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ヤザーンから受け取った、四角に小さく折られた、レイチェルからのメッセージを読んだゾイドは、この感情の読めない男には珍しく、不機嫌を隠そうともしなかった。
ヤザーンは相変わらず、お元気にされておりますとしか教えてくれない。
「何も必要なものはありません。お気遣いに感謝します。」
完全な、業務連絡の返事。
少し砂っぽい、白い紙に書かれていたのは愛おしい娘の、几帳面な字に間違いはないが。
そうではなくて、こう、愛の言葉が感じられる匂いが欲しかったのだ。
セスにからかわれる。
「そんなにレイチェル様の事がご心配なら、お呼びになるか、東館までお訪ねになれば良いではないですか。すぐ目と鼻の先においでになるのですから。」
用事はない。ただ会いたいだけなのだ。
ゾイドは、緑の豪奢な椅子に体を沈めさせる。
金のタッセルが重そうに揺れて、重い薔薇の香りがあたりを埋める。
ゾイドはレイチェルの、爽やかで甘い、メリルの花の香りが恋しくなって、ため息をつく。
分刻みで予定が刻まれる中、ゾイドが東館に訪問するとなると、東館の主に挨拶をして、歓待を受けて、議論を交わして、と言う一連が待っている。
呼びつけるとなると、今度は王が送ってよこす寵姫を断っている手前、非常に面倒な言い訳を、山ほど用意しなくてはいけない。
最近は、あまりに女性を寄せ付けないのでそちらの方が好きかもしれないと思われたらしく、美少年まで寝所に送られるようになった所だったのだ。
本当に勘弁してもらいたい。一目恋人に会いたいだけなのだ。
(レイチェル。。)
「パシャ、西の国の大使とのチェスのお時間です。」
容赦なく次の外交の時間が迫ってくる。
レイチェルの事は、一旦心の奥にしまい込んで、使節団の代表としての顔を作り直す。
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レイチェルにユーセフが近づいたのは、もちろんレイチェルを探るためだ。
話を辛抱強くじっくり聞き出していたのは、あの妙に高度な魔術を使いこなす娘に対して、警戒していたから。
親切心でも、同情心でも、友情でも勿論ない。
そもそもこの国では、女性が魔術を扱うなどありえない。高度な魔術の専門教育が与えられるのは、全て高位貴族の男性に限られている。ユーセフもその一人だ。
レイチェルは間諜の類だと思っていたのだ。
レイチェルの危険度は低いことは、初日で呆気ないほどすぐに分かった。
この娘、まず魔力がほぼない。
その上、人を疑う事を知らない。
おしゃべりも好きだし、こんなに何でも思いつく限り話をしていては、間諜としても、侍女としてでさえも失格だ。
地味な見かけで、色仕掛けも使えなさそうだ。
この娘曰く、実家の隣にあった史料館の蔵書で得た知識があるだけで、魔術はただの趣味だと。
気付かれない様にレイチェルの魔力の量を探ったが、まだ2歳の、一番下の娘より魔力は下らしい。
笑えるほど何も感じなかった。
いかにも危険がないことが証明されたレイチェルの元に、ユーセフがずっと”ヨル”の振りをし続けて、日々通い詰めているのには、理由があった。
レイチェルの、魔術の話が異常に面白かったのだ。
ユーセフは砂漠の王の第一王子だ。
砂漠の魔術や術式において、右に出るものはいない。
その素晴らしい能力を、灌漑施設の運用や、龍の軍団の訓練に利用してきた。
レイチェルは、ユーセフの使う様な複雑な術式を組み立てる知識を持ち合わせている。
砂漠の大国でも、これほどの深い魔術の知識を持ち合わせている人材は、そうはいない。
そうでおきながら、その宝のような知識を、ユーセフからすると心から下らない事に使うのだ。
娘の膝に使った術式にも度肝を抜かれたが、風呂場の足拭きに開発した、ヘラルド用の特別な消臭の術式の話など、術式の内容を聞いてのけぞった。こんなくだらない事に使った術式は、贅沢にも程がある豪勢な術式だったのだ。
他にも出るわ出るわ。
時々侍女達に縫ってやって、惜しみなく分けてやっている小物を見たことがある。
施された術式の見事さに、めまいがするほどだった。
聞けば聞くほど、面白くてやめられないのだ。
庭師の”ヨル”として接している以上、魔術の専門家としての質問はグッと我慢しているが、何度も話を聞いている最中、椅子から転げ落ちそうになった事を、レイチェルは知らない。
今日のパンが美味い、というくらいの熱量で、とんでもない魔術の術式の話をするのだ。
身分の低い地味なこの娘が、パシャの侍女として砂漠に来ている理由はこれだろう。
実際に盗聴の術式を看破するほどには優秀だった。
庭師のフリが存外に楽しかった事もある。
このぼうっとした娘は、ユーセフの妖しい美貌に対しても、特に何も思うことがなかったらしく、男女としてではなく、友人として接してくれる。
架空の”ヨル”と言う庭師の男の、故郷の話など、凝った設定を考えてみたり、小道具を用意したりするのが、この砂漠に退屈した高貴な男の、毎晩の楽しみになっていた。
ヨルでいる間は、王子としての責任や重圧から全て自由なのだ。
ただのアストリア語ができる、ちょっとレイチェルに甘い庭師の友人。それがレイチェルの前での、ユーセフ。
ユーセフ第一王子の顔を知らない人間など、外国の客くらいしかいない。
何も知らない、外国の娘で遊んでいるのだ。
色々辻褄があっていないはずの設定だが、人を疑う事を知らないこの娘は、庭師のヨルの言う事を、簡単に信じ込んでくれた。
胸の病気と言う設定にしておいた、空想上の下の妹に、レイチェルはたいそう心を痛めて、少し楽に呼吸ができるように術式を組み込んだ、絹のスカーフを縫ってくれた時には、流石に、この趣味の悪い遊びの相手をさせている事に、申し訳なく思ったものだ。
(いつか、”庭師ヨル”ではなく、”魔道士ユーセフ”としてあの娘と、是非詳しく魔術の話がしたい。。)
ヨル、としてレイチェルの友人というこの可愛い関係を続けたいと言う欲と、ユーセフとして、魔術の専門家としての会話を戦わせてみたいと言う欲。
そして、もう一つの欲が頭をもたげていた事に、この聡明な男は気がついていた。




