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まだ端の処理もできていない、ほつれた糸も所々にある、レイチェルの絨毯を手に、ゾイドと、レイチェルと、そしてユーセフ、ヤザーンはキャラバンを引き連れて、砂漠にきていた。
馬に乗れないレイチェルは、ゾイドと同乗しているのだが、この困った男は、無駄に大変手先が器用だ。ここの所、レイチェルを膝に乗せながら、その髪をいじることの喜びに目覚めたらしく、レイチェルの髪は今日も見事な編み込みがされている。
砂漠の服に、見事な編み込みの入った髪、赤い妖しい秘宝を指に飾り、服に隠れて見えないが、その胸元に城が一つ立つほどのサファイアを身につけて、レイチェルはさながら砂漠の古い夢の様だ。
ユーセフの竜の軍の中で、まだ命が朽ちていない卵がある、竜の巣がある。
ユーセフは、竜の住処の前までたどり着くと、ひらりと馬の背から降り立つと、独特の節のある、不思議な音の口笛で、竜達に話を始めた。
その音は、どこか哀愁のある、優しく、心の柔らかい部分に響く様な音。何もない砂漠の真ん中で、四方に響き渡る。
「。。綺麗。」
うっとりとレイチェルが呟いた。
この男は、本来は、「ヨル」の様に柔和な男なのだろう。
そしてヤザーンは、馬の背に乗せていた絨毯を、砂漠の真ん中に広げ、そして砂漠の酒を取り出して、空の神と、砂漠の神に、捧げた。
ヤザーンは、砂漠の神に仕える民族の出だ。砂漠の神を誰よりも愛し、誰よりもおそらく、理解しているのだ。
あとは、竜がこの絨毯を受け入れて、卵を預けるか。
ユーセフの呼びかけに答えるかの様に、一頭のメスの竜が岩場から飛び立って、空を旋回しだす。
竜は大変頭が良い。
そしてゾイドの姿を確認し、魔力の花をねだる様に、ゾイドの周りをグルグル旋回する。前にゾイドが魔力を与えたときの事を覚えているのだ。余程気に入ったらしい。他の竜もゾロゾロと岩場から出てきた。
ゾイドは小さく詠唱すると、竜の群れに、魔力で作った小さな花を投げかけてやった。
喜ぶ竜達の間で、ユーセフは、ゆっくりと魔力で絨毯を浮かせると、最初のメス竜の前にたち、また、哀愁のある、深い音程で語りかけた。
メス竜は、何かを理解したらしい。
絨毯を爪にひっかけて受け取ると、巣にもち帰る。
そして、卵をその絨毯の上においた。
卵の周りには、他にも、綺麗な色の石や、ヒースの花、様々なガラクタが置かれてあった。
竜なりに、命の息吹が芽を出さない事態に、なんとかできないかと工夫をしていたらしい。
「。。うまくいけば、風が吹いてから三日ほどで孵化する。」
部下達にテントの設営を命令し、この自信家の男にしては大変珍しく、不安の表情を隠さない。
これが、ほぼ最後の希望の綱だ。
もしも上手く行けば、後数百年の間の、「アッカ」の神がまた姿をあらわすまで、その間であっても、絨毯の上では少なくとも、竜の子が生まれる。
体力のない、引きこもり令嬢は疲れてしまって、設営されたテントで食事をした後は深い眠りについたが、砂漠の男達は眠ることなどできはしない。
皆、言葉もなく焚き火の周りを囲み、長い夜を、砂漠の七連星を眺めて過ごしていた。
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「。。眠れませんか。」
夜も深くなった頃、ユーセフは一人でテントを外れ、一人で夜空を眺めていた。
後ろから気配もなく声をかけたのは、ケマル ・パシャ。
砂漠の大恩人にして、偉大なパシャだ。
銀の髪は月光の矢の様に輝き、赤い目は、闇の中で煌々と光り、まるで七連星の、最も強く輝く星の様だ。
。。。悪魔の様に美しい男だ。恐ろしくなるほどに。
ユーセフは振り返る。
「。。竜は、私にとっては、兄弟の様な物なのですよ。」
ユーセフは、誰かと話がしたくなったらしい。
珍しく自分の事を話す。
「32人の弟妹がいるのですがね。生き残ったのは私を含め、11人だと記憶しています。」
「。。。皆、殺されたと。」
「そういうことです。」
この男は、察しがよい。ユーセフは自嘲気味に、笑う。
「すぐ下の弟とは仲が良かったのですが、王位を狙う危険があると、私の母が始末しました。その下の弟は、他の兄弟に始末され、その弟を始末した兄弟は戦場で首を刎ねられ、それから、」
指を折りながら数えて、途中でやめた。
「。。私は砂漠の第一王子などとご大層に呼ばれていますが、実際は常に危険に晒され、重責を担い、誰も信用はできず、という生活だったのですよ。ただ、竜達は違う。いつでも自由で、気高くて、そして強い。私は子供の頃から、竜と話ができたのです。竜達は私の、唯一の友でした。」
「竜にとっては人間など、とるに足らない生き物です。砂漠の第一王子などと呼ばれて、多少高い魔力を持ち合わせている私など、竜にとっては虫けらと、虫けらの王の違いにしか見えないでしょう。」
ユーセフは、砂漠の未来を憂う砂漠の第一王子として、そして、何よりも、竜の、兄弟達の苦しみを憂う、ヨルとして、強く心を痛めていたのだ。
ゾイドは、ゆっくり口を開いた。
「。。貴方にとっての竜は、私にとっての魔術なのでしょう。美貌、才能、家柄。財産。近づいてくる人間は、全て、私の持つそのどれかに、ウンザリするほど簡単に惹かれて、やってくるのです。くだらない物に私は飾られて、身動きも取れない。人など興味もないのですよ。学問も、出世も、人の心も、何もかも虚しい。何もかもがあまりに容易なのですよ。」
ユーセフは、少し身を乗り出した。
この傲慢としか聞こえないゾイドの言葉は、ユーセフには、おそらくユーセフにだけは、共感ができたのだ。
「だが魔術は違う。どこまでも深く、どこまでも高い。手が届いたと思ったらまた遠くに行ってしまい、魔術の前では、何もかもが等しく尊い。魔術以外のこの世の全てが、馬鹿馬鹿しく思え、気がついたらこの有様です。」
ゾイドは、ユーセフの顔を見た。
一瞬二人の間で、言葉なく、時が止まった。
妙な顔でお互いを見つめて、それから、次の瞬間。
「「ハハハハハ!」」
二人して、弾ける様に爆笑した。
通じてしまったのだ。
全てを持つものだけが知っている悲哀と孤独を、雲の上の高みにいる者にしかわからない絶望を、二人とも分かち合ってしまったのだ。
ユーセフは、笑いが治ると、素直にゾイドに向き直って、丁寧に頭を下げて、言った。
「パシャ。レイチェル嬢については失礼な事を。無礼をお許しください。」
指輪と、それにかけられた魔術の事を言っている。
もちろんゾイドは察している。
これはユーセフの降参宣言だ。
ゾイドほどの男から、その愛しい娘を横取りできる訳がない。ユーセフは、大人の男だ。引き際をあやまるほどには若くはない。
「。。レイチェルは、魔術の様な娘です。どこまで追いかけて行っても、届かない。知ったと思ったら、何も知らない事を知っただけだった。」
うっとりと笑顔を浮かべながら、ゾイドは続けた。
「。。レイチェルは、可愛い娘でしょう。」
「。。ええ、卑怯な手を使ってでも、手に入れたくなりました。あの娘の前にいると、竜の前にいる様で、本当に安らぐ。ただの、何も持っていない、少年の頃の自分に帰れる気が、するのです。」
「20人も奥方がいても、ですか。」
「20人もいても、です。どの妻も、レイチェルではない。」
少し苦しそうに、ユーセフが言った。
恋に敗れた痛みは、この砂漠の大国の第一王子と呼ばれた男にも、全ての男と等しくおとづれるのだ。
そして苦笑しながらユーセフは続ける。
「パシャ。貴方が心から羨ましい。貴方に嫁ぐのに、見合う何も持っていないからと言って、せめてもと、砂漠の習慣に従ってレイチェルは絨毯を織っていたらしいのですよ。」
そして、そんな乙女の祈りの詰まった絨毯が、今、砂漠を救おうとしているのだ。
この大陸の全ての力を一身に持つかの様な男は、何も実は、持っていないのだ。
苦しそうに、一つため息をついた。
ゾイドはユーセフが何を言いたいのか、よく知っている。
レイチェルを手に入れるまで、ゾイドは自分が何一つ持っていないということにすら、気づかなかった。
月が中天に上がってきた。
ギラギラと砂漠に輝く月は眩しすぎて、もう七連星は見えもしない。
ゾイドは、ユーセフに近づいて、恋に敗れた、甘い痛みに体を任せているこの男に、素敵な提案をした。
「ユーセフ様、今日は私と酒を酌み交わしませんか。アストリアから良い酒を持ってきています。」




