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リキテル3/4

 


「ハッ……ハッ……!」



 リキテルは走った。

 綺麗な飲料水、バゲットにチーズ、そしてとっておきは露店で買った串焼き肉……リキテルは沢山の食べ物を両腕に抱えて走っていた。


 貯金は元より頭の中にあったのだが、銀貨など手にするのは初めてだった。

 子供の抱えた小さな心は増長し、結果散財するに至ったが、リキテルが後悔するのはまだ少し先の話だろう。



(ティーク、待ってろよ)



 弟は、きっと破願して喜ぶことだ。

 リキテルは兄として自分を誇らしく思い、また、弟の喜ぶ顔が早く見たくて仕方がない。



 ちらりと空を仰ぎ見る。

 橙の空に紫が溶け始め、いつの間に日が落ち始めていた。


 夜の寒さを帯び始めた空気を吸い込み、僅かにリキテルの心に冷静が返ってくる。



「……少し急いだ方が良さそうか」



 昨日の今日だ。

 またあの男が癇癪を起しては堪ったものではない。


 リキテルは帰路を急いだ。



 ◇



「……妙だな」



 ややあってリキテルはいつもと違う感覚を異変だと感じ始めた。

 彼の住まう寒村は方角からして北東だ。


 この近辺では一番始めに朝がやってきて、一番始めに夜が来る。

 だというのに北東の空がやけに明るい。


 貧しく、慎ましやかなあの寒村で突発的に祭事をすることもまず有り得ない。



 リキテルは妙な感覚を抱えたまま、しかしその足を止めはしない。



 ……しばらくすると、村の方角から大勢の大人が走ってきた。

 皆一様に顔を大きく歪め、必死の形相で何かから逃れる様だった。


 その大人達はリキテルも知っている村の大人達だった。



「ちょっと待て! お前らどうしたんだ!」



 リキテルが呼び止めるも、大人達はひいひいと息を切らして立ち止まる事無く彼の横を通り過ぎていく。止まるどころかリキテルの小さな体は大人達の波に押し飛ばされ、彼は尻餅を突いた。



「お、おいっ!」



 大人達は、去っていく。

 その余裕の無い背中に、リキテルの胸の奥で小さな不安の種が芽吹いた。



「……まさか、だよな」



 小さな不安を口の中で転がし、リキテルは立ち上がった。


 それからは彼の行動は速かった。

 買い込んだ食料を道の外れにある木立の洞の中に隠すと、一本の錆びだらけのナイフを懐に押し込んで駆けだした。


 リキテルは飛ぶ様に走る。

 ぽん、ぽん、と草原を駆ける小さな体躯に収められた心臓は、しかし無様に暴れていた。


 言い様の無い不安が、血流に沿って全身を満たす様だった。







 しばらく走ると、村の全容が見えてきた。

 いつもの寂れた村とは違う、赤い喧騒が満ちているのが遠く離れた場所からでもよく分かる。


 村は煌煌と火を噴き、何か黒いものが地表を跋扈している。


 リキテルの喉が干上がった。

 村が、魔物に襲われている。


 それももう手遅れなくらいに壊滅しているのだ。



「ティーク!」



 リキテルは弟の名を叫ばずにいられなかった。

 親や家のことなど頭の隅にさえない。


 ただただ自分の帰りを待っていた弟が心配で堪らない。

 この時間帯ならば、ティークは村にいるはずなのだから。



 村の門を滑る様に潜り、裏道や屋根を伝ってリキテルは村の中枢へと駆けていく。


 火焔と悲鳴が、辺りを飲みこんでいた。

 住み慣れた村の変わり果てた形相は、見ていて心が罅割れるようだった。



「ティーク……! 無事でいてくれ……!」



 祈るような呟きは虚空へと消えていく。

 灰と血の臭いが充満するこの空間で、それは余りにもか細い希望であった。


 するすると下水に蔓延る鼠の様に魔物共の網羅を抜け、リキテルは漸く家の目前へと躍り出た。



「ティーク! どこだ!」



 家は、倒壊していた。

 襤褸小屋としか捉え様のない家は少し火に晒されただけでこの様だ。


 ……ティークはいつもであれば家の中にいるはずだ。


 リキテルの顔から、サッと血の気が引いた。



 ――しかし。



「兄ちゃん!」


「ティーク……!?」



 リキテルの心臓が跳ねあがる。

 その声は弟のものに間違いが無かった。


 ぐるりと瓦礫の周りを走ると、



「ティーク!」


「兄ちゃん……来てくれたんだ……!」



 ティークは、そこにいた。

 両脚が瓦礫の中で押し潰されているが、確かにそこにいる。


 這いつくばった弟は目に涙を浮かべながら、苦痛と喜びの入り混じった表情を浮かべていた。



「ティーク、お、おいこれどうなってんだ」


「兄ちゃん、痛い、痛いよ……」



 屈むリキテルの服を、ティークは力一杯に握り込んだ。

 腿から下は、まるでトマトを潰したようだった。

 じゅくじゅくと流れる血液は、いまだに彼の足を握り潰している梁を赤色に汚し続けている。



「ま、待ってろ。今兄ちゃんがなんとかしてやっからな!」


「うん、うん、お願い兄ちゃん……!」



 リキテルは冷静に、しかしバクバクと暴れる鼓動を抑えながら近くにあった手頃な木材を拾い上げた。そいつをティークの足を握って離さない梁の下に差し込んでやり、梃子の原理を利用して押し上げようと試みる。



「ふん……っ!」



 しかし、ビクとも動きはしない。

 子供の腕力なのだから当たり前だ。



「クソッ……クソッ……!」



 周りに絶えず響き渡る悲鳴と、魔物達の嬌声……それからこの襤褸小屋を炙り続ける炎の手が、リキテルの矮小な心を焦がし続ける。余裕は無い。時間も無い。


 頑として動かぬ梁に対して、リキテルの苛立ちは最高点に到達した。



「兄ちゃん、痛い、熱いよ……助けて……!」


「大丈夫、大丈夫だ、兄ちゃんが何とかしてやっから!」



 だが、事態は何も変わらない。

 ただ悪戯に時間が過ぎ、魔物達がいつやってくるとも分からない恐怖が兄弟を脅かし続けた……その時だった。



「お、おい! リキテル! 俺を助けろ!」



 親代わりをしていた、あの男が声を掛けたのは。



「なに?」



 見れば、少し離れてその男もティークと同様に瓦礫の下敷きとなっていた。

 弟と比べ、明らかに足の外傷は軽く、隆々とした腕が何とか瓦礫を浮かせている。

 あれならば、少し手伝えば抜けられそうだ。


 だが、



「馬鹿を言え。誰がお前なんか助けるんだ」



 リキテルはいい気味だと思った。

 天誅だ、とも。


 お前に構っている暇など一秒も無い……そう言ってやる様に、リキテルは梁に差し込んだ木材に一層力を加えた。



「ば、馬鹿野郎! 俺を助けろ!」


「なんでお前なんかを……!」


「お前の言いたい事は分かる! だがこういう時こそ人手が必要ってもんだろう! 非常事態だ、私怨だ何だと言っている場合じゃねぇ! 人命が掛かっているんだぞ! 俺ならティークを助けてやれる! ガキの力じゃそいつを動かすのは無理だと分かっているだろう!? だから、まずは俺を助けろ!」



 男の叫びは余りに切実で、的を射ていた。

 緊急事態で恨みだなんだと私情を挟んでいる場合じゃない。


 だが、それを邪魔するのはリキテルのプライドと、男に対する圧倒的な猜疑心。



「……」


「早くしろ! 弟ともども死にたくなければな!」


「……くぅ!」



 しかし、つべこべ考えている場合ではない。


 リキテルは角材を引き抜くと、男に覆いかぶさっている瓦礫の下にそれを差し込んだ。



「ぐううおおお……!!!」



 力を振り絞ると、瓦礫が僅かに浮いていく。

 リキテルの力の後押しもあり、男は力を漲らせて瓦礫の中から腕力で押し返してやったのだ。


 男は顔面を紅潮させぶるぶると震えながら漸くの事で瓦礫の下から這い出ることが出来た。

 転がりながら立ち上がり、衣服の汚れを叩くと掌を吹き付けた。



「ひゅー……! 死ぬところだったぜ」


「よし、よし! おい! 次はティークだ! 力を貸せ!」


「へっへっへ……ありがとうよ」


「お……おい……」



 男は、にやりと笑んだ。






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