灰色の狼
鋭利で、されど鈍重な地響きが兵士達の腹の腑を叩く。
大蜘蛛の魔物は、その巨体に似合わぬ精巧な絡繰り人形の様な足取りでウルブドールに踏み込んだ。黒曜石を思わせる黒々とした八つ足を器用に操り、大蜘蛛はまるで地を滑る様に這い動く。
強大な大蜘蛛が凡そ目測もつかぬほどの小蜘蛛達を従えて進撃する様子は、いくら屈強な兵士達といえど彼らの平静を刈り取るには十分な光景であった。
――恐怖。
――絶望。
人の波に、隙間なく死の感覚が吹き抜ける。
滑らかに這い回る大蜘蛛の八つ足はまるで死神の鎌のそれだ。
そら逃げろ、逃げろ、逃げなきゃ死ぬぞ。
遅れた者から刈り取るぞ。
怖れを抱いた者から死神の囁きは聞こえるものだ。
それからは、崩壊が始まった。
うら若く、死を体感したことのない新兵がまず背を向ける。
得難い恐怖は何よりも彼らの体を突き動かし、前線が瓦解していく。
戦う意志のある兵士も多分にいるが、前線の逃げ惑う兵士達の波に押されて思う様に動く事は出来ない。
阿鼻叫喚の最中、小蜘蛛は逃げ怯む兵士達の背中をせせら笑うように刈り取るのみだ。
大蜘蛛は、何もしてはいない。
ただひたすらに、女王の様な威容を誇る巨体を僅かに傾ぐだけで、人の心をかき乱す。
ウッドバックは大きく舌を打つ
と、思いがけず腰に差した戦斧を引き抜いた。
「イミティア! ドウスル!」
「……あれは不味い。小さい奴らには目をくれるな、あのデカブツを討つぞ。あれを自由にさせていたら内門までたちまち崩壊する」
「オウ!」
言うが速いか、イミティアは疾風の様にウッドバックの肩から飛び降りる。
ウッドバックもまた、ぐるぐると肩を回して息を巻いた。
「あたしが時間を稼ぐ! その隙にお前が奴のハラワタを引きずりだしてやれ!」
そういって、イミティアは駆ける。
逃げ惑う兵士達にも、彼女に襲いかかる小蜘蛛共にも目もくれず。
踏み砕き、擦り抜け、飛び越えて……目指すのは女王の首一つだ。
速く、速く、速く、風よりも速くイミティアは駆け抜けていく。
凡そ人智を超えたその速さは、彼女が狼種の獣族の血を引いているからに他ならない。
……しかし、それでも、その速さでさえ彼女の満足の至るところではない。
イミティアは研ぎ澄まされた剣を振るいながら、牙を剥いた。
グルグルと喉奥を鈍く震わせ、口の端から熱い吐息を漏らす。
(力を、もっと力を)
そうして、イミティアは吠える。
力に焦がれ、慟哭するかのように。
……するとどうだ。
彼女の白い柔肌は、たちどころに灰色の硬い体毛に覆われていく。
爪は鋭利に伸び始め、鼻の頭は僅かに隆起し、体はしなやかな筋肉を帯び始める。
幾許かの時を置いて、とうとうイミティアの体はより狼に近しい形へと姿を変えた。
言うなれば、人間から二足歩行の狼へと変態を遂げたと表現したほうが分かりやすいだろう。
これを、『半獣変態』と呼ぶ。
獣族が有する、野性を解放するための力。
力も速さも恐ろしく発達し、あらゆる感覚さえ鋭利に研ぎ澄まされる離れ業だ。
狼の力を得たイミティアは、先程まで自分が身を置いていた世界の速度を置き去りにして大蜘蛛に迫る。
――一閃。
イミティアに操られた銀色の剣閃は、悍ましい速度で直線を描き、大蜘蛛の一本の足を捉えた。
硬質な音。
イミティアの握る剣の柄からは、鈍い感触が返ってきた。
黒曜石の様な大蜘蛛の足は、予想を上回る硬さをもってイミティアの剣を弾き返す。
いや、弾き返そうとして、更にそこに二撃三撃とイミティアは剣を叩き込んだ。
圧倒的な力をもろに受け、大蜘蛛の足はやにわに悲鳴を上げ始める。
堅牢な足に亀裂が入り始めたのだ。
今まで静観を決めていた大蜘蛛自身も、これには堪らず悲鳴を上げる。
恐らく、予想外の破壊力だったのだろう。
大蜘蛛は巨体を振り回して足元に群がるイミティアを振り払うと、辺りにところ構わず糸を吐き散らした。
粘質な糸は兵士達や小蜘蛛さえも巻き込んでその場に押し潰し、辺りを象牙色に染めていく。
イミティアは飛来する糸の群体を易々と躱しながら、その時を待つ。
狼の速度に、蜘蛛は決して追い付けない。
橋を汚す糸に着地しないように努めて冷静にステップを踏み、彼女は自分の何倍程の巨体を誇る大蜘蛛を翻弄していく。
そして、頃合いを計ってこう叫ぶのだ。
「ウッドバック!」
大蜘蛛の、更に上。
太陽に重なった大柄の巨人が、斧を上段に構えて今まさに落ちてくるところだ。




