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第21話

「おい、家政婦、聞きたいことがある。……それも山ほどだ」

「お墓に続いて二回目ですね」


 今まで生きてきて、かつてないほどの熱が頭と胸を支配する。

 眠るメリーの前で声を荒げないよう、無理やりそれを抑え込むことで精一杯だった。

 怒りで身体が震えるだなんて例えだと思っていたけれど、今自分の言葉は怒気に満ち、それを抑えることで声が震えているのは紛れもない事実だった。


「とても、死んでる人間には見えないんだが、これは俺がおかしいのか? それとも最近の幽霊はこんなに生々しいものなのか?」

「お嬢様が生きていると認識されたのであれば概ね正常ですね。幽霊にしては足もありますし」

「そうか。改めて聞きたいことがあるんだが」

「三回目ですね。どうぞ、なんなりと」

「……どういうことだ」

「あなたが感じたままです。お嬢様は死んでいません」

「」


 ――声が出ない。もし口を開けば、きっと叫んでしまう。

 怒鳴り散らしてしまう。


 怒りを抑えることがこんなに難しくて苦しいことだと、俺は初めて知った。

 熱くて重いモノが脊髄からせり上がり眼球が圧迫され、頭部の穴という穴からどす黒くて何かが溢れ出しそうだ。

 しかし、そんな俺の葛藤を気にもせず、家政婦は淡々と言葉を続けた。


「私は、お嬢様が死んだなどとは一言も言っておりません」

「……嘘付くなよ」


 今更何を言っているのか、理解しかねた。

 こちらの感情を意に介していないその態度にも腹が立った。

 瞼に力が入り、睨み付けていることを自覚する。


「私は、嘘は付きません」

「じゃあ、あの墓は何なんだ。確かに埋葬したって言ってたよな」

「確かに納骨したとは言いましたが、あくまで遺品とお伝えしたはずです」

「ふざけてるのか?」

「至って真面目ですが」


 本当にふざけてるか聞いてるわけじゃない。

 そんな器用なことが出来るタイプだとも思っていない。

 ただ、真面目に言っているからこそ苛立つことだってある。


「このことは、おばさんも知ってるのか?」

「私は、奥様よりお嬢様のお世話を仰せつかっております」

「だけど、昼間亡くなったって聞いたんだが」

「そうですね、皆様死んだと仰います。けれど、私には見えている、そう伝えたはずです」

「……死んでないだろ」


 確かにこいつの言ってることは、思い出してみると間違ってはいない。

 嘘も付いていない。

 けれど、周りの嘘を否定しないのは、肯定していることとどう違うんだ。


「ちゃんと生きて、息をして、ここにいて、苦しんでるだろ。傷付いてるだろ。死んでなんかいないだろ。なんでそう言わなかったんだよ」

「そう伝えたら、あなたはどうされましたか?」

「助け出すに決まってるだろ!」

「どのようにしてですか?」

「どのようにって」

「昼間のことをお忘れですか? この家ではお嬢様を死んだものとしてしか対応致しません。もしも無断で侵入したなら、ここに辿り着くまで五回は捕まっています。公共の機関に訴えても、戸籍上すら完全に死んでいる人間に対して、証言のみでこの家に対して動くことは難しいでしょう」


 落ち着いた様子で、淡々と、それでいて諭すように、彼女は俺の認識の甘さを否定した。

 今までのように質問に対する返答ではなく、それはしっかりとした意見だった。

 しかし、それでも怒りと疑問は収まらない。むしろ次々と沸いてくるようだった。


「……戸籍上も死んでるって、そんなこと可能なのか? 寺や町ぐるみであいつを死んだことにしてるってことか?」

「いいえ、お嬢様の死を作っているのは、この家の者だけです」

「じゃあ、どうやって納骨や葬式をやったっていうんだよ」

「お嬢様が事故にあったとしているのは一昨年です。しかし、葬儀は昨年行いました」

「だから、それこそグルってことに……。いや、もしかして、……嘘だろ? だから船舶事故なのか?」


 今まで聞いた話を繋げ、一つの可能性に思い当たった。

 海難事故。

 遺体のない遺品だけの納骨。

 事故から一年以上の期間を経ての葬式。

 そして、戸籍上の死亡扱い。


「まさか、死亡認定か……?」

「左様でございます」


 聞いたことがある。

 失踪者や死んでいるかどうか不明な人間を、死んでいるとみなすことが出来る法律。

 しかも、一般的行方不明などではなく、死亡の危機がある事故によって存在が明らかにならない場合、一年程度で死亡扱いに出来ると。

 例えばそう、海上における遭難――。


「じゃ、じゃあ、事故に遭ったっていうのは?」

「捏造ですね。その日からお嬢様の居場所は、この地下です」

「そんな馬鹿なこと……」

「紛れもなく現実です。私は、一昨年から学校に通いながら、お嬢様の世話をし続けました」

「……ちょっと待て。じゃあ、あいつの身体の傷跡は」

「……」


 俺の疑問を察したのか家政婦は押し黙った。

 かび臭くひんやりとした地下の空間に沈黙が下りる。

 そう、この女が世話をし続けていたというのなら、この傷を付けた人間は――。


 メリーへ視線を移すと、大人しく眠っていた。

 いや、あの状態では眠っているとは言えないのかも知れない。

 俺の家で見たような寝返りなどは一切打たず、ただただ、人形のように横たわっている。

 先ほど心臓の脈を確認してなお、心配になってしまうぐらいに。


「あれはまさか、……あんたがやったことか?」


 家政婦へと一歩にじり寄る。

 返答次第では、怒りを抑えることは出来ないかも知れない。そう思った。

 珍しく言葉に詰まっている家政婦は、今までと違い、苦々しく言葉を吐き出した。


「……習慣とは、恐ろしいものですね」

「習慣?」

「ええ。不必要なことさえ継続的に行うのですから」

「……習慣的に暴力を振るってたっていうのかよ?」


 思わず拳に力が入り、さらに家政婦へと歩を進める。

 人形じみた無表情な顔が眼前に迫る。


「おっしゃる通りです」


 その口が開かれた瞬間、自分の中で何かが爆ぜたように身体が動いた。

 自分の意識とは別に、家政婦の肩へと腕を伸ばし、そのまま木製の檻へと叩き付けた。


「ふざけんな! あいつが何したって言うんだ!!」


 背中をやや強く打った彼女は一瞬顔をしかめたが、また同じように表情を消し、淡々とした様子で答えた。


「お嬢様は、この地下に来る前からも自由を奪われておりました」

「どういうことだ?」


 語気に力が入る。

 答えることを強要するように、恫喝するように。


「外出も通学も娯楽も食事も入浴も、すべて奥様や家の方の管理化にありました。そして、何かにつけて、家の方はお嬢様に躾と称して暴力を振るいました」

「か、管理下?」

「はい、何をするにも許可が必要です。それを破れば罰が与えられました」

「そんなのって……」


 あまりの内容に、彼女の肩を押さえつけている手から力が抜ける。

 ショックを受け戸惑っている俺に、なおも家政婦は追い討ちをかけてきた。


「通学の許可が下りなくなったのは比較的早期からでした。食事が与えられない日は頻繁にありましたし、許可なくトイレに行っただけで骨を折られたこともありました」

「……なんだよ、それ」

「この地下に移されてからも、家の方は様子を見に来られた折に、ついでかのようにお嬢様へ暴力を振るいました。意味もなく、理由もなく、まるで楽しむかのように。私は、その度にお嬢様へ手当てを施しました」

「……」


 ――虐待。

 そう言葉で言うのは簡単かも知れない。

 でも、今聞いた内容は、メリーが受けてきた仕打ちは、あまりに惨いように思えた。

 現実に、そんなことが起こりえると思わなかった。


 メリーの身体の傷を見たとき、同じような気持ちに襲われたけれど、まさかここまで非道徳的だとは思わなかった。

 部屋の隅で憔悴し、横たわっているのは、まだ十二歳の少女だ。

 そして、家政婦の話では、その人生の半分近くが虐待を受けており、うち二年は死んだことにされていたらしい。


「……なんなんだよ」


 思わず頭の中に浮かんだ言葉が漏れる。

 たった二つの言葉しか浮かんでこない。

 そのうちのもう一つを口にする。


「ふざけんなよ……」


 どうしようもない理不尽に直面したとき、人間はこの二つの言葉しか出てこないのだと、俺は初めて知った。

 理不尽に対する怒りと、憎しみと、絶望感や無力感みたいなものが胸を支配して繰り返すように呟いた。


「なんなんだよ……。ふざけんなよ……!!」


 ――気付けば俺は、また泣いていた。


 悔しくて悔しくて仕方がなかった。

 あいつは、メリーは、俺が知らないところで、こんなところに閉じ込められていたのだ。

 あんな小さい身体で、止むことのない暴力を受けていたのだ。

 誰にも知られず、誰にも助けを求められず、ただただ耐えることしか出来なくて。

 それが、当たり前のように続いた。

 六年間も。


「ふざ、けんなよ……」


 家政婦の肩から外した手を上げ、額を抱えるように顔を覆う。


 俺は、あいつの過去をどうしてやることも出来ない。

 あいつの傷を、過去の記憶を、消してやることも出来ない。

 話を聞いてやることさえ、言葉をかけてやることさえ出来ていなかった。


 何も言わずに笑っていたメリーの顔を思い出す。

 俺は何をしていたのだと、余計に涙が頬を伝った。


「これを」


 その言葉と共に、俯いて滲んだ視界に白い腕が入ってきた。

 見ると、家政婦がどこから取り出したのかハンカチを差し出していた。

 俺はそれを払うような動きで拒否すると、袖で強引に涙を拭った。


「傷の原因は、あんたじゃなかったんだな……」

「私は世話役でございますから」


 俺の泣き顔にも動じず、ぶれない能面のような無表情でそう答えた。

 しかし、だからこそ、少しだけ救われた気がした。

 差し出された気遣いで分かったが、きっとメリーの世話をしていたというこの人は、見た目通りの人ではないのだと思う。


「あなたに何かが出来た状況ではありませんよ。知らない問題を解決するなんて、どんな学者や研究者にだってできません」

「あ、ありがとう」


 どうやら、俺の心境を察してくれたらしい。

 物言いこそ無機質だが、励ましてくれているのだろう。

 俺は、再度顔を拭い、質問を続けた。


「それで、なんでこいつは死んだことにされたんだ?」

「それは、動機についてでしょうか?」

「そうだ」

「お分かりになりませんか?」

「いや、なんとなくは」

「お察しの通り、お嬢様は莫大な遺産を相続されています」

「……で?」

「そして、お嬢様に身寄りはなく、今はこの家の方が親権を握っておいでです」

「……」

「お嬢様がお亡くなりになれば、余りある利益を得る方がいらっしゃいます」

「やっぱり、それなのか」

「はい」

「そんなもののためにこいつは……」

「あなたとこの家の方とでは、価値観が違うのでしょう」

「価値観なんて言葉で片付けるなよ」

「はい」

「それ以前の問題だろ」

「はい」

「……」


 分かってる。

 彼女を責め立てても、怒りをぶつけても、何にもならない。

 ただの八つ当たりだ。

 見つめた無表情な顔が、先ほどまでの印象と違い、落ち着いてと言っているような気がした。

 俺は冷静さを取り戻すべく深く息を吸い込み、言葉を続けた。


「なぁ、あとニつばかりいいか? あんたには分からないかも知れないが」

「はい」

「こいつはこんな閉じ込められてる状態で、どうやって俺の家まで来たんだ?」

「それは、施錠の不始末でございます。家の方がお酒を飲んだ状態でお嬢様に暴力を振るわれ、その後、扉や錠が開かれたままだったのです」

「いや、そこからどうやって俺の家まで来たんだよ」

「おそらく手紙、でしょうか」

「手紙?」

「はい。私は奥様の代わりに年賀状を始め、親戚付き合いなどの雑事も任されております。そして、当然郵便物の管理などは私の仕事の一環です。そこで、以前あなたのお母様からあなたのご住所を聞く機会がありました」

「俺の住所を?」

「お嬢様から、あなたのお話はよく聞いていたのです」

「ど、どういうことだ? よく分からないんだが」

「牢の扉が閉め忘れられていたその晩、たまたま持ち合わせていたその手紙と、その住所への行き方を書いた紙と、財布の入ったコートを、私は紛失してしまったようです」

「……え?」

「もしかしたらこの牢の前に落としたのかも知れませんが、私の知るところではありません」

「いや、それってどう考えてもあんたが」

「私の知るところではありません」


 念を押すように、彼女が少し強めのトーンで繰り返した。

 俺は少し笑って、「そうか」とだけ呟いた。


「しかし、屋敷の方は翌日からいなくなったお嬢様の捜索に乗り出しました。お嬢様のあの目立つ容姿と、この家の力を持ってすれば、それはそう難しくないことでした」

「それで、俺の家を付き止めてあいつを連れ出したってことか」

「いえ、お嬢様は自らの足であなたの家を出たようです。手紙に書いてあった住所とは違う駅で発見され、連れ戻されました」

「自分から? な、なんであいつは俺の家を出てったんだよ?」

「それはお嬢様にしか分かりません。お嬢様は連れ戻されてからも、どこに言っていたのか頑なに答えようとしませんでした。しかし、家の方はお嬢様が見付かった場所から比較的近い、あなたの家を訪ねていた可能性を考えていたようです」

「……」

「そのため、あなたのお母様や警察から連絡が入る可能性と対応を想定しておりました。もっとも、実際にあなたがここに来るとまでは思っていなかったようですが。ですから、あなたが屋敷を訪ねてきたことで奥様は警戒され、私はあなたの後を尾けるように指示されたのです」

「……とんでもないな」


 そうか、交番で警官の言っていたメリーの幽霊の噂っていうのは、ここから抜け出したときに誰かが見たものだったってことか。

 しかし、いくらメリーが目立つからって、いなくなった人間の居場所を数日で付き止めるなんて、俺が思っている以上にこの家の力は凄まじいものなのかも知れない。

 先ほど言っていた、証言程度では警察や公共の機関に取り合ってもらえないという彼女の言葉に俄然真実味が増す。


 昼間来たときに話したおばさんの顔を思い出す。

 柔和で優しそうな人だったが、あれは俺を欺くための偽装だったのか。


「それで、残り一つの質問は何でしょうか?」

「あ、あぁ。これは聞くまでもないのかも知れないが、一応あんたに聞いておきたかった」

「はい」

「俺は、これからどうすればいいと思う?」


 彼女がどんな意図で俺をここに招き入れたかはすでに分かっていた。

 そして、俺はどう言われても、この後どうするか決めていたし、変更する予定もない。

 ただ、何となく目の前の協力者に後押しをしてもらいたかったのかも知れない。


「自分のことは自分で決められたほうがいいと思いますが」、

 そう前置きを置いたうえで、僅かな沈黙の後、彼女は静かに口を開いた。


「過去は変えようがありませんし、あなたが過去対して出来ることは何一つありません。今までお嬢様が経験し、苦しんできた事実は傷となってその心と身体に残り続けます。しかし、これからのことは、幾らでもしてあげられることがあるはずです。その傷を雪ぐことが、癒すことが、できるはずです。そして、今あなたに出来ることが、あなたにしか出来ないことがあるでしょう」


 ――そう応えてくれた彼女の言葉は、変わらずに淡々としていたけれど、強い意志のようなものを感じた。

 俺が先ほど感じていた無力感や葛藤を、酌んでくれているようでもあった。

 メリーにしてあげられることがあるのだと、文字通り背中を押してくれてるように感じた。


 俺は彼女の言葉に無言で頷くと、布団の上で横になっているメリーの元へと進み、出来るだけ優しくその身体を抱き上げた。

 そのまま冷たい畳の上を歩き、牢の入り口に立つ家政婦の前へと進む。


「じゃあ、俺はこいつをここから救い出すことにするよ」

「そうですか」


 俺の言葉に彼女が頷く。

 俯いた顔はまつ毛が長く、美形な顔立ちに白い着物のような服がよく似合っていた。

 最初に抱いた人形や幽霊のようなイメージとは、ずいぶんと変わって見えた。


「それでは、この家の者としてそれは阻止せねばなりませんね」

「はぁ!?」


 すっかり穏やかな空気のなか送り出されるものと思っていた俺は、メリーが寝ていることも忘れて思わず大きな声を上げた。


「な、何言ってんだアンタ!?」

「いえ、私はこの家の人間ですし、奥様にここからお嬢様を出さないように言われておりますので、至極当たり前のことを言っているのですが」

「いやいやいや、そういうことじゃなくて、今さら何言ってんだよ! 俺にこいつを連れ出してほしくてここに連れてきたんじゃないのかよ!?」

「いえ、あなたがお嬢様にお会いしたいと言われるので連れてきただけです」

「はぁああああ!?」

「私は私の役目がございますから」

「いや、あんた役目って……」


 前言撤回だ。

 やはりこの女、何を考えてるのかさっぱり分からない。何がしたいのかすら理解不能だ。

 しかし、俺が困惑して戸惑い立ち尽くしていると、家政婦は急にその場でうずくまった。


「うっ……」

「え? ど、どうした?」

「痛いです」

「な、なにが?」

「持病の腹痛に見舞われて動けそうにありません」

「は?」

「持病の腹痛に見舞われて動けそうにありません」

「え、えっと、大丈夫か?」

「痛くて動けそうにありません。ですので、私が動けない間に逃げたりしないで下さい」

「え?」

「私が動けない間に、決してお嬢様を連れていったり、逃げたりしないで下さい」

「……」


 そう棒読みで訴える彼女は、それでも表情を崩すことなく、至って真剣な眼差しをしていた。

 その顔には、『お嬢様を助けてあげて下さい』と書いてあるような気がした。


「いや、悪いけどこの隙に逃げ出させてもらうよ」


 きっと、彼女の立場には建前や大義名分が必要なのだろう。

 彼女と同じように、おどけるよう、空々しく芝居がかった調子で答えた。

 こんな状況だというのに、頬が緩みかけるのを感じた。


 俺はメリーを抱えて座敷牢を出ると、そのまま歩を進めた。

 階段の一段目に足をかけたところで振り向くと、律儀にも家政婦はまだ腹を抱えてうずくまっている。

 俺はそんな彼女へ、先ほどのことを思い出して声をかけた。


「そういえばさっきは悪かった。こいつの傷をあんたが付けただなんて疑って」


 その声に反応して、彼女が顔を上げた。


「あんたがそんなことするはずないって分かったよ」

「……私も、お嬢様と一緒でした」

「え?」


 家政婦の言葉は俺と違い小さかったが、よく澄んでいて、地下室が静かなこともありはっきりと聞き取れた。


「奥様方が引っ越して来られて以来、使用人は不当な労働を強いられたり、強制的に解雇されました。母共々住み込ませて頂いていた私も、中学生の当時から働かされ、自由を奪われていた身です」

「……」

「お嬢様ほどではないにしろ暴力を振われたこともございますし、自分の時間や将来の選択肢というものはございませんでした。教え込まれたことや指示されたことをこなし、この家のために尽くす、私はそれが自分の運命なんだと、次第に諦め、感情を閉じました」


 ポツリ、ポツリと、呟くように言葉を続ける。

 俺は黙ってそれを聞いていた。 


「そんな私に、お嬢様はいつも笑いかけて下さいました。色んなことを話して下さいました。色んな事を訊ねてこられました。この地下に来てから、私が家の方には内密に勉学を教えているときも感謝されていました。たまにお持ちするお菓子を非常に美味しそうに召し上がって下さいました。自分がお辛いときも、私を気遣われ、不満や弱音の一つも洩らしませんでした」


 メリーと彼女がどんな風にこの家で過ごしてきたのか、その六年間を思い浮かべた。


 彼女もまた、被害者だったのだ。


「私は、罪悪感に苛まれながらも、淡々とお嬢様の世話を行い、そんな私にお嬢様は助けを求めることはありませんでした。ただただ、明るく接して下さいました。そんな自分が忌々しく、情けなくて仕方がありません」


 家政婦は、大きなため息を吐いて立ち上がると、檻越しに俺の目をまっすぐ見詰めて言った。


「お嬢様から聞いた話しの中で、一番嬉しそうに話されていたのは、あなたとの思い出でした。優しくて、いつも面倒を見てくれて、私が困ったときは助けてくれると、そう仰っていました」


 その言葉を聞いて、俺は胸が締め付けられた。

 そして、それと同じだけ、メリーを抱きかかえる腕に力が入る。


「あなたは、聞いていた通りの人でした。優しくて、見た目と違い情に熱く、私と違ってお嬢様を助け出すことの出来る人でした」


 彼女は夕暮れの墓地と同じように、薄く微笑んだ。

 本当にその表情の変化は些細なもので、良く見なければ見落としてしまいそうなものだった。

 ただ、俺は、その言葉は確かに嬉しかったけれど、素直に受け取るわけにはいかなかった。

 俺なんかより、こいつを、メリーをずっと想っていた人間が目の前にいるから。


「……違う、俺じゃない」


 ずっとメリーを思いやって、そして、ずっと自分を責めてきた奴に、せめて伝えなきゃならない。


「俺じゃなくて、今までこいつを救っていたのは、そして助け出すのは、紛れもなくあんただ」


 そう伝えると、彼女は驚いたような表情をした後、顔を俯かせた。

 離れていて、その目元はハッキリとは見えないが、その後に続いた言葉は、滲んでいるような気がした。


「……どうか、お嬢様を宜しくお願いします」


 白い服の前に手を重ねて、彼女は小さく頭を下げた。

 そして顔を上げると、先ほどと同じように再び腹部を押さえてその場にしゃがみ込んだ。

 今さらな感がどうしようもなくて、俺はその様子を見て思わず笑いが漏れる。

 すると、彼女がたしなめるような調子で言ってきた。


「あと、外で忠告した通り、簡単に人を信じない方がいいですよ。きっとあなたは騙されやすいです」

「肝に銘じておくよ。お返しと言ってはなんだけど、あんたは嘘を付かないと言っていたが、本当に付かない方がいい。きっと簡単にばれる」


 そう言うと、小さな沈黙のあと、初めて彼女がクスクスと声を出して笑った。

 俺もそんな彼女を見て、改めて肩を揺らした。


「必ずまた来る。その時は礼をさせてくれ」


 そう、ここから出て全てが片付いたら、必ずまた来る。メリーと一緒に。

 彼女にそう告げると、俺は階段を上り始めた。

 その後ろから、「行かないで下さい。逃げてはダメです」と棒読みの声が響いてきたので、俺は入口を出るまで笑い声を抑えることに苦労した。

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