142
「え、それは困ります。」
それだけ言うと、レイチェルはその大きな目をパチパチさせて、うーん、とゆっくり考えに耽ったきり、何も言わないまま、手元のレース編みを進めていた。
ジークの執務室を去って、すぐにレイチェルの研究室に足を向けたのだ。
この任務は王命だ。全て話すしかない。
どうせ明日には公に発表される命だ。誰かの口から伝わる前に、一刻も早くこの私の口から。
レイチェルの反応は、予想外とも、予想内とも言える不思議な物だった。
彼女には今日受けた王命をできる限り簡潔に話をしたつもりだ。
砂漠の国に、王女の誕生の返礼に行く事になった。そして砂漠の王から、寵姫を引き取るように迫られている事、異常気象がそれで収まると、砂漠の神からの神託が寵姫にあったと。そして、その見返りに、王継の王女に飛龍が与えられるとも。
レイチェルの胸元のサファイアが、煌々と輝きを増している事に気がついていた。
おそらく王の間かどこかに、フォート・リーの間者が張っていたのだろう。
あの忌々しい宰相の息子に、この不愉快な知らせを早速耳打ちした様子だ。
この魔術は、魔術をかけた者の肉体的、心理的状態が、宝石によく反映する魔術なのだ。遠く戦いの地にいる夫の状況を案じた女達の、古い婚礼の魔術だ。
もちろんレイチェルには、何一つ教えていない。
あの腹立たしいほどに美しい顔が、今ごろ歓喜に震えているのかと思うと、本当に忌々しい。
私が砂漠に立ったその日のうちに、あの美麗な男は、レイチェルを奪い返しにアストリアまでやってくるだろう。私のレイチェル。私の物だ。
「。。私は貴女を手放すことはできない。かと言って、私の為に、貴女に不名誉な関係を迫る事もできない。」
「。。そして、アストリア国に、背を向ける事もできない。ちがいます?ゾイド様。」
レイチェルは淡々と言い放つ。
困りましたね、と。
手元のレース編みは皮肉にも、砂漠の七連の赤い星をモチーフにした物だ。
編み上がったら、お義父様に差し上げるのです、と可愛い事を言っていた。
レイチェルが、何を思い、何を考えているのか、全く読めない。
ただ、レースを編む糸の擦れる音が、レイチェルの天井の高い研究室の中で、粛々と響いていた。
(泣いてすがるかと思った。怒りで震えるかとも思った。。。)
そのどれでもない。レイチェルは、表情を変えず淡々と針を進めているだけだ。
レイチェルを見つめるゾイドは、レイチェルが分からない。
やっと手に入れたこの愛しい娘は、いつまで経ても、この手からすり抜けて行くように、知らない一面を見せつける。
一体、何を考えているのか。
(まさか、私を捨てて、フォート・リーに。。!)
だとすると、この落ち着きも、この反応も理解ができる。
あの男は、心の限りを尽くしてレイチェルを慈しんでいた。もしレイチェルに、あの男への心が少しでもあるとしたら、どうだろう。
糸を変えながら、目も合わさずに、針を止めずレイチェルは言った。
「結構嫌な物でしょう?ゾイド様。私も最初、ゾイド様から婚約のお話を頂戴した時は、お断りできないお話で、本当に絶望いたしましたのよ。」
デビュタントの時の話だ。そう、身分を盾に、無理やりレイチェルと婚約した時の話だ。ドレスに施された術式があまりに面白かったから、二曲踊ってしまったのだ。そうだった。あれは、レイチェルにとっては、断れない婚約だったはずだ。
レイチェルは淡々と言葉を紡ぐ。
「お父様もとても心を痛めておいででしたわ。断る事ができない身分をお嘆きで、一晩お母様の姿絵にすがって、泣いておいででしたもの。」
今はとっても幸せですけどね、と言い訳の様に付け足してくれた。
これ以上ないほど嫌な汗を掻き続ける。
レイチェルが何を考えているのか、さっぱり分からない。
まさかこの自分が持ちかけた婚約を、絶望するほど嫌がる令嬢がいたとは、そしてそれがレイチェルだったとは。恥ずかしながら、たった今まで思いもしなかったのだ。
身分も低い、絶世の美貌とは言えない子爵令嬢に、この自分が、婚約してやったという、自分の傲慢な思い。今気がついた。
そしてそれを気づかせてくれたのが、他ならぬ、自分が愛して止まない最愛の恋人。恥じても、恥じても余りある。
おそらく砂漠の大国の王も、同じ気持ちでいるのだろう。
アストリアの貴族ごときに、寵姫をくれてやった、とでも。感謝こそすれ、迷惑を被っているなど、全く頭にないのだ。
ゾイドは軽い絶望を覚えた。砂漠の王の考えが、手に取るようにわかったからだ。傲慢で、独りよがりで、そして救い難い、私のような、愚か者だ。
「。。ジーク様から、あの馬車借りれますかね。」
レイチェルは、残った糸の後始末をしながら、呟いた。
手元には美しいレース編みの逸品がほぼ完成している。
「殿下の馬車?なぜ?」
「あの馬車はあまり揺れないのです。私乗り物に弱くって。」
砂漠の大国まで二週間はかかるのでしょう?
実家の馬車のようなのでは、酔ってしまうので、二週間も旅をするのは無理です。
何を言っているのか、全く分からなかった。
「。。レイ、一体どうしたの?」
思わず口調が、閨での口調に変わる。
「ゾイド様、砂漠の国は暑いのでしょう?コルセットを付けなくてもいいドレスでしか、私行きませんよ。」
レース編みの出来栄えに満足しているらしい。
立ち上がると出来上がったレースを窓の光に透かして、少し微笑んでいた気がする。
何を考えているのかさっぱり分からない。この宝石のような私の恋人は、どこに行くというのだ。
「。。レイ。まさか、僕と来てくれるの?」
レイチェルは私につられたのだろう、深夜に睦み合う、二人きりの時だけに私を呼ぶ、甘い、甘い呼び名で、やっと私を見て、こう言った。
「ゾーイ。まさか、私を置いていく気だったの?」
そして、さも、意外だと言った顔を見せて呆れるように私を見下ろした。
「あなた、私と一生離れないって、言ったじゃない。」




