羊を狩る狼
魔物と呼称される生物がいる。
何の為に存在し、どういう過程で産まれたのか、何故人類のみを殺すのか、その殆どが謎とされる存在。
観測されている地図上の凡そ五割に魔物が跋扈し、人類の生存圏が得られないでいる。
奴等には知能がある。
それは、人を殺す為の知能。
奴等には意思がある。
それは、人を殺す為の意思。
奴等には力がある。
それは、人を殺す為の力。
魔物は無遠慮に、無秩序に、無配慮に人の全てを奪っていく。
その癖、奴等は人類の生存圏には踏み込んでくることは滅多に無い。
奴等はまるで地図上に線を引いた様に活動圏を限定している。
とは言えその線引きが絶対とは言い切れず、魔物は稀に線を跨ぎ、人の命を喰らい尽くす。
魔物は、恐ろしい。
無より産まれる個体もあれば、分裂して個体を増やす種もいる。
そして最も人類圏に侵略する種類の一つとして、人の体に種を植え付ける魔物が存在する。
そう、今ここで誕生した魔物の様に。
*
デブィア男爵が、爆発した。
体は肉片となって飛び散り、血は蒸発し、辺りに血の臭いと、焦げすえた肉の臭いが充満する。
ダンスホールに集った皆が、呆気に取られて言葉が出ない。
僅かな静寂がホールを支配する。
「ひっ」
誰かが小さく悲鳴を上げた。
見れば、床に張り付いたデブィア男爵の焦げた肉片がもぞもぞ、と動き出していた。
もぞもぞ。
ぐねぐね。
まるで芋虫の様に、全ての肉片が身悶えている。
もぞもぞ。
ぐねぐね。
一つ一つの肉片が収縮し、飛び跳ね、形を変えていく。
伸び、広がり、大きく。
それはやがて人型に形を変えていく。
餓鬼だ。
一欠片の肉片が、黒々とした餓鬼に変貌した。
大きさは、小さな子供くらいか。
でっぷりとした腹に枯れ枝の様な四肢を生やしているそれの顔には、目と鼻が無い。
顔には、鉄でも噛み砕きそうな乱杭歯を並べた大きな口が一つだけ。
餓鬼は、涎をだらだらと垂れ流している。
飢えて、飢えて、飢えて、もう、腹ペコだ。
目は無い。
だが、この場には餓鬼の飢えを満たす事の出来る御馳走が山程並べられている。
餓鬼は見渡す仕草をしてみせると、顔を横裂きしたような笑みを浮かべた。
……そして何十と産まれた餓鬼の内の一つが、未だ硬直していた群衆の中に飛び込んだ。
それからは、正しく阿鼻叫喚の地獄絵図の光景が広がった。
男達は隣人を蹴散らしながら我先にと出口へ向かい、女達の絹を裂いた様な悲鳴が輪唱し、そして餓鬼達のせせら笑う声、肉をちぎる音、血が床を叩く音、絶叫……。
これは、蹂躙だ。
羊の群れに、狼の群れを放った様なもの。
食う側と食われる側。
魔物と人間の縮図が、ここにある。
「騎士は!鳳騎士団はどうした!警備に当てている筈だろう!」
誰かが叫んだ。
恐怖に竦み、上擦った声だ。
だが、それに応える声はない。
駆けつける騎士もいない。
絶叫と絶望が、眼に映る全てだった。
「ひぃっっ……!や、やめ……!こ、ないで……!」
エリアノールの酔いはとうに醒めていた。
意識は覚醒し、はっきりと自身の死を肌身に感じている。
エリアノールは、動けない。
初めてみる惨劇に足が竦み、へたれ混んでしまった。
ガチガチと奥歯が鳴り、体の震えが止まらない。
自分を、見ている。
餓鬼の一体が涎を垂らしながら、緩慢な動きでエリアノールに近づいてくる。
「ウフ、エヘ、アハ、グフ、グヒ」
枯れ枝の様な腕で涎を拭い、ぺたぺたと足を鳴らしながら、それはエリアノールへ一歩、また一歩と近づいてくる。
「だ、誰か……!誰か助けて!お願い!お願いお願いお願い!」
エリアノールは縋る思いで叫んだ。
兄は、父は、目を配らせるが周りに居ない。
エリアノールは周囲を見渡した。
誰か、誰か、誰か。
一人の男と目があった。
彼は、茶会で会った事もある紳士な侯爵家の子息だった。
助けて。
エリアノールの声にならない叫びが、その男を突き刺した。
……が、男はそれに応えない。
それ以上一瞥する事もなく、彼はその場を逃げ出した。
エリアノールはどうなっても良い。
自分だけでも逃げ出したい……その一心だった。
「あ……」
エリアノールの翡翠の瞳から、涙が零れ落ちた。
……なんて、憐れな私。
エリアノールの脳が、急速に冷却される。
彼女の胸に渦巻いたのは、理解と納得。
そして……諦め。
……結局、自分を守ってくれる王子様なんて御伽噺の中だけだったんだ。
何度も何度も読み返して一言一句まで暗記したあの絵本。
いつか自分の元にも、あの王子様みたいな紳士が現れるのを夢見ていた。
だから、この『春』が待ち遠しかった。
だって私、本当のお姫様なんですもの。
姫様のピンチは、誰かがきっと救ってくれる。
そう思っていた。
でも、そりゃそうよね。
誰だって怖い。
怖いのは、私だけじゃない。
自分の身がやっぱり一番大事なんですもの。
私は王子様に……人に、幻想を抱きすぎていた。
あーあ。
こんな事になるなら、もっと沢山ケーキを食べておけば良かった。
エリアノールの翡翠の瞳の目前には既に開かれた餓鬼の口が、剣山の様な乱杭歯を覗かせていた。
食べられる。
あの乱杭歯が、エリアノールの端麗な顔の柔肌に食い込む、正にその時だった。
エリアノールの顔の横から、銀色に煌めく宝剣の刀身が飛び出した。
鋭く空を裂いた刀身は、餓鬼の頭を喉から抵抗なく串刺しにした。
「あ……」
エリアノールは、呆然と振り返る。
「ご無事ですか、姫」
鈴の様な声は、この喧騒の中でもすんなりと彼女の耳に届いた。
努めて安心させる様に、汗だくのセレティナがエリアノールに微笑みかけた。




