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このマットには、保温ができるように、陣の縫い取りがあるのだな。
それにしても精緻な匙加減だ。。
神殿の奥の部屋の縫い取りも、赤ん坊に作った地の呪いのかけられたお包みも、見事な出来だったが、こう目の前で、まじまじとその、必要な力を必要なだけ引き出す技術を目の当たりにすると、見事の一言につきる。
「。。。見事だな」
ウィルヘルムはパイを齧りながら、つぶやいた。
不安そうにおろおろしていた娘はパッと目を輝かせる。
「よかった、嬉しいです。これだけは自信があるんです。隠し味はお砂糖とクミンと、グローブなんですが、今日はこの間実験に使った余りのお砂糖を使ったので、コクがうまくでましたね!」
むせた。
(。。うん? 前の実験というと。。媚薬に、呪いもかけたあの砂糖か!)
というかそもそも褒めたのは料理ではない、パイの下に引いているマットの術式だ!
いや、パイもものすごく、美味いが!
「ああ、心配なさらないで、お料理に使ったのは地の神の浄化をかけた物ですよ!」
ゴメンなさいびっくりしましたよね。娘はそういうが、本当に、肝を潰した。
「呪いのかかった砂糖は苦くてしょうがなかったので、入浴剤にでもします。あ、女神様の力で浄化したのは、お菓子作りには良いけれど、味が軽くなっちゃって、なんだかお料理にはあまり、むいてないですね。」
もったいないので、実験に使った食材を破棄するという考えは持ち合わせてないらしい。
ちなみに媚薬入りの方は、ゾイドが預かっているとか。
娘が頬を赤らめたところを見ると、夜にも、二人で色々な、遊びを楽しんでいるようだ。好きにしろ。
しかしながらだ。かけた術式によって砂糖の味が変化するなど、思いついた事すらない。そもそも食べたりして大丈夫なのか。
「あまり年寄りを脅かしてはいけませんよ、レイチェル。」
もう堪えきれない、と言った様子で、ゾイドは吹き出しながら、娘を嗜めた。
とても美味しいです、こんな物をいつも食べていたジジは万死に値します、とか。大袈裟に褒めて、娘は心から嬉しそうな顔をする。
思えば、この娘を連れ帰ってから、息子の笑顔ばかり見ている気がする。
こんな屈託なく笑う息子を見るのは、少年期以来だとふと気がついた。
「この人の専門は、星なので、日がな星ばかり見て暮らしているので、人と関わりがないんです。それで貴女の様な若いお嬢さんと上手く会話できないんですよ。」
だいぶざっくりと、人の専門を紹介してくれた。
正確には、星の出力を最大限利用して、大掛かりな攻撃要塞の術式を張り巡らしたり、開発したり、また敵陣の破壊する軍事天文学が私の専門で、仕事であるが、まあ大まかな所では、間違いはない。
「まあ素敵。私もそんな生き方ができたら最高でしたわ。私、あまり社交が得意ではありませんの。」
何も疑いをもたずに、ゾイドの言葉で、娘からは即お仲間認定されたらしい。大分苦労しているのだろう。一気に親しみを見せて、
「私も、日がな手芸だけして、本だけ読んで暮らしていけたらと、いつも思っておりましたのよ。」
しみじみとそう、私に同情して言った。
本音なのだろう。この娘はお茶会にすら滅多に出てこない令嬢だと報告にあったが、一応、病弱という事になっていた。
娘は、紙のように薄く小さく切ったパイを突きながら、
「伯爵様も、そう思われませんか、私、もう少しで手芸に落とした術式が完成する、という所でお客様が見えたり、とても面白い紋の記述を見つけたのに、お茶会が終わるまで続きが読めないですとか、本当に悔しくて。」
そう愚痴た。
気持ちはよくわかる。この娘の発言は、子爵令嬢としては失格だが、私だって、二十年に一度しかない様な珍しい星が近づく夜に、外せない夜会が入った日の苛立ちは、おそらくこの娘の主張する苛立ちと同じ種類の物だろう。
それに、お茶会のお話はつまらないのですよ。と、ほう、とため息をつく。
そして、良いことを思い出した、とばかりに笑顔で、
「専門家でいらっしゃる、伯爵様のお勧めの星の並びを私にも教えてくださいな。私は北の大国に見える、霞んだ大きな青い星の並びが好きなのですのよ。」
そう言って、食事中にもかかわらず、行儀悪く娘はいそいそと席を立ち、星座を図案化したクッションを居間からいくつか持ってくる。
ずっと思っていたが、この娘の趣味は渋い。クッションに縫い取られた、通好みの地味な星選びが、グッとくる。この娘、分かっているのだ。
思わず口が軽くなる。
「。。砂漠の赤い星の一連は、ロマンをくすぐるね。あの星を目指して、竜は飛ぶ練習をするという。。」
「あ!あの星並びですか!私、赤い石を使って、あの星座を術式に落とし込んだ事があるんですよ。ドレスに縫い込んだので、危うく火事になる所でした。」
「石を使って?君は魔力がないだろう。どうやって火事になるんだ。」
「そうなんですよ。本当に魔力がない事で苦労をしているのですよ。まず、小さい祈祷文をパニエに20ほど縫い込んで、そこからやっと、始まるんです。」
「はは、それは難儀なことだ。あの星は対になる、裏星があるから、それを小さく縫い込めば、摩擦で魔力が発生したろうに。」
娘の瞳孔が開いた。鼻の穴もちょっと開いている。
「伯爵様!ちょっとそれ、詳しく教えていただけませんか!」
気がつけば、すっかり日が傾いてきていた。
ゾイドは文句も言わずに暖炉に薪を放り込んでいる。
娘に請われるまま、たくさん話をした気がする。
娘は大層喜んでくれた。
天文由来の魔術式は、あまり知識が深くなかったらしい。
資料館の角に数十冊関連した書籍あるらしいが、天文学は、師がいて、その上できちんと実地で観測しないと、本格的な理解は難しいのだ。
私は娘と話していた間すっかり、屋根裏部屋で星を眺めて、遠くの銀河に思いを馳せていた少年の頃の自分に戻ってしまった様な気持ちになっていた。
何もかも飲み込む黒い星に心底怯えて、百年に一度の彗星の訪れに、歓喜に打ち震えていたあの頃。
ただの天体好きの少年は成長し、その類い稀な魔術と星の知識を、軍事に転用するようになってもう幾十年になるだろう。
ただの、星好きの少年の頃の様に、満天の星空を前にしても、心が動かなくなって、どのくらいになるだろう。
伯爵様に教えていたただいた、お勧めの星並びを次のレース編みの題材に致しますわ、とニコニコ話を聞いてくれた娘の前で、私は、少しだけ、ゾイドの言っていたことが分かって来た。
娘と話をしたこの短い間だけ、私は確かに、ただの、天体好きの少年のままだったのだ。
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ピアノの調律師がやってきた。
二人は、私にゆっくりして下さいと言って、居間のピアノを確認しに向かっていった。
妻が子供用に用意した古くて小振りなピアノだ。
息子二人は全くピアノへの興味がなかったため、ずいぶん久しぶりに目にする。
娘はピアノもあまり上手ではないらしく、おっかなびっくり鍵盤を叩いてみて、下手な夜想曲が聞こえて来た。
調律師は、良い状態で保存されている、と太鼓判を押して帰っていった。
しばらくすると、娘の危なっかしい指さばきで、なんと、ゾイドの歌声が聞こえてきた。
息子の歌声などそういえば聞いた事もないな、と二人がピアノで遊んでいる居間を覗いた。
小さなピアノに座る小さな娘、その横に立つ、心から幸せそうな、青年の姿。
絵に描いたような、幸せな光景だ。
目を細めて、若い二人を眺めていた。そして。
心が凍りついた。
「。。。なぜあれが、ここにあるんだ。」
絞り出した声が震えていた。ありえない。なぜだ。
振り返った二人は、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
居間の飾り棚の中に、小さな木彫りの人形や、銀の飾りやら何やらの飾られていた、その一番上の段に、貴婦人の使う、白い美しい扇子が飾られてあったのだ。
香木に、複雑に一本一本、ディエムの神人の恋物語の一場面が掘られた、根元に大きな翡翠を飾ってあるそれは、みまごう事のない大変な価値のある名工による逸品だ。
娘は間違えたところを探るように、ピアノの鍵盤を確かめながら、のんびり言った。
「マチルダ様にいただいたのですよー。」
なぜだ。なぜこの娘が、マチルダの扇を。
息子が私の異常に気づいたらしい。
グワングワンと回る目のはじに、悪魔の様に美しいゾイドの顔が近づいてくるのが捉えられた。
マチルダ。マチルダ。マチルダ。




