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マチルダ、マチルダ。
ゾイドは、小さく口の中で呪文のように唱える、女の名に覚えがあったのだろう。
肩をさすっていた大きな手が止まった。
「。。マチルダ、様ですね。バルト様の奥方様の。」
この察しの良さだ。我が息子ながら、吐き気がするほど、頭が回る。
混乱した心に、行きどころのない怒りが湧いてくる。
この扇がこの娘の手に渡るなど。。やはりこの娘、稀代の女狐か!
「。。娘、答えろ。なぜ貴様の様な娘が、この扇をもっている。答えによっては命はない。」
汗が目の中に入る。怒りで体が震える。
身体中から制御を無視した魔力が漏れ出て、無意識に陣が貼られてゆく。
ゾイドは警戒の体制に入って、娘を己の体の後ろに隠した。
マチルダ、マチルダ。
子猫のように震えていた娘は、何か感じる事もあったのだろう、私の顔色を伺うと、ゾイドの後ろから歩み出て、怒りで震える私の足元にそっと寄り添った。
「フォート・リーに囚われていました時、バルト様の奥様の、マチルダ様がくださったのです。そして、この扇について、何か聞いてくるアストリアの男がいたら、こう伝えてくれって。」
真っ直ぐ私の目を見て、言った。
「賭けは、私の勝ちよ。」
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マチルダとは恋仲だった。
当時の第一王子、次期国王とほぼ目されている王子、バルトの婚約者として、マチルダは子供の頃から厳しい妃教育を耐えていた。
王宮に、妃教育に上がるマチルダと、バルト第一王子の側近であった私は、よく顔を合わせ、同年代の仲間の少ないこの王宮で、話を重ねる機会は多かった。
自然この気の強い、大輪の薔薇のごとく美しい少女に惹かれてゆくのに、時間は掛からなかった。
バルトの女神への狂信は、度を越していた。
潔癖なまでに女神の夫となるべく穢れをはらい、鍛錬に勤しみ勉学に邁進し、次期王としては、一点の傷もない、美しい王子だった。
だが、女神への妄執だけは、手の付けられないほどで、その1日は女神に祈りを捧げるところから始まり、賛美することで日が暮れる。
挙げ句の果てには、女神以外との地上の婚姻は、穢れた物だとして、婚約者であるマチルダを、非常に冷たくあしらった。
厳しい妃教育と、冷たい未来の夫に傷ついて、ひっそりと一人で涙するマチルダは、この上もなく、儚く、美しかった。
マチルダとの危険な逢瀬は甘美で、危険だった。誰かに発覚したら、マチルダも、私も、命はない。
「賭けをいたしましょう。」
これが、いつもの私達の甘美な、恋人としての語らいの始まりだった。
賭けの内容は大抵つまらない事だ。
どの鳥が早く渡っただの、どの夫人がサロンの噂の的の男の、愛人になるか。そんな、どうでも良い事だ。
「貴方が勝てば、私は100の口づけを贈りましょう。」
「私が勝てば、今晩、貴女を称える詩を、貴女の部屋の窓に届けましょう。」
そんな遊びを続けていた。
白檀でできた、白い透かし彫りのある扇を贈ったのは、その頃だった。
東の国からの名工が、領地に逗留していたのだ。
風を送れば、ふわりと白檀の香りが漂う、名品だった。誰が贈ったかなど、調べたらすぐに分かりそうな、そんな危険の伴う贈り物だ。
その頃私は、決して触れてはいけないこの未来の王妃に、すっかり溺れていたのだ。
「賭けをしようか。」
「この扇にバルト様が気がついて。貴女の心が他にある事をお知りになったら、私はバルト様に、喜んで殺されよう。」
こんなにも近くに、もどかしいほど私の渇望する女がいるのに、その女を手にした男は、掌中の宝石に、一瞥もしない。
マチルダは、遠くを見て言った。
「ばかね、ウィル。私の勝ちよ。バルト様は、私の装いどころか、私の心のありかなんて、今日の天気くらいにも気にかけないわ。」
私が勝ったら、夜半に小舟で、湖畔に出てリュートを奏でて頂戴。
せめて貴方を思いながら眠りにつきたいの。
マチルダは、来る夜会も、来る夜会も私の贈った扇を持参していた。
バルトはその精緻な透かし彫りの入った扇に、気がつく様子も、気に止める様子もなかった。
だが、マチルダを思い、夜な夜な湖畔に出てリュートを奏でる日々は、長くは続かなかった。
婚姻の日取りを神殿から告げられたのだ。
私は、マチルダからその日を聞いた時、迷う事なく、駆け落ちしよう、そう言ったのだ。
北の大国まで逃れたら、後はなんとかなる。逃避行のルートも確保した。家は取り潰されるだろう。生活に苦労もかけるだろう。
それでも、マチルダは喜んでこの手をとると信じていた。
だが、マチルダは私の手は取らなかった。
この国の王妃となるその日の為に、私は人生をかけてきた。今更後戻りなど、するものか。
貴方も私の事は忘れて、幸せになって頂戴。
私はあっさりと、捨てられたのだ。
結婚後のマチルダはそれなりには幸せだったらしい。
王太子妃殿下として、アストリア国の女達の頂点にたったマチルダは、バルトとの子を3人為し、社交にも、外交にも見事な活躍を見せた。
私はそんな彼女を、バルトの背中越しに見ていた。
私の贈った白い扇は、そのたおやかな手に、握られたままだった。
マチルダが最初の子を産み落とした年に、私は家同士で決めた、幼なじみの貴族の娘と、結婚した。
大輪の薔薇のようなマチルダとは違い、可愛い、妹のような妻だった。
そしてその日がやってきた。
女神の神託の日。
バルトは神殿で、女神の怒りに触れて、女神の名の下、廃嫡された。
王位継承を争う大戦が勃発した。
リンデンバーグ家は、バルト側には着かず、第二王子側に着いた。
側近を努めた私の裏切りに、バルトは白い顔をしていた事を、今でも鮮明に覚えている。
内戦を回避したかった事、女神の怒りに触れた王では統制が取れないとの父の助言、星の並びからの判断、様々な理由はあった。
だが、結局私は、私を捨てて、幸せになったマチルダに、復讐をしたかったのかもしれない。
この国の王妃などに、してやるものか、と。
大戦に破れて、バルトは一族を連れて、フォート・リーに亡命をすることとなった。
マチルダがフォート・リーに立つ前の夜、私は最後に、マチルダに面会を要請した。
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「マチルダ、今なら間に合う。君だけでも逃げろ。私が匿う。どうか、私の手を取ってくれ。」
一刻だけ、船がくる前の時間を与えられた私は、言葉を尽くしてマチルダを求めた。バルトは助ける事はできない。息子もだ。
だが、マチルダは、女神に狂った男と政略結婚で結ばれた、ただの哀れな娘だ。
妻を省みもしないこの男の、勝手な女神への執着に付き合わされて、この気位の高い女は、戦犯の妻として、貴族籍をも剥奪されてフォート・リーに追われるのだ。亡命先に、どんな生活が待っているのかは想像もできない。
「ウィル、どうか。もう。何も言わないで。」
薄暗い船室の、松明に照らされて、薄く微笑んでいた。
マチルダは、かつての恋人のよすがに縋って、一人アストリアに残るくらいなら、この女神に狂った哀れな男に付いてフォート・リーに流される、流転の人生を歩むというのだ。
ああ、マチルダはそんな女だ。気位の高い。大輪の薔薇のような女。
そして、マチルダは口にした。
甘い、甘い、二人だけの秘密の言葉。
「。。賭けをしましょう。」
「私、どんな場所でも、幸せになってみせますわ。たとえフォート・リーに亡命しても。たとえ夫が私を見返らなくても。」
「。。君が、賭けに負けたら?」
「。。貴方の思いを受け入れましょう。」
「。。賭けに勝ったら。?」
「。。私の事はもう、お忘れになって。」
そして暗い夜の海を、真紅の薔薇のようなあの人は、渡って行ってしまった。
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「。。マチルダは、幸せにしていたか。」
ようやく口にできた言葉だ。
娘はほっとした様に、私の額に流れる汗を拭って、言った。
「ええ。やっとバルト様の目が醒めたとかで、二人でこれから諸国漫遊の旅行に行くと、おっしゃっていましたわ。あの扇は、私へのお礼だとか。」
なんのお礼かよくわからなかったのですが、クイーンズコートの会議で、私が言ったことがバルト様に随分効いたとおっしゃっておられて。
そう娘は困ったように言った。
大方、見当はつく。バルトは潔癖で、愚かなほどに融通が聞かないのだ。
女神の股に男の物があったからと言って、薄くなるような愛は、愛とは言えない。ただの執着だ。
そうか。。やっと、女神への執着が溶けたのか。バルト、お前には出来過ぎた女が、ずっと、すぐ横にいたことに、今更気がついたのか。
「。。ありがとう、レイチェル嬢。」
傍らのゾイドが、ぎょっとしていた。
息子は、私が人に礼などするところを、見たことがないのかもしれない。
マチルダが、遠いフォート・リーで、遅い幸せをつかんでくれたのなら、それでいい。
賭けに負けた私は、ようやくマチルダを、忘れよう。
私の青春。私の赤い薔薇。私の、私だけの、マチルダ。
あの娘は、巷では、聖女と呼ばれているらしいが、今まで何故そう呼ばれているのか、何一つ、わかりはしなかった。
あの地味な娘は、女神の呪縛からバルトを解き放ち、そして私を、マチルダという呪縛から解き放ってくれたのだ。
いつも人としての感情から遠い所にいた気がする息子は、家の呪縛、魔力の呪縛、美貌の呪縛から解き放たれて、こんなに幸せそうで、こんな屈託ない笑顔でいるのだ。
間違いない。
この娘は、私にとっては、そしてゾイドにとっては、解呪の聖女だ。
「レイチェル嬢、いや、次期リンデンバーグ魔法伯爵夫人。息子をよろしく頼んだよ。」




