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「レイ、チェル。。」
ゾイドはよろよろと朝日を湛えた泉に向い歩み出す。ほおを何がが伝ってゆく。
レイチェル、レイチェル、レイチェル。
夢遊病の患者の様に、ゾイドは心許なくよろよろと進む。
ゾイドは大きく目を見開いて、その目に映る愛しい人の姿を、己に与える。
キラキラと光る朝日に照らされたレイチェルは、この世の何よりも、誰よりも美しかった。
この娘を取り返す為に、ゾイドは朝もなく夜もなく働き続けていたのだ。
ただこの娘に隣にいて欲しい。何もいらない。何も、欲しくない。
レイチェルが目の前から消えた日から今のこの時まで、ゾイドは朝日がこの世にあったことすら気がつかなかった。
ー世界の全てに一斉に色がつく。
この娘がいる、ただそれだけでゾイドはむせ返る様な幸せで、震える。
ハラハラとほおを伝うそれに、まだゾイドは気もつかない。
レイチェルがそこにいるだけで、日は登り、花は綻び、鳥は歌う。
(。。。生きているとは、こういう事か。。。)
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レイチェルは泉から、うんうんといいながら足腰の立っていない、ジジを肩に抱えて泉のほとりまで必死に歩いていた。
目の前で、ぽすん、と何かにぶつかって前が見えない。
(え。。?)
ジャコウの様な、気怠い匂いがレイチェルの鼻腔を掠めた。
ゾワリとした期待に顔をあげると、そこには、愛しくて懐かしくて、夢にまで見たあの人がいた。
「ゾイド様、、ゾイド様??」
口が震えて、言葉が次げない。多分幻だと思う。
だって、あの感情の見えないお方が、ハラハラと涙を流して、私を見つめているのだもの。
こんなにたくさん伝えたい事があるのに。
「ゾイド様。。」
言葉になるのは、かの人の名前だけ。
はく、はく、と空気だけが口からもれる。きっと伝えたいと思っていた思いがあるのに。言葉にならない。
ゾイド様。ゾイド様。
「。。。」
ゾイドは何も言わない。じっと、赤い目を見開いて、時が止まった様にレイチェルを見つめていた。
レイチェルは、瞬きもせずゾイドを見つめていた。
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「ジジ様!」
バタバタと王宮の侍女達が、ジジの肩をレイチェルから受けとり、白い天幕に連れてゆく。侍女達はよりすぐりの、医療の心得のあるものばかりだという。
ジジの外見は明らかに異様に変化していた。
泉に入る前は小さな少女の趣きだったが、今は体つきも髪の長さも全く違う、うら若き美しい乙女の姿だ。
ジジを苦しめていた魔力が全て、泉に解き放たれた事により、爆発的な身体の成長が起こっているのだ。
急な成長には大変な苦痛をともなうらしい。時々ジジのうめきが聞こえる。
成長したジジの姿は、王宮の壁画に描かれているディエムの神の庭に遊ぶ、妖精の様そのもの美貌だった。
ジジの母親は大変な美貌で知られた貴婦人だ。
何も不思議はないし、子供の姿のジジも麗しい公女だったが、一晩でこれほどの美貌の乙女に成長するとは。
ルークはため息をついた。
公女ジジは、間違いなく帰国後は夫を取り、かの公国を継承するだろう。
そして、公女の苦難を支え続けたアストリア国との強固な友好体制が確立さることは想像に難くない。
ジジを今回の件で召喚したフォート・リーが、平和路線に転換するならば、願ってもいない機会だ。
(こんな事が。。)
ルークは目の前で起こり続ける事実に心と頭がバラバラになる思いだった。
感情的にも、そして政治的にもだ。
そして泉のほとりでは、赤い氷と呼ばれたアストリア国随一の魔道士の男が、己の愛しい娘を前に、ハラハラと真っ直ぐな涙をその瞳から落とし続けている。
この男は先の大戦の英雄だ。指一本でバルトをも震え上がらせる非情の魔道士。
それだというのに、この小さな娘を前に、言葉もつながず、流れる涙を拭いもせず少年の様に立ち尽くしていた。
ルークからは、レイチェルの顔は見えなかった。
だが、どんな顔をしているかはルークにはよく分かった。
泉の呪いが完全に解呪された事を確認した調査団の面々は、少しずつ遺跡を確認しに泉を渡り出した。
大きな歓声や驚嘆の声が泉に満ちてきた。
遠くから20騎ほどの馬のあぶみの音が聞こえる。バルトの一隊が到着するのだろう。
ルークはレイチェルの後ろ姿を一瞥すると、白い馬の背に乗り、バルトの一隊の迎えにでた。




