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遠くに響く円舞の音楽。
静かな庭園には、たった二人、ルークと、そしてレイチェルだけだ。
二人は音楽に合わせ、足を滑らせ、輪をつむぐ。
真っ白な儀礼用の騎士服は、完璧にルークの体にピッタリと添い、青い月光を浴びて、花園に浮かぶ。レイチェルのドレスにふんだんに縫い付けられた水晶は、キラキラとレイチェルが体を翻す度に光が遊び、月を写した川面のごとくであった。
ルークはしなやかに体を滑らせてレイチェルをリードする。
ルークは踊りの腕前は相当だと聞いていたが、こうして体を合わせて踊るのは、はじめてだ。
あまり踊るのが得意ではないレイチェルも、誰もいない花園で、遠くに聞こえる音楽を頼りに、ルークに体を預けてみる。時折ステップを間違えながらも、とても楽しい。贅沢な二人だけの時間だ。
やがて音楽が鳴り止んだ。
大きな歓声が聞こえてくる。おそらくフォート・リー王と、王妃による円舞が披露されたのだろう。あまり表舞台に出てこない王妃は、元々は踊りの名手であるらしい。
やがて二曲目がはじまる。
ルークは何も言わずに、レイチェルの手を取って、次の曲を踊り出す。
(えっと、二曲続けて踊るのは、婚約者の証で。。。)
デビュタントの日に大変な目に遭った事を思い出す。レイチェルは躊躇した。
ここは王宮の、二人以外は誰もいない庭園だから、人目にはつかないが。。
レイチェルの困惑を悟ったのだろう。
ルークは枯れる様な声を絞った。
「。。。今だけ。。」
ゆらりと、金の瞳が揺れた。
「今夜だけ、踊ってくれないか、レイチェル。。。」
ルークは、レイチェルに会えない日々も、ルーナから、そしてジジから、レイチェルの事は、よく聞いていた。
レイチェルが己の愛しい婚約者と再会した事。
そしてその心を決めた事も。全てだ。
「。。今日のドレスはよく似合ってる。それからその首飾りもだ。」
「ルーク様が褒めてくださるなんて、明日は雪になりそうですね。。」
レイチェルは、理解していた。
今日がこの優しい、優しい男とこうやって、触れ合う最後の夜になるであろう事が。
サファイアをお返ししたら、もう今までの様には、この太陽の様に美しく、ちょっと意地悪な可愛い人には、会えなくなるのだ。
ルークもそれを分かって、二曲目を踊ろうとしているのだろう。
(今晩だけ。)
青い月を黒い雲が隠してゆく。仮の恋人達の逢瀬を隠すかの様に。
言葉はいらない。
二人はお互いを惜しむ様に、労わるように、少し難しいステップの続く二曲目を踊りきった。
庭園には、二人のステップの音だけが響く。
次の曲は非常に静かなテンポの曲。
レイチェルはようやく口を開く。
「ルーク様。。。お元気にされていましたの?」
「ちっとも。」
苦しそうにルークはレイチェルの髪に顔を埋める。
その香りを心に刻み込む様に、レイチェルの香りを、胸に一杯吸い込んだ。優しい、メリルの花の様な香り。
静かにルークは、レイチェルを抱き締めると、呟いた。
「あいつの所に、いくのか。。。?」
レイチェルは返事の代わりに、ゆっくりとうなずいた。
ルークは、少し腕に入れた力を和らげると、自嘲的に話をはじめた。
「なあレイチェル、俺はさ、女の子には不自由したことなんかないんだ。」
それはレイチェルもよく知っている。だが、ルークの辛そうな声で、レイチェルは何も続けられない。
「どんな恋の駆け引きも、どんな愛の言葉も器用にこなしてきて、色んな御令嬢と恋を楽しんできたつもりだった。」
遠くで奏でられている音楽は、皮肉にも、平民の娘と騎士の、身分違いの恋の成就を祝う歌劇の一節だ。
ルークは眉をひそめる。
「でもさ、レイチェル。苦しいんだ。お前の事を思うと、胸が張り裂ける様に苦しくなって、息ができなくなるほど。それからうっとりするくらい甘くなって、天にものぼるほど幸せな気持ちになる。朝から晩までお前の事を考えて、苦しくて、それから幸せなんだ。まるで、満天の星空が、胸にいっぱいに張り裂けるまで詰まったかの様に。」
掠れた声は、震えていた。
「それが本当の恋だと知ったんだ。本当の恋は、楽しいものなんかじゃ無い。今までは、恋の真似事ばかり、してきた。本当の恋に落ちたら人はこうもみっともないのかと、それからこうも幸せなのかと驚いたさ。」
そして、ゆっくり、レイチェルの額に唇を落として、固く抱きしめた。
「。。ありがとうレイチェル。お前は俺に、本当の恋を教えてくれた。」
レイチェルは、涙で前が見えない。
でも、ルークにだけは、絶対に、今伝えないといけない事がある。
レイチェルは、涙でぐしゃぐしゃになりながら、ルークの大好きな、大きな笑顔を作った。
眩しそうにレイチェルを見つめるルークに言った。
「ありがとうルーク様。ずっと私を守ってくださって。こんな私を好きになって下さって。私に、海を、見せてくださって。」
そして息を継ぐと、真っ直ぐにルークの目を見た。
「私、ルーク様の事、大好きよ」
一瞬、ルークの息が止まる。
「でもね、私の心は、ゾイド様の物なの。私の心も、命も、魂も、あの方の物なの。だからルーク様、あなたの事がどれだけ好きでも、あなたに私の心をあげる事はできないの。」
「。。。俺と出会うのが、あいつより先だったら、違っていたか?」
「。。きっと、あなたと恋に落ちてたと、思うわ。」
「苦しいよレイチェル。」
「私も苦しいわ。」
二人は固く、固く抱きしめあった。
これが本当の最後だ。
「さようなら。レイチェル。」
ルークはレイチェルを手放し背を向けると、歩きはじめた。
レイチェルはふと、己の首を飾る大切な忘れ物に気がついた。
「ねえ、ルーク様。これだけ、外して下さらないかしら。ルーク様にお返ししたいの。」
ルークは振り返ると、意地悪な少年の様に舌をだすと、いった。
「バーカ。一生外してやらないよ。毎日そのサファイア見るたびに、俺の事を思えばいいさ!」
「ちょっと!!ルーク様!」それじゃ困りますって!!」
追いかけようとして、レイチェルはハッとした。
ルークの金の瞳から、水晶の様な美しい涙が、ほと、ほとと淀みなく流れていたのだ。
「。。あの男が、お前を少しでも不幸にする様だったら」
「すぐに俺の所にこい。俺が、もらってやるから。」
そうして今度は振り返らずに、王宮に戻って行った。
レイチェルは立ち尽くしていた。
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王宮への続く長い廊下で、ルークを待っていたのは、オーギュストだ。理由を言わずに、会場を離れてゆく息子を見守っていたのだ。
「。。。本当にいいんだな、ルーク。」
「。。剣に誓って、あの娘を幸せにすると誓いました。レイチェルの幸せが、あの男と共にある事でしたら、どの様な事があってもあの男と添わせましょう。」
ルークは歩みを止めずに、そう言った。
「。。ルーク。お前を誇りに思う。」
オーギュストは己の横を通り過ぎてゆくルークに、そう言葉をかけた。
無言でルークはうなずいて、去っていった。
オーギュストは、己の息子の成長に、涙を浮かべた。
ようやく一人前の男になったのだな。
あの地味極まりないアストリアの娘に恋をして、ルークは立派な大人の男になった。
(聖女か。。)
フォート・リーの娘達の間で、レイチェルは聖女、と呼ばれているらしい事は聞いていた。
聖女の発生は実に興味深い。誰が認定するわけでもなく、誰が言い始めるわけでもなく、自然発生的に、人々の間からある日、気がついたら出現しているというのだ。
(まさかとは思うが、少なくとも私にとっては聖女だな。)
軽薄で、女達の間をフラフラとしていた息子を立派な男に変えてくれたレイチェルは、オーギュストにとっては個人的な聖女に間違いない。
一人物思い耽っているレイチェルを迎えにきた侍女の姿を確認し、オーギュストも会場に戻る。
今夜の酒は美味いだろう。




