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「。。それで、お話があるのでしょう、父上。」
「。。決まっているだろう。あの娘の事だ。」
久しぶりに、息子をチェスに誘った。
三勝三敗。そろそろこの息子にも勝てなくなる日が来るのかと思うと、チェスの手ほどきをしてやった昔を、ふと思い出す。
(そう言えば、ゾイドと最後に手合わせをしたのは、いつだったか。。)
ゾイドは象牙でできたチェスの駒をクルクルと、弄んでいる。
このチェスのセットは、すべて駒の目の部分に赤いルビーが嵌め込まれている。初代と同じ、赤目を持つ世継ぎの誕生を喜んだ、先代が職人に作らせた逸品だ。
ゾイドの次の一手は、ないはずだ。今日は勝ちを譲るつもりはない。
外は雪が降ってきたらしい。暖炉の薪が、ガタリ、と音を立てて崩れた。
娘は、ゾイドをチェスに誘うと、では私は本を読んで参りますね。とあっさりゾイドと離れた。この娘のことはまだ良くわからないが、さっぱりした気性である事は、好ましく思える。
閲覧履歴を報告させると、領地で見られる、魔女の術式に関する物を読みあさっている、とルードが報告した。
次の一手を長く思案するゾイドの前に、魔法伯爵家が揃えた報告書、王家からの報告書、そして妻の父からの報告書をバサバサと投げてよこした。
全て、レイチェル・ジーンに関する報告書だ。
「読め。」
ゾイドは眉一つ動かす事もなく、全てに目を通すと、内容について何も驚く事はなかったらしい。
ゆっくり顔をあげると、分かりにくい表情のままこう言った。
「調査の通り、彼女は神殿の乙女です。一族に誉れをもたらす婚姻ですし、石の乙女ですので、我々の子供は全て、赤い瞳を持つでしょう。何か問題でも。」
「なぜあの娘に心を傾けた。」
手元の酒をあおる。強い酒が、喉を焼いた。
「お前危うくあの娘を巡って戦争を起こすところだったらしいな。あの娘の首にかかっているサファイアは、フォート・リーの宰相の息子からだとか。」
特に美しくもない。機知に富んでいるわけでもない。そこまでしてあの娘を求めるのはなぜだ。
石の乙女との子を為したいと欲するにしては、あまりに情熱の量が釣り合わない。どうしても解せない。
「何がお前をそこまで狂わせる?」
聞きたいのはその一点だ。
報告書によると、フォートリーのブシュウィック宰相の息子も、あの娘への恋情でトチ狂って、婚約の発表すらまだだというのに、王家の宝をあの娘に渡したというではないか。
宰相の息子は、フォート・リーの大貴族で、乙女という乙女の憧れを一身に受けた、麗しい太陽の騎士だ。なぜそんな男が、あの娘を。
宰相の息子の愛を受けたあの娘、全てのフォート・リーの娘の呪いを受けてもあまりあるのに、どういう訳なのか娘を見送りに、港を埋め尽くす娘達が、緑のリボンを振って見送ったという。ちなみに、どの報告書にもこの緑のリボンの意味するところは不明、とあった。
野暮ったい、地味な子爵令嬢。二つの国の貴公子を手玉に取る稀代の悪女、下穿きの聖女、魔術学者、石の乙女、ゾイドの恋人。
あの娘の呼び名は様々なのに、何一つしっくりこないのだ。
「。。あの方といると幸せなのです。」
ゾイドは懐かしそうな目をして、その細い指先で、傍らの酒のグラスを愛でた。
この細い繊細な指先から、先の大戦の決着をつけた大魔術が紡がれた事は、父として感じいるものがある。
「あの方の前にいると、何もかもから自由になれるのです。」
息子は、何を口にしているのだ。
「あの方の前では、世界はもっと単純で素直なのです。彼女と共にいると、世界はぼんやりと、でも確かに幸せで、朝の光はただ美しく、夜の闇はただ艶やかなのです。まるで、世界は初めから、こうであったかのように。」
何かを思い出したのだろう。クスクスと幸せそうに笑うと、とても言葉にし難いのですが、と、珍しく言い淀みながらもこう言った。
「リンデンバーグの名も、この赤い目も、美貌すらも、かのお人に取っては、髪の毛の色程にしか、意味がないのです。あの方の前では、私はただの一人の少年のゾイドになって、単純で、素直で、ぼんやりとした幸せな世界を、一緒に冒険できる気がするのですよ。」
それに、あの方と魔術の話をすると痛快ですよ。
そう子猫のように怯えずに、一度、普通に話をしてはいかがですか。
そしてゾイドは、チェックメイト、と言い放って駒を盤に置いて去っていった。
いつの間にか、負けていた。




