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レイチェルの調子ハズレの歌が天幕に響く。
全く深い意味もない流行りの旋律に歌詞だ。
ゾイドはこの歌がやけに気に入って、時々レイチェルに歌って欲しいとねだるのだ。
しょうがないわねと、ちょっとはにかんで、嬉しそうにレイチェルは愛しい男に歌ってやる。
レイチェルの耳元でゾイドが何かを囁いた。レイチェルが真っ赤になる。
ユーセフの心は緩む。
ゾイドは満足そうに目をつむる。
どさくさに紛れてしっかりとレイチェルのその細い腰を抱いて、ちょっと胸元を悪い手つきで触ったりしてレイチェルに叱られたりして、嬉しそうだ。
この砂漠の偉大なケマル・パシャは、この地味な娘の前では、実に表情豊かで、実に聞かん坊で、この上なく、幸せな、恋する青年に戻る。
レイチェルは、呆れながらも膝から離れないゾイドの銀の髪を撫でながら、針仕事を始める。
宦官の下穿きに、刺繍を施しているのだ。
ゾイドは、うっとりとその指先の技に魅入られている。
。。何も、怖い事は、起こらない気がする。レイチェルといると、明日はいい日になる気がする。。
「ゾイド、大切なレイチェルが、他の男の下穿きを縫う事を禁じたりはしないのか?」
近くで仕事をしていたヤザーンが少し、歩みを止めた。
愛する娘が、男の下穿きを縫うなど、それも異国の宦官の下穿きを縫うなど、ユーセフならば、妻達には、決して許さないだろう。
ゾイドは真っ直ぐ、(だがレイチェルの膝の上から、)ユーセフを見て言う。
「お前は愚かだな。私は行幸な事に、この天使の側にいる事を許されただけのただの下僕だ。レイチェルがその心で、宦官の下穿きを縫いたいと望むのならば、私はその望みをかなえるべく、全力で力になるだけさ。」
そうだろう、私の天使?
そうゾイドは頬に口づけをしながら、糸切りハサミをレイチェルに手渡してやる。
レイチェルはさも当然の様に、偉大なパシャから、ハサミを受け取る。
溶けた宝石の様に美しいゾイドの笑顔を真っ直ぐに向けられていると言うのに、レイチェルは魔術の方が気になるらしく、ちょっと頬を赤らめたが適当にあしらって、糸の処理に集中している。
ヤザーンは歩みを進めた様だ。
ユーセフはため息をつく。
。。どうやら、根本的に、私は愛と言うものについて、何か大きな間違いをしていた様だ。
20人も妻がいても、ゾイドがレイチェルに向ける愛と同じ種類の愛を交わした妻は、いなかった。己の愛を、妻達には、何かの褒賞のように与えていたと、今おもう。
ゾイドのレイチェルに向ける愛は、そうではない。
だから、ゾイドは、この稀有な娘の、レイチェルの愛を、勝ち取ったのだ。
レイチェルは、そのため息に気がついた。
ユーセフが一人で不安を抱えて、辛くなっているのではないかと、優しい娘は心を向けたのだ。
レイチェルは針仕事を片付けると、いつもヨルにねだっていた、スミレの砂糖漬けの入った飴玉と、それから子供の使う様なすごろくを持ってきて、小さな少女が少年を誘う様に、あどけない笑顔で言った。
「ねえ、ヨル、私たちと一緒に遊びましょう?」
そこから3日間。
砂漠の第一王子、ユーセフは、生まれて初めて、年相応の青年の様な、暮らしをしていた。
ゾイドと魔術談義を交わし、レイチェルにすごろくを教えてもらい、3人でカードゲームをして、レイチェルを二人して連続で負かしてしまって拗ねられて。
夜になると、火を囲んで、一般の兵士達と一緒になって、酒を飲みながら順番に話を披露する。
馬の世話役の一人が、とても上手に怪談ができる事を、初めて知った。
兵士の一人が、失恋したらしいが、破れると知っている恋に、勇敢に立ち向かった勇者である事を、初めて知った。
ヤザーンが、実は乙女の様にロマンチックな一面があることも、初めて知った。
ユーセフは、この3日間、ただの「ヨル」だった。
「ユーセフ」を囲む大勢の人々にはそれぞれ物語があり、苦しみも悲しみも、そして喜びもある、何もユーセフと変わる事のない、一人一人の人間である事を、ユーセフは今、ようやく知ったのだ。
ユーセフは、幸せだった。生まれてはじめて、孤独ではなかった。




