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本館の庭は、東館と比べてたら、とんでもないほど広い。
防犯上の理由から、背の低い植物だけが植えられていて、空が広く見渡せる。
本館には、星見の塔もあるのだが、庭師・ヨルとして今日はレイチェルを連れ出しているので、庭の星がよく見える良い場所を案内した方が良いだろう。
今日はレイチェルの絨毯のお礼に、庭師ヨルの、とびっきりの星の見える穴場の場所を案内するという設定で、遊んでるのだ。
レイチェルは気がついていないが、この本館のハーレムに近い方の庭に近づける人間は、限られている。
ユーセフ第一王子であれば、誰の許可もなく、客人を伴って好きな庭に出入りできるのだが、レイチェルが知る由もない。
「ヨル、ちょっと足元が何も見えないのよ。もうちょっとゆっくり歩いてくださる?」
星の観察なので、当然真夜中に、真っ暗な中、二人で広い庭にいるのだ。
レイチェルも若い女性として、少しは男に対する警戒心というものを持ち合わせるべきなのだが、何せ残念令嬢は人を疑う事を知らない。
「レイチェル、危ないから私の腕にしっかり掴まっていて。もう少しで四阿につくから、そこで一度落ち着こう。」
悪い大人、ヨルは、しっかりレイチェルから自分の腕を組ませる事に成功して、大層ご機嫌だ。
この場合はレイチェルからヨルに腕を組んだので、ヨルは無罪。
作戦があっさり成功して、口笛でも吹きたいほどいい気分だ。
なんだかんだ殊勝な思いを持ちつつも、やはりヨルは、結局このウブな娘をおもちゃにして遊ぶことをやめられていないでいる。どうせ責任は持つのだし、それまでは思い切り、遊ぼう。
そもそもレイチェルはいちいちの反応が、可愛いのだ。
尚、ヨル自身は、砂漠育ちなので夜の目がきく。
少ない星明かりだけで、庭に咲いている花の全てが見えるほど、目が良い。
レイチェルは、今晩、ウィルヘルムから贈られた美しい、携帯用の望遠鏡を持参してきていた。
それは薔薇の木製で、一面にツタの金細工が張り巡らされてある、非常に優美で、重厚な作りになっている。
片手で持てるくらい小さいながらも、複雑な遠見の魔術のかけられている、ウィルヘルムらしい贈り物だった。
ヨルに手をとって暗闇を誘導してもらい、四阿にようやく到着する。
正直ここまでたどり着くには、かなり遠かった。
砂漠の夜は冷え込むし、ヨルの暖かい手に真っ暗な中を導かれると、この男に全てを委ねていれば、何もかも上手くいくと安心してしまう様な、そんな気がする。
手元を照らしていた小さな明かりの芯を短くする。
オレンジ色の眩しい光は姿を潜ませ、代わりに満天の星空が、晴れ渡った空に広がった。
「綺麗。。!」
鈴なりの星々。フルフルと震えて空から果物の様に落ちてくる流れ星。
生まれて初めてレイチェルが見る、満天の砂漠の星空は、どんな宝石よりも、どんな織物よりも美しかった。
レイチェルは一しきり星の美しさに心をやると、コンパスを取り出した。
今日の目的は、砂漠の赤い七連星の位置関係と、角度の観測。
「ああ、君は北の星だけを頼りに角度をとっていたのか。そうではなくて、北の星の右側にある青い星との真ん中の場所を測るといい。そうしないと年に何回か角度が変わる。」
ヨルは、確かな手つきでコンパスや分度器の角度を合わせ、そして周辺の星々の特性や、観測の注意点など、レイチェルの知っているどの本にも載っていない、学術的に重要な知識を授けてくれた。通りで、出力がうまく行かなかった訳だ。
庭師の知る天空の知識にしては、学術的に深すぎる様にレイチェルには思えるが、この国ではそういうモノなのかもしれない。
レイチェルは黙ってヨルの言う事を聞いて、星々を丁寧に測り直す。数度の違いが、魔力の出力の大きな違いとなるので、正確さが重要なのだ。
観測の間、ヨルはずっと、レイチェルの肩に手を回して、一緒に望遠鏡を覗いていた。
この望遠鏡の扱いも、どう言う訳かヨルは手慣れている。
まるで日々、複雑な遠見の魔術の施された望遠鏡を使っているかの様な慣れた手つきは、少し不思議だった。
遠見の魔術の施されたものは、望遠鏡の中でも非常に貴重なものだと、レイチェルは聞いていたからだ。
肩に感じるヨルの大きな手に、レイチェルは少し、男女の間の距離としては、ヨルとの距離が近すぎる、とは思ったが、真夜中の暗い庭だと言う事もあり、また、ヨルの高い体温がとても心地よかった事もあり、その距離を受け入れてしまっていた。
何せ何も見えないし、砂漠の人々は、そもそも距離が近い。
「。。さあ、これで観測は終わりよ。ヨル、本当にありがとう。明日から新しい絨毯を織るわ。今度は魔術が発動する様にしてみるの。」
レイチェルは手元の明かりを手繰り寄せて、全てを記録すると、ようやくヨルの方向に向き直って礼を言った。
こんな夜遅くまで付き合ってくれて、持つべきものは良い友だ。
「それは、楽しみだね。次の織物は、君の夫となる人のものだ。素敵なものを織るといいよ。」
「あら!砂漠の風習は、聞けばきくほどロマンチックね。私、頑張って織らないと。」
二人で笑い合うと、レイチェルは、望遠鏡と書き付けをしまう。
今日はこれでおしまい。
明日からの新しい織物の事で胸がいっぱいだ。
ヨルが荷物を持ってくれて、そのまま真っ暗な四阿の階段を降りた。
明日は図案を起こして、それからその後は糸を選ぼう。何せたくさんの糸が部屋にはあるのだ。今度は赤い色にしようかしら。
レイチェルが心を躍らせていた、そのとき。
「きゃあ!」
レイチェルは、どうやら四阿の階段で、蔓か何かに足が引っかかって、つまづきそうになったらしい。レイチェルは本当に鈍臭いのだ!
真っ暗で何も見えない。落下点に固いものが落ちてないといいけれど!
「レイチェル。」
目をつぶって覚悟をしていた、落下の衝撃は、やってこなかった。
その代わりに、何も見えない中、ヨルの二つの腕が、レイチェルの背中に回されているのを感じた。
ヨルがいると、やはり安心だ。
ヨルはしっかりと胸で抱きとめてくれたらしい。レイチェルを受け止めるために投げ出された手元の明かりが、光を失って闇の中に消えた。
「あ、ありがとう、ヨル。。」
ヨルの髪が頬に触れた。
ヨルが腕を離す気配はなかった。確かめる様にその大きな両方の手で、暗闇の中、レイチェルの華奢な背中を探った後、ヨルの肌の香りが直接感じるほど、グッと、近くに抱き寄せられた。
決して知り得なかった、白いゆったりとした、砂漠の服の下にある、硬くて、厚い胸板。
鼻腔をくすぐるのは、甘ったるい砂漠の水タバコの香り、薔薇の香り、くすんだ香木を焚きしめた香り。そして、この男の持つ、獣の様な肌の香り。
。。確かこの香りの香木は、砂漠でも、高貴な人にしか許されていない香のはず。
「。。ヨル?」
レイチェルを抱きしめるその腕の力が強くなる。
レイチェルからは何も見えない。
「。。レイチェル。可愛い人。」
むせ返る様な強い、男の肌の、獣の様な匂いが近づく。
唇に、何か柔らかい感触が押しつけられた。
真っ暗だ。何も見えない。何が起こったのか、何かが起こったのか、レイチェルにはわからない。
ヨルはそのままレイチェルの体をゆっくりと横に抱きあげると、低い声で、レイチェルの耳元でくすぐる様に、優しく囁いた。
「レイチェル、危ないからこのまま東館の君の部屋まで運んであげるよ。もう夜も遅いし、疲れただろう?このまま眠ってしまえばいい。」
そうして、何事もないかの様に、レイチェルを横に抱いたまま、ゆっくりと庭の奥へと、歩みを進めてゆく。
何か言おうとして体を硬くしていたレイチェルに、その髪を指でゆっくり梳きながら、
「大丈夫、大切な君をどこにも落としたりしないから、ゆっくり、安心して眠るといい。」
絶対に大丈夫なわけがない。
若い男が、暗闇でレイチェルを横抱きにして、髪を触りながら人気の無い庭を歩いているのだ、そんな状況、どう考えても安心などしては絶対にいけないのに。
レイチェルは、ヨルにそう言われると、安心してその胸で、眠っていい様な気がするのだ。
先ほど唇に感じたのは、なんだったんだろう。
。。。一瞬ヨルの瞳に宿った光は、なんだったのだろう。
ぼうっと考えていると、催眠術にかかったかの様に、うつら、うつら眠気が差してくる。
そして安心しきってしまっていたレイチェルは、この危険な男の胸の中で、無防備にも子供の様に、眠りについていた。




