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几帳面に白い小さく折り畳まれた紙には、
「元気です、ゾイド様どうぞお仕事頑張って」
それだけ走り書きされていた。
ゾイドはひっくり返してみたり、意味もなく魔力を当てたりしてみたが、書かれていたのは本当に、ただそれだけ。
使われていた紙も、何の変哲もない、この国で、覚え書きに使う普通の紙。
ヤザーンに様子を聞いても、
「お元気に過ごされます」
それだけで、ヤザーンは何故か、あまりレイチェルの話をしたがらない。そもそもヤザーンは忙しい。
ガートランド到着から一週間、朝もなく昼もなく、アストリア返礼使者団への、ダリウス1世のもてなしは続いていた。
異常なほどの歓待ぶりだ。
アストリア国にとっては大変な行幸であるし、ゾイド個人にとっても素晴らしい知識の会得の機会だ。
砂漠の賢者達と議論を交わすのも、情報が入ってこなかった砂漠の向こうの西の国々の政情も実に興味深い。
ある日には、砂漠の数学者と意見を交換しあい、今までにない新しい数式の発見に至った。
帰国後、共同名義でこの数式の発見を世に発表する。
ダリウス自身も非常に有能な男で、灌漑施設の仕組みなどの議論を戦わせ、話しの尽きる事はつきなかった。
もちろん、ダリウスも、聞きしに及ぶ”パシャ”の深い知識と、そしてアストリア王の側近達の知見に実に強く感動し、今まで小国と侮っていたアストリア国への印象を改めていた。前回、このように密な両国の交流があったのは、ダリウスの祖父の戴冠式以来で、その際の何かの取り決めで、細々と両国の交流が始まったのだ。
ゾイドは日々、両国にとり、大変有意義な時間を過ごしていたのだ。
そう言ったわけで、ゾイドは未だにレイチェルと二人の時間どころか、一人になる時間すらとれていなかった。
夜ですらも、王のありがた迷惑な計らいで、寝所にハーレムから美しい寵姫まで遣されてくるようになったほどで、この計らいを、事を荒立てずに、寵姫の名誉を守りつつも断る事は、大変な至難であった。
あまりにレイチェルの音沙汰がないので心配が募り、ヤザーンに、レイチェルへのメッセージを渡して、必ず返事を持ち帰るように命じて、ようやく持たされた一週間ぶりの知らせが、これだ。
間違いなくレイチェルの手書きだが。
(。。私が欲しいのは。寂しいわ、愛してるわ、とか。そういう類いのだ。)
ゾイドはため息をつく。
ちなみにゾイドが渡したメッセージも、この感情表現に問題のある男らしく、
「元気にされていますか、貴女に会いたい。」
たったのそれだけだったのだから、文句を言う筋合いはないのだが、それにしてはさっぱりしすぎてやしないか。
まあ、個人のメッセージの内容の秘密に、価値の重きを置いていないこの国では、メッセージを手渡した瞬間に、目の前で中の内容を確認されてしまうので、恋人の睦言みたいな内容は書けないのだが。
それにしても、だ。
ゾイドはまた、ため息をつく。
アストリアを立って今まで、全くレイチェルが何を思い、考え、どうこの外国の地で過ごしているのかわからない。
魔術でレイチェルの様子を探ろうかと思ったが、第一王子のハーレムに術式をかけるなど、大事になりかねない。
ゾイドはアストリアの使者として、そして学者としては、大変充実した日々を、そして一人の男としては、これ以上ない空虚な心の日々をおくっていた。
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一方のレイチェルは。
もちろん、この降って湧いた災難のようなゾイドの結婚話に、レイチェルは深く傷ついていた。
当たり前だ。
婚約者が他の女性と、望まぬ結婚を強いられているのだ。
ゾイドの心を思って、この優しい娘は傷ついていたのだ。
恋人を失う、己の心を慮ってではなくだ。
だが。
砂漠の旅で、どんどんとその才覚をかの国に認められて、どんどん丁重な扱いになってゆくゾイドは、誇らしかったけれど、レイチェルの事など昔に忘れたかのように大勢の人々に囲まれてゆき、立派な扱いになってゆくゾイドが、どんどん遠くなっていくようで、寂しかったのも事実だ。
砂漠の男達のレイチェルの扱いは雑だった事も、もちろん少しは悲しかった。
かの国からは、レイチェルは、一人前のアストリア使節団の一人として扱われずに、いつも蚊帳の外にいた。
悪意ではなく、文化の違いに根差す扱いである事は頭ではわかっていたが、感情は別物だ。
ゾイドが砂漠の男達のレイチェルの扱いについて、強く抗議ができないのも、摩擦を避けたい使節団の団長として当然だ。
分かっているのだ。
レイチェルにだって、残念令嬢ながらも矜持があるのだ。
恋人としてのレイチェルの存在が、ゾイドの負担にしかならない状況ならば、せめて少しでも部下として、アストリア国の為、ゾイドの為になろうと、一生懸命に己の感情を殺して、仕事人として、任務を務めていたのだ。
王宮に到着して、アストリア返礼使節団から一人、引き離された。
レイチェルは文句の一つも言わなかった。ゾイドの負担に、なりたくなかったからだ。
信じられない事に、それから、一週間も、アストリア側からなんの音沙汰もなかった。
ようやくゾイドから連絡があったのは、たったの。たったの一言。
「元気にされていますか。貴女に会いたい。」
愛してる、でも、一人にして悪い、でも、抱きしめたい、でも、なんでもない。
レイチェルは忘れられてはないらしいが、これはただの生存確認のようだ。
ゾイドが寄越したメッセージには、美しい金の縁取りのある、厚い紙のカードで、(実家が紙の卸しを生業とするレイチェルの目からみて、最高級のものだと思われる)そして、この国で女だけが香水に使う、薔薇の香りがほんの少しした。
アストリア返礼使節団は大変歓待されている模様だ。
赤い目のパシャの賢人ぶりは、砂漠の隠者セドナの再来だと持て囃されている、と侍女長から耳にした。
ゾイドがレイチェルに書いたメッセージ用のカード一つとっても、どれほどゾイドが厚遇されているのか、伺いしれる。
レイチェルは、薔薇の香りが残る、美しいカードを机にしまう。
より遠くの高みに登ってしまった恋人に、置いていかれた恋人としてではなく、アストリア国の国民として、ゾイドの部下として、返事をした。
ただの、部下としての生存確認の返事だ。
業務には、一言だけの、きっぱりしたものに限る。
レイチェルは涙を拭くと、もうゾイドの事など忘れて、隣の部屋の娘の扉を叩いた。
絨毯織りで、教えてほしいところがあるのだ!
すっかり仲良くなった侍女達と、身振り手振りで一緒に絨毯を織る。
忘れたい事がある時は、趣味に没頭するのが一番だ。




