優しくしないで
いつまでそうしていたのか。
それは彼女自身、分からない。
エリアノールは行く当ても無く、幽鬼の様にふらふらと城内を彷徨った。
彼女に掛かる声は、どれも届かなかった。
頭の整理をしようとして、しかし彼女の脳内は散らかったまま手が付くことはない。
加減を考えないで握り締め続けたクローバーの白い花冠はいつしか形を乱し、少し萎れてしまっていた。
エリアノールはゆらりと頭をもたげて空を見た。
紫と黒を掻き混ぜた夜空に、既に春の星座が瞬いている。
いつの間にか、夜だ。
「…………」
エリアノールは星の瞬きさえ鬱陶しく思ってしまった。
彼女の目が僅かに細まり、引き結んだ口に力が少し篭る。
ああ、呪わしいですわ。
エリアノールは己の運命を呪った。
私の初恋だったのに。
この気持ちは、決して誰にも負けはしないのに。
何故女性に生まれてしまったのか。
何故セレティナは男性として生まれなかったのか。
何故私は王族なのか。
何故、何故、何故、何故何故何故何故。
「何故…………」
ぐ、とエリアノールの小さな拳に力が入る。
エリアノールは羨ましい。
当然のようにセレティナが好きだと言える兄達が。セレティナと結ばれる権利がある兄達の立場が。
エリアノールは浮かれていた。
騎士と姫だなんだと、熱に浮かされた様にセレティナを好いていた。己が王族の立場であることや、同性同士だという事もいつしか忘れてしまっていた。
エリアノールは己の馬鹿さ加減を恥じた。
よくよく考えなくても、分かることだった。
自分とセレティナが結ばれないことくらい。
……いや。
「……そんなことは、分かっていました」
エリアノールは中庭の、小さなベンチに腰掛ける。
きぃとベンチの軋む音が、寂しげに鳴った。
……そう、エリアノールは分かっていた。
己の初恋が実らない事くらい。
でも。
それでも、彼女はそんな事実に蓋をして耳を塞ぎ、目の前の甘露に身を委ねた。
その甘露から、エリアノールは逃れる事はできなかった。
「だって……だって、好きなんですもの」
エリアノールは、ぽつりと呟いて
「何が好きなんですかエリアノール様」
その声に、エリアノールの心臓がぽんと弾けた。
沸騰した血液が頭の先まで上昇していくのが、彼女自身が一番よく理解できた。
エリアノールは、ゆっくりと俯いた顔を上げる。
月光を跳ね返す黄金の髪。
水晶に空を溶かし入れたような群青色の瞳。
ぴんと夜空を目指す睫毛、すらりと通った鼻筋、桜色に潤む小ぶりな唇……女神でさえ嫉妬してしまうような美貌だった。
セレティナ・ウル・ゴールド・アルデライト。
ベンチに座るエリアノールを覗き込むように見る彼女の美しい顔が、エリアノールの視界いっぱいに広がった。
心臓が、早鐘を打つ。
頭はチカチカと明滅し、胸の奥がか細くなった。
そんな気も知らないセレティナは、微笑むとエリアノールの肩にストールを掛けた。
ふわりと、セレティナの甘い香りがエリアノールの鼻腔を擽った。
「エリアノール様、日中は春の陽気で温かくなってきておりますが夜はまだまだ冷え込みます。そんな薄着で中庭にいたらお風邪を召してしまいますよ」
「……いいのですわ。お馬鹿は風邪をひかないのですから」
エリアノールはぷいとそっぽを向いた。
そうしなければ、きっと赤面したこの顔を見られてしまうから。
「そんな事を仰らずに。それにエリアノール様は聡明な方です」
「…………」
「……何かあったんですか」
セレティナはそう言って、エリアノールの隣に腰掛けた。
エリアノールの視界の端で、黄金が揺れる。
「何もありませんわ」
「……とてもその様には見えませんよ。私で良ければ、お聞きしますが」
セレティナの声音はあくまでも優しい。
エリアノールの心の領域に、ゆっくりと踏み込んでいく。
「……もしの話ですが」
「ええ」
「……もしも好きになった相手が、好きになってはいけない相手だとしたらセレティナさんはどうしますか」
エリアノールは俯いたまま、僅かに震える声でセレティナに投げ掛けた。
セレティナはそれを受け、少し困ったように頬をかいた。
相談に乗るとは言ったが、はっきり言って恋愛に関して言えばそれはセレティナには持て余す相談だ。
やってしまったかと、少しほぞを噛む。
「あっ……セレティナさん、もしもの話ですから。そんなに考え込まなくてよろしくてよ」
エリアノールはようやく顔を上げ、セレティナに微笑みかけた。
その微笑みはどこか弱々しく、痛々しい。
やはり普段のエリアノールの笑顔ではない。
何かあったに違いない。
なんとお労しい笑顔だろうか。
微力ながら、自分で良ければ力になってあげたい。
セレティナは、ひとつひとつ言葉を丁寧に選び取り、しかし彼女ながらに真摯な返答を心がけた。
「もしエリアノール様が好きになってはいけない相手を……例えば横恋慕であったり身分の違いであったりとありますが私は、私の立場から申し上げればエリアノール様にその相手はおすすめする事はできません」
「そ、うですか……」
エリアノールの笑顔に、陰鬱なものが僅かに翳る。
セレティナは、続ける。
「しかしエリアノール様がそれでも、全てを投げ打ってでもその人と結ばれたいと仰った時は、私は全力でエリアノール様を応援致します」
セレティナはエリアノールを勇気付けるように、その手を取った。
柔らかな、女性らしい手だ。
エリアノールはその手とセレティナを交互に見上げた。
「……それは、本当ですか?」
「ええ、本当です」
「本当の本当に?」
「ええ、私はエリアノール様の騎士です。嘘偽りは、言いません」
セレティナはそう言って、微笑んだ。
嗚呼……貴女は、なんて罪な人なのかしら。
エリアノールの目の奥に、熱いものが精製されていく。
……そんな甘いことを言っては。
……そんなに私を優しくしては。
……静寂が訪れる。
春の夜虫の鳴く声が、寂しげに静寂の中に落ちていく。
「…………」
幾許かの時を置いて、エリアノールはセレティナの握る手を解いてすっと立ち上がった。
涙の素顔に微笑みの仮面を貼り付けて。
「ありがとうセレティナさん、少しだけ気持ちが晴れましたわ」
「本当ですか、私気の利いた事は何も言えなくて」
「いえいえ!そんなことありませんわ!これできっと、明日からはまた元気溌剌なエリアノール姫に戻れそうですもの!」
明日から。
そう、明日からは元通り。
明日にはちゃんとするから。
……だから今日までは、貴女を好きでいさせて。
エリアノールはベンチに置いた花冠を手に取ると、自分の頭に被ってみせた。
「ふふ。どうですかこれ。私が編んだんですのよ、よく出来てるでしょう」
「ええ、凄く可愛らしいです。私そういうの作ったことがなくて」
「あら、では今度一緒に作りましょう。作り方を教えて差し上げます。きっとセレティナさんは花冠が似合いますわ」
そう言ってエリアノールは笑った。
セレティナに贈るはずだった、クローバーの花の冠を頭に載せて。
クローバーの花言葉は『私を思って』。
月光に輝く白の花は、僅かに萎れて形を崩している。




