。北の大国に派遣している竜騎士の部隊と一緒に研究者として随行していました。今回メリルがアストリアに来るので、一隊ごと呼び戻したのです。」




