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馬車は屋敷の広大な建物の前に止まった。
扉だけでも、大聖堂の倍はありそうだ。
一人では開けられないことは間違いない。
ジークから貸し出された馬車は、非常に上品で落ち着いた内装で、そして振動が少なかった。
子爵家は商用の馬車を一応持ってはいるが、一度大きな病気をした馬を使っているので、雨の日は馬を気遣って近距離しか走らせなかったり、冬場は昼の明るいうちしか走らせなかったり、なんとも頼りない上に、馬車本体も、馬と同じくらいの年だ。
ガタがきているという言い方で、間違いない。
(なんだ、私の乗り物が苦手なのは、きっとあの馬車のせいよ。。)
乗り心地の良い馬車に揺られて、レイチェルはついぞ吐き気などおこさなかった。
レイチェルは馬車が苦手だが、この馬車なら引きこもりが少しはマシになりそうだ。
「さあ、美しい人。お手を。」
この上なく幸せそうなゾイドに手を引かれて、名残惜しく馬車を降りると、館の扉は開いており、眼鏡をかけた若い執事が挨拶に深く腰をおる。
この広大な屋敷の執事ともなると、美貌も兼ね備えるものかと、レイチェルは改めて、己の婚約者の住む世界の違いを思う。アーロンの実家に執事がいるが、とても優しい太ったおじいちゃん執事で、耳が遠い。
レイチェルが遊びに行くと、いつも炒った栗をくれるのだ。
「ゾイド様。ご無事のお帰りをお喜び申し上げます。レイチェル様、お待ちいたしておりました。私はルードイッヒと申します。ルード、とお呼びください。リンデンバーグ家の執事でございます。」
「あ、はい、あの、レイチェル・ジーンと申します。。。」
(それより、なんでこんな所にゾイド様のお宅の執事がいらっしゃってるのかしら。)
馬車でぐっすり眠ってしまったので、ヨダレがついてないか急に心配になる。
「ルード。伝えた通りだ。今日からレイチェルはここの女主人となる。そのように」
「万事滞りなく。レイチェル様、お目にかかる光栄に預かり、万感の思いでございます。さあ、どうぞ、皆あなたをおまちしております。」
二人はキビキビ何か話しているが、よく内容が理解できない。
(何言ってんのかしらこの方達。。。)
ニコニコと機嫌の良いゾイドを見る限り、おそらく悪いことはおこらないと思われる。
この美しい男の機嫌の良い顔は、まるで光の粒を四方八方に撒き散らすかの如くだ。ここまで輝くお顔を眺めるだけでも何かご利益があるに違いない。
ルードに促されて美麗な扉の向こうに潜ると、王妃様の離宮のような吹き抜けの広間に、30名はいようかというお仕着せの使用人が、ずらりと並んで皆、腰を折っていた。
「「「お帰りなさいませ」」」
「皆、ご苦労。この度は留守の間の無事を守ってくれて感謝する。彼女がレイチェル・ジーン嬢、次期リンデンバーグ伯爵夫人だ。今日からここの女主人として、皆よく仕えてくれ。」
ゾイドはこれだけの人数を前に堂々とした主人ぶりだ。
レイチェルはクラクラしてきた。
まさかと思ったが、一応確認する。
「ゾイド様、この方々。。」
「ああ。リンデンバーグ家の使用人だ。皆貴女の到着を待っていた。」
「ゾイド様、ひょっとしてこ、このお屋敷は。。」
嘘だと言ってほしい。子供のレイチェルが、花火を見るために、行儀悪く登っていた塀の、その遠くの奥にあるお屋敷の持ち主が、愛しいこのお方だなんて。
「私達の家ですよ。領地の屋敷に比べると少し手狭ですが、今は私しか住んでいないので、新婚の間は問題ないでしょう。」
いずれ子供ができたらまた、改築しましょう。とちょっとだけ照れた様に耳元で囁いた。
(ちょ。。なんて事を人前で。。恥ずかし。。何をゾイド様はおっしゃって。。。ん?)
小っ恥ずかしい言葉で騙されそうになってしまった。違う、反応しなくてはいけないのは、ここじゃなくって!こういう所がゾイドは油断ならないのだ!
「ゾイド様???私達って、どういう事ですか。。私、子爵家に帰るんですよね。。?」
ゾイドはこれまたピカピカの、眩しい笑顔でレイチェルに振り返って、言った。
「今日からここが貴女の家です。ああ、貴女をこの屋敷に迎える事ができるなんて、なんと今日は良い日でしょう。」
鼻歌でも歌い出しそうだ。ああ、やっぱり。
「いやいやいやいや!ゾイド様!噴水広場の大屋敷がゾイド様のお家だなんて聞いてません!それに、今日からここが私の家って。。ゾイド様何をおっしゃっておられるの??」
「何処かお気に召しませんか?ともかくお疲れでしょうから、貴女の部屋に案内させて下さい。古いですが良い屋敷だと思うのですが、気に入らない所はあなたのお気に召すように変えて下さって結構です。」
「いえね、そう言う事じゃなくって」
ゾイドは、本当に何が悪いのか分からないという顔をしている。
しばらく考えて、ああ、と少し合点が言った顔をしたゾイドは、
「ジーン子爵には許可は頂いていますし、王宮に貴女の登録の変更も届けておりますよ。」
さあはいったはいった、と言わんがばかりに、レイチェルの背を押す。
(な、なし崩しじゃない。。私の心の準備とかは一体。。というか、ゾイド様がこのお屋敷の主人だっただなんて。。)
そういえば船内で、家に帰りたいと言ったレイチェルに、ジーク殿下がなんとも言えない表情を浮かべていたのを思い出す。
スキップでもしかねない機嫌の良さのゾイドは、ズンズン廊下の先に進んでゆく。長い足は、歩みも早いのだ。
レイチェルはとりあえず議論は諦めて、ともかくひとまず部屋で休ませてもらうことに決めた。
二階へ続く螺旋階段を上り、廊下に促される。長い長い廊下は、王宮の様で、歩いても歩いても部屋に着きそうにない。
様々な肖像画が、長い廊下をうめ尽くすように並べてある。どれもこれも精緻な肖像画だ。この廊下だけでも美術館の一角の様な様相だ。掛かっている絵のいくつかは、歴史の教科書にも乗っているものの様に思われる。美術史の教科書だったか、魔術史の教科書だったか、その両方だったか。
ゾイドの背を追っていたレイチェルは、一つの肖像画の前で、ふと足が止まってしまった。とてもとても、よく、知っている顔だった。
ゾイドの優しい声が降ってくる。
「どうかされました?」
レイチェルは、その小ぶりの肖像画を指差して、ゾイドに聞いてみた。
「。。ゾイド様、このお顔、10ペンシリン硬貨のお顔ではないですか?」
ゾイドは面白そうに笑って、悪戯のばれた子供の様な顔をして、説明してくれた。
「ええ、その通りです。私の曽祖父です。紙幣は王族の顔と決まっているので、曽祖父は子供の小遣いの硬貨の顔になってしまって。一族の笑い話なんです」
(いやいやいや。硬貨のお顔になるようなご立派なお方を輩出して、笑い話にしているとか。。)
「10ペンシリンの顔の横にいる婦人は曽祖母で、生まれは北の大国の皇女でしたが、政略結婚で嫁いで来たとか。私の銀髪は彼女からです。」
豪華な銀の海の様な銀髪を誇る美貌の人は、まさに大国の皇女様の様相だ。
「はあ。。と、とてもお綺麗なお方ですのね。。」
皇女様ですか。。レイチェルは気が遠くなる思いだったが、ゾイドは自身の先祖の絵姿が、レイチェルの興味を引いた事がうれしかったらしい。一番高い所に飾ってある古い、飴色の額の施してある額縁に飾られた絵を指して、続けた。
「こちらは一族の始祖で、私と同じ赤い目の持ち主です。先祖返りは久しぶりで、私が誕生した際は随分と騒ぎになったと聞いています。」
「はあ。。」
本当に、凄まじいく華麗な一族の姿絵だ。どの絵も名のある宮廷画家によるものらしく、その素晴らしい出来栄えを眺めるだけでも目に麗しいが、どの絵に描かれている男女も、比類ないほど美麗だ。リンデンバーグ家の始祖は、そもそも王族だという。
「貴女と私の姿絵は、当代の隣になりますね。」
嬉しそうに、ゾイドは何も飾られていない壁を撫でる。
その壁の横に掲げられている大きな絵姿には、クラクラする様な美貌のご婦人と、凍てつく様に冷たい鋭い目つきの、黒髪の青年が描かれてあった。
「これは父と母の婚礼の頃の絵姿です。今領地にいますので、しばらくしたら紹介しましょう。」
涼しい顔で当たり前の様にゾイドはそういうが、すでにレイチェルの心はパンクしているの、すっかり気がつかない。
(ゾイド様は、お母様によく、似ていらっしゃるのね。。なんて美しいお方なのかしら。。それにしても。。。)
レイチェルは身の丈をよく知っているのだ。
(このお美しくてキラッキラの一族の絵姿の中に地味の極みの私が並ぶなんて、ナイナイない。。。)
今からどうやってこの婚約を破棄してもらおうか、汗がたらたら流れる。ルードは無慈悲ににも、そんなレイチェルに、ふんだんに貝殻を使って装飾が施された、それは美しい扉の前で死刑宣告をする。
「レイチェル様のお部屋はこちらでございます。」




