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ファティマの失った故郷は、元は木々の生い茂る、断崖の谷間にある美しいオアシスだ。
砂漠の神である、直接に訳すると、「名を呼んではならない」という砂漠語の呼び名で、「アッカ」としか呼ばれない、鹿のような姿の神の、住う場所とされていた。
王宮の入り口にも、その姿は掲げられてあったが、その存在も、その名も誰も口にする事は無い。
緑の宝石と呼ばれていたその谷間のオアシスは、今やヒースのみ生茂る、人の一人もいない荒地だ。
ファティマの父は、その聖地を守る、守護者の王として君臨していたのだ。
「竜に、命を授けるのが「アッカ」。竜の子が生まれる時に、砂漠を駆け抜けて、命の風を起こすのです。」
ファティマと、小さなキャラバンを組んで、ラクダでの旅を初めて一週間。
ようやくその悲しい荒地にたどり着く。
元は大変美しい土地だったのだろう。黒く濁った泉と、焼け跡がある岩場が痛々しい。
砂漠に飲み込まれて沈んでゆく、破壊された、壁の彫像が美しい建造物の跡が、砂漠の蜃気楼のごとく、夢の名残を示していた。
今は、ただヒースが生茂る。
「甘く、冷たいその風が吹き抜けると、竜の卵が孵化します。」
ファティマは、二人だけで、とゾイドを崖の谷間の奥の、洞窟に誘った。
ファティマの従者は、全てこの国の生き残りという。
褐色の肌を持つ、屈強な男達は、ファティマをまだ亡国の主人の娘と認めているらしい。
ここにゾイドが案内される意味合いを知っているのだろう。
皆、思い詰めた様な、苦しそうな、そして痛ましい顔で、ファティマとゾイドを送り出した。
ファティマによると、ここに、アッカ、の神殿の跡があるという。
洞窟の入り口はほとんど外部からはわからないほど狭く、体を折って入らなくては行けないほどであったが、
中は、広く、暗く、静まりかえり、そして冷たい空気が肌に心地よかった。
洞窟の中をひたすその水は、黒く濁っていた。
清らかな水で満たされていた頃は、どれほど神秘的な場所だったか、思いをはせる。
「攻め入られて、父は祠を壊しました。」
ファティマの声が、洞窟にこだまする。
ファティマは魔術で、青白い光を紡ぎ出し、二人のいく手を照らす。
魔術に反応して、洞窟の発光性のある昆虫が呼応して青白い光を放つ。ファティマは、光魔法の使い手だ。
王国がまだ存在していたのであれば、良き巫女として、アッカの神に仕えたのであろう。
二人の足音と、水音だけが洞窟に響き渡る。
この場所は、おそらくダリウスには知られていなかったのだろう。洞窟は蛮行を逃れ、その美しい姿を保っていた。
どのくらいの時間がたっただろう。
「ここが、神のおわせられた、祠の跡です。」
ファティマとゾイドは、ようやく最奥に辿りついた。
最奥の行き止まりには、無残に破壊された、何かの像の、その形跡と、それを祀っていた祠の跡が、あった。
ーここだけは、時間が止まっている様だ。
ぴしゃん、ぴしゃんと水面をうつ水滴の音が響く。
ファティマは、その美しい指を、破壊された祠の跡に、愛おしそうに滑らせて言った。
「アッカの祠を壊すと、聖なる泉に、黒い呪いの水が流れて、火の神の怒りが発動する様に。」
火の神の怒りは国を埋め尽くし、オアシスの水という水は黒く濁り、火を吹き出して、ダリウスの軍勢は一旦退避を余儀なくされたほどだったと。
ファティマは、溢れる感情を抑える事がもう、できないのだろう。
涙声で、父の犯した罪を告白した。
ゾイドは言った。
「ダリウス王に砂漠の神の聖地を踏み躙られる前に、自らの手で、砂漠の運命を道連れに、それを破壊したと言うことか。」
やはりこの男は鋭い。
悪魔の様に美しいこの男の顔からは、何も読み取る事はできない。
この男が、火の神の正体だとしても、決して驚く事はないだろう。もう、この男にすがるしか、ないのだ。
「。。。ダリウス様に、父が行った事を知られては、私も兄弟達も、外にいる家臣の全ての命はありません。」
今度は、ファティマは、腹から絞り出す様に、そういった。
これが本心なのだ。
王のお気に入り、美貌の寵姫と持て囃されてはいても、所詮は100人を超える王のハーレムの、亡国の王の娘、ただの妃の一人。王のおもちゃだ。
ファティマの首も、その兄弟の首も、王の気分の一つで繋がらなくなる、儚いもの。
「「神」の起こす命の風が吹かなくなったのはそれからです。もう十年あの甘い、冷たい風が吹いていません。」
ファティマは、すっくと、ゾイドに向き合うと、その足元にひれ伏した。
「パシャ、あなたのそのご高名はこの砂漠まで伝わっていました。赤い目と銀の髪を持つ、氷の大魔道士がアストリアにいると。。どうか。どうか。あなたに、荒ぶる火の神を鎮めて欲しいのです。」
なるほど。
ゾイドはようやく合点が入った。
氷の魔術を扱うことのできる魔道士はこの砂漠には稀。ましてや火の神の怒りを、氷にするほどの魔術。ゾイドほどの氷の魔術士は、広い大陸にも、数えるほどしかいない事は、ゾイド本人が一番よく知っているのだ。
「夢見の内容は、私と兄とで考えました。こうするしかなかったのです。私達は、この愛する砂漠を滅すつもりは、決して無いのです。」
そして、最後に、涙を落として、呟く様に、自分に言い聞かせる様に、言った。
「。。ダリウス様を愛しているのです。」
ゾイドはため息をついた。
違う。ダリウスのためでは無い。ましてや己の命が惜しい為でも無い。
何かがこの女を突き動かしている。
「。。ファティマ。その身を異国の氷の魔道士にくれてやってまで、怒れる火の神を氷にした所で、あと数百年、砂漠の神はこの地に戻るまい。あれは気象の神だ。その間、竜は孵らない。何故だ。」
ファティマは、強い光を帯びた目で、きっとゾイドを見据えて、覚悟を決めて、言い放った。
この男に、隠し事は、何もできない。
「ゾイド様。私の腹には、ダリウス様のお子がおります。まだダリウス様は知りません。この子の、またその子の、またまたその子の為に、私は今、全てを賭けて、貴方におすがりしております。」




