117
レイチェルは滅多に館から出ないが、出るとしたら、行先は孤児院で、子供の採寸と、繕い物など、どうしても訪ねる必要がある時だけだ。
いつも裏口から入り、時には院長にすら会わずに用事だけ済まして、スタコラ帰る。
一度正面からたずね、慰問に訪れた他の貴族令嬢と鉢合わせて気まずい思いをしてしまったのだ。
レイチェルはこの日も裏口から入ると、子供の採寸や、仮縫いの合わせをして、後はつくろいものをしてやったり、洗濯を手伝ったり、少し子守したりしていた。
そして洗濯を取り込んでいた時、裏口で遊んでいた子供を、ずっと影から見つめていた女性にレイチェルは気がついた。
おそらくこの子供の母親だろう。
様子は伺うが、声は掛けない。
夕刻の祈りの時間を告げる、鐘がなった。子供は礼拝堂に去っていく。
女は、子供をじっと見送った後、孤児院を背にした。子供は元気にしている。それだけで女にとっては十分なのだ。
その時である。
「待って!待ってください!」
孤児院の裏口から、身なりの良い娘が走ってきた。
おそらく慰問に来た貴族の令嬢だ。
「聞きたいことがあるんです!」
(あーあ、さっさと帰らなかったからだ。。)
チ、と女は舌打ちをした。
どうせ、なぜ子供を捨てたのか、だのそういう事を、正義感いっぱいの、お貴族のお嬢さんから聞かせされるのだろう。護られて人生を過ごしてきた人々の、悪意無い傲慢さは本当の厄介だ。
走って巻いてやろうと思ったその時だ。
「糸は!青でもいいんですか!」
「え?」
思わず振り返ると、娘の手には、洗濯したばかりの子供の下穿きが握られていた。
娘は息を切らせながら質問を続ける。
「下穿きの、刺繍ですよ。今度青い布で、男の子の下穿き作るんですが、やっぱり白で縫った方がいいんですか?目立たないように青で縫おうと思うんですが、」
女はすぐにわかった。
(ああ、この娘がレイチェル・ジーン様だね。)
//////////////////////
飲食店では、客の質を靴を見て判断し、店子たちは、客の持っている財布の質で判断するという。
娼婦達は、客の下穿きの状態で、その客の生活状況がわかるという。
どれだけ身分の高い男でも、下穿きが古いものだったりすれば、その男の前途はあまり無いので、サービスはおざなり。
逆に力仕事の男達でも、ノリの効いた真新しい下穿きを履いている男はすぐに出世するので、見込みの良い客だ。
女が望まぬ子を産んで、子供を託す先を探していた時、娼婦仲間から、娼婦の間では有名な、王宮外れの孤児院を教えてもらったのだ。
どこの孤児院も大抵は同じような物だ。
同じような貧しい食事、継だらけの洋服。王都の孤児院では、どこでも文字は教えてもらえるらしい。地方に比べたら良い扱いだと自分を慰めるしかない。
だが、娼婦仲間がいうには、そこの子供の洗濯物が他と全く違うというのだ。
どの子も、街の子が履くような、良い下穿きを持っているらしく、洗濯物で目にする下穿きは、どれも質がよく、清潔そうだ。
既製品ではないらしい。
聞けば、耳を疑ったが、とある貴族の御令嬢が、一枚一枚縫ってくださっているとの事だ。その御令嬢は人が苦手らしく、姿を見たものはほとんどいないとか。
「あの孤児院には、子供の下穿きまで心を砕いてくださるお方がいるんだ。きっとあんたの息子も、良くしていただけるさ。」
名前はレイチェル・ジーン子爵令嬢というらしい。女は迷う事なく、大切な我が子を託す孤児院を、王宮外れの、その孤児院にしたのだ。
//////////////
「。。白、じゃない色は女神様の加護が少なくなっちまうって聞いたことある。」
「まあ、そうですのね。ではこの三角の形なんですが。。」
レイチェルはずっと疑問に思っていた刺繍の内容を、女にぶつける。
子供の下穿きを真ん中に、貴族令嬢と娼婦と思われる女が、往来で会話を交わしているのは異様な光景だし、この娘の評判にも良くない。レイチェルを隠すように、女は先ほど去ったばかりの、孤児院脇の小道にレイチェルを連れてゆく。
女はレイチェルをに求められるまま、知っている事を全部話してやった。
「。。。これはそもそも客のアッチの事情を表して、仲間に情報交換するものなんだ。」
一頻り、文字の読めない下級娼婦達の間で使われている印について説明してやる。どれも簡単な作りだ。全て男性器を表す、三角の形を元にしていて、その可動回数や形態、嗜好などが記されている。レイチェルは未婚の乙女なので、女の話は半分もわからなかったが、一生懸命に耳を傾けた。
「息子にはさ、立派になって欲しいじゃ無いか。娼婦は神殿にも近づけないだろ、せめて女神様に息子の事託す時に、女神様に良く可愛がっていただける様に、下穿きに印つけとくのさ。これだけの立派な一物を持ってるから、可愛がっておくれってね。大昔からの娼婦の風習なんだ。」
「それにしてもあんたよく気づいたね。」
女は心のそこから驚いた。
息子の娼婦が母親であると、色々傷つく事もあるだろうから、とても小さく、目立たない様に刺繍を入れるのだ。
お世辞にも綺麗とは言えない子供の下穿きの、小さな、そして単純な刺繍だ。
「。。。思いが篭っていました。刺繍は、どの子の物も、丁寧に縫っていました。。」
レイチェルはポツリと呟いた。
「。。。私は刺繍は得意なんです。これしかできないんですけど、刺した人の思いは、私には伝わりました。新しい下穿きにも、せめて同じ思いを刺してあげたいと思ったんです。」
そうレイチェルは言った。
女は、この孤児院に可愛い我が子を預けて、心からよかった、そう思った。
息子は母の顔も、母の名も知らなくていい。でも、私は、あの子を愛しているのだ。他の母親達もそうだ。
その思いだけでも、ほんの少しでいいから、伝われば。
目の前の令嬢は、下穿きの刺繍の事以外は何も聞かなかった。
「。。この印の事は、本当は娼婦以外には他言無用なんだがね、今度娼館のお婆を連れてくるよ。なんでもこの印は、女神様のいらした時代からあるらしくてね。お婆が一番詳しい。」
女は、娼館の元締めのマダムの名をあげた。
「お心遣い感謝いたしますわ。私、それに秘密を漏らすような友人も知人もおりませんので、秘密が漏れるようなご心配は及びませんわ。」
レイチェルはにっこり笑って、そして、私、残念令嬢って呼ばれてるんですよ。と微笑んだ。
女は思う。
(残念なものか。この娘は、女神様の御使わしになってくださった、聖女様だ。。)
娼婦達の間で、レイチェル・ジーンの名は有名だった。だが、娼婦達の口は固い。
自分たちと関わる事で、レイチェルに悪い評判が上がってはいけないと、娼婦達の口から、聖女と呼ばれる娘の名が漏れる事は決してなかったのだ。




