寝息
*
「エリアノール姫。そう泣かずともこの者は生きております」
「なっなっなっ泣いでなどいばぜんわ!!!!」
その頃、ダンスホール。
エリアノールは泣いていた。
ぼろぼろぼろぼろと涙が鼻水が、彼女の端正な顔を溶かしている。
エリアノールの心の不安は既に取り払われていた。
「…………すぅ…………すぅ………………」
今まで化け物と命の奪い合いをしていたとはとても思えない、セレティナの無垢な寝息によって。
駆けつけたエリアノールが見たセレティナの姿は、余りにもな姿だった。
紅色のドレスはズタズタに破けて背中と足を晒し、露出している彼女の白い肌はどこもかしこも煤と埃を被り、その美しい黄金の髪も激しい戦闘によって乱れていた。
魔法薬によって傷は癒えているとはいえ、流した血はドレスや彼女の肌を汚し、とてもまともな状況とは言えなかった。
ぐったりとロギンスの腕の中で眠るセレティナが、まるで息絶えてるかのようにエリアノールの瞳に映ったのだ。
それを見たエリアノールは、それはもう泣いた。泣きに泣いた。
年頃の娘とは思えない程の大声を出して、兄達の慰めも聞かず、わんわんと小さな子供のように喚き散らした。
「姫、ご安心ください。彼女はこの通り」
しかしどうだ。
ロギンスが抱えたセレティナをエリアノールの近くまで寄せてみれば、寝息が聞こえてくるではないか。
すぅ、すぅ、と規則正しく寝息を立てて彼女の僅かに膨らんだ胸が上下する様に、エリアノールは再び泣いた。
嘆きの涙ではない、安堵の涙だ。
エリアノールは崩れ落ちた。
嗚咽を漏らし、きゅうと締め付けられる胸を押さえつけた。
……心配だったのだ。
セレティナの騎士の誓いを疑った訳ではない。
それでも彼女の心は生まれてこの方一度も経験した事の無い程の緊張を抱えていた。
だからこそロギンスの手にナイフを突き立てるという手段にまで手を出す事ができたのだ。
そんなエリアノールに、ロギンスは深々と頭を垂れた。
「エリアノール姫。貴方が私を起こしてくれなければ、尊い命をみすみす手に掛けられているところでした。貴方の勇気ある行動に、深き感謝を」
「いっいえ……!」
エリアノールはぐしぐしと涙と鼻水を拭うと、改めてロギンスに居直った。
「騎士ロギンス、感謝するのは私の方ですわ。人の手を貫くなど、決して王族として褒められる様な行為ではなかったのですし……」
「……ふふ。しかし貴女のその王族らしくない振る舞いが私を起こし、結果としてこの国の危機を払い除けたのです。誇っても良いとは思われませんか」
「しかし……」
「陛下もそうは思われませんか」
ロギンスの視線は、エリアノールの側のガディウスへ。
ガディウスはエリアノールの頭に手を置いて苦笑した。
「ロギンス、お前がそう言うのならばそうなのであろう」
「姫、そういう事です」
「お父様……ロギンス……」
エリアノールの表情に、小さな花が咲いた。
自分の行動は褒められたものではない。
けど、それでも。
国を……セレティナを守れたというのなら。
エリアノールは、セレティナの頬をそっと撫ぜた。
涙は、もう出ない。
「……もう。騎士だというのなら、姫に心配をかけないで欲しいですわ……」
セレティナを見つめ、微笑んでいるエリアノールの瞳には限りない親愛が溢れていた。
「……エリアノールだけが一歩前進か?」
「何の話ですか」
「いや、こっちの話だ」
遠巻きに見ていたディオスはそう言って疲れた笑みを浮かべた。
そうしてウェリアスに何枚かの羊皮紙を押し付けた。
「先行して城から逃げ出した奴等と怪しい動きをしていた貴族達のリスト。上がったぜウェリアス」
「ありがとうございます。仕事が早いですね」
「いや、お前が『春』が開催される前に釘を刺してくれてたお陰だな。まあ優秀なのはメイド達なんだがな」
「貴方も城を走り回っていたんでしょう」
「……武闘派だからな。隅っこで何もしていないのは性に合わないのさ」
「……自ら死地に行くなんて聞いて呆れますね。貴方はこの国の第一王子だという自覚を持った方が良い」
俺を好き勝手させる方が悪いのさ、とディオスは舌を出して笑った。
「……今回の事件、どう思う?ウェリアス」
「このリストを見るにやはり反王族派閥の行いだったとは推測できます。ですが……」
「……どうした?」
「上級魔物の出現……それに兵達を全員無力化できる手段を奴等が持ち合わせているとは思えません」
「……成る程。最初のあの餓鬼の様な魔物を手引きするところまでは良かったが、それ以降は奴等の思惑の外を外れてたと?」
「……恐らくは。あくまで推測の域を超えられませんが」
ウェリアスは爪を噛んだ。
反王族派閥も、国を大きく傾ける程の事をしようとは思わないはずだ。
奴等はこの国の舵を取りたいのであって、王族派閥の蹂躙虐殺をしたいわけではない。
上級種を王都で暴れさせ、且つ騎士を含めた戦力を昏睡させているとあっては国が沈むやもしれない。
「……やべぇな」
「ええ……。今回反王族派閥を粛清できたとあっても、上級種の魔物を引き入れた者や兵を昏睡させるなんらかの力を持った者を潰す事には繋がりませんからね。……ディオス。僕達は……いや、エリュゴール王国はとんでもない敵に、喉元まで食いつかれていたのかもしれません」
ごくり。
思いがけず、ウェリアスとディオスの喉が鳴る音が重なった。
「……とんでもない敵、ですか。心当たりがあります」
ぬぅっ、と。
二人の間に割って入ったのはロギンスだった。
どうやらセレティナはイェーニスに預け、エリアノールと共に客間にでも行っているらしい。
「心当たりがある、ですって?」
「……正確に言えば心当たりがあるというよりは見た聞いた、と言った方が正しいですね」
「……ロギンス、それは本当ですか?」
「ええ。それに話したい事も少々ありますので出来れば声が漏れない話し合いの場を設け、そちらで話したく存じます」
「ああ。直ぐに用意させよう」
「有り難き」
『黒白の魔女』。
……それから魔女とセレティナの関係。
ロギンスの中には洗っておきたい情報はいくつもある。
彼にとって旧友であるメリアの安否も気掛かりではあるが、今は取り敢えず陛下と王子に事の顛末を言っておかねばなるまい。
ロギンスは重たい吐息を虚空に吐いた。
その頭鎧の下の溜息に気付く者は、誰も居なかった。




