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閑話・その頃の兄は

 

 小気味良く、肉切り包丁がまな板を叩く音が厨房に響く。

 切れ味の良い刃に、脂の差したブロック肉は魔法の様に次々と細断されていった。

 

 程無くすると、男の腕ほどもあるブロック肉はボウルいっぱいのサイコロ肉の山へと姿を変える。

 

 肉の次は葉野菜だ。

 こちらも何ら遠慮の無い包丁が、ざくざくと音を奏でながら一口大のサイズへと切られていく。

 

 妙齢の女料理人はひとしきり具材を切り終えると、額の汗を拭って竈の具合を確かめた。

 

 轟々と赤く猛る火は、厨房どころかカウンター越しにさえその熱波が伝わるようだ。

 

 女料理人はその上にカンカンに熱せられた巨大な鉄のフライパンを被せ、そこに惜しげもなく豚脂ラードを流し込む。フライパンに脂が馴染んだころが頃合いなのだろう。女料理人はボウルに山と積まれたサイコロ肉をお玉で一度掬うと、フライパンの中に躊躇無く放り込んだ。

 

 そうすると肉が焼ける高音が、脂が熱で染み出す嬌声が、わぁっと厨房に広がった。

 じゅわじゅわと脂が弾ける香ばしい香りが、厨房に一斉に充満していく。

 

 

「家のメシよりやっぱりこっちだよなぁ」

 

 

 カウンター席に座るイェーニスは大きく鼻を膨らませながら、垂れる涎をぐいと拭った。

 カンカンカン! とお玉に張り付いた肉をフライパンに落とす女料理人の背中に向けられた彼の視線は、まるで恋する乙女のそれだ。

 

 

「お坊ちゃま、斯様な大衆食堂で勝手に食事をされては困ります。腹が膨れてお家での食事を疎かにしてしまってはメリア様がきっと怒りますよ」

 

「わはは。俺の胃袋を舐めてもらっては困る。これくらいなんともねぇよ。せっかく街に下りてきたんだ。ちょっとくらいハネ伸ばそうぜ」

 

「し、しかし……」

 

 

 従者の男は奔放に振る舞うイェーニスに対してたじたじだ。

 この後も稽古や勉学のスケジュールが詰まっているというのに……。

 

 しかし彼の気苦労など露知らず、にんにくの香りの湯気を立ち上らせた肉野菜の皿と、葡萄酒が注がれたゴブレットが、女料理人の手によってイェーニスの前に運ばれた。

 

 

「うは、美味そう。いただきます」

 

「ちょっとお坊ちゃま! 酒は流石に」

 

「構いやしねぇよ一杯くらい。俺、前に内緒で一回父上のワインボトル一本開けちまったこともあったんだから。飲んだ内にはいらないって」

 

「お坊ちゃま~~……」

 

 

 がっくりと項垂れる従者を余所に、イェーニスは景気づけだと言わんばかりに葡萄酒を呷った。

 そんな様子を、女料理人はにこにこと見ている。

 

 

「イェーニス君、大丈夫? 従者さんもそう言っているけど」

 

「大丈夫大丈夫。本当に大丈夫じゃないときはちゃんとわかってっからさ、俺」

 

「ふふ、ならいいけど。あっ、それよりもさぁ……」

 

 

 と、言いかけたところで。

 どやどやと団体客が、この狭い食堂に押し寄せた。

 

 飲んだくれているのか、男達は皆日が高いというのに顔を真っ赤に染めている。

 

 彼らはイェーニスの姿を認めると、パッと表情を華やがせた。




「おお! イェーニス様じゃないか」


「坊ちゃん今日はどうしたい、また稽古のサボりかい?」


「従者さんも気苦労するよなぁ、こんな悪坊主のお守りさせられて」


「ええい、寄るな寄るな。お前達酒臭いんだよ」




 しっしっと邪険に追い払うイェーニスに、しかし飲兵衛達は群がった。


 しかしこの平民達はどうにも貴族イェーニスとの壁が薄いように見える。


 というのも、これはアルデライト領主の夫人がメリアである事と関係が深い。


 元々平民であったメリアと、そのメリアに関心が高く、また、平民への理解も深いバルゲッドが治めている土地なのだ。

 ともなれば彼らの間の壁が薄いのも頷けることだろう。


 ……まあ、街に繰り出したイェーニスが何の分け隔てなく平民達と触れ合っている、というのも大きな要因だろうが。

 それに、この飲んだくれ達とこの食堂は彼の顔馴染みだ。




 酔いの回った飲兵衛達は貴族の子息ということすら忘れ、まるで親戚の子供であるかのようにイェーニスの頭を撫でくりまわした。




「なぁイェーニス坊ちゃん。セレティナ様は元気か?社交界に出られたのだろう?お前みたいに街には出てこれないのか?」



 一人の男が、息を巻いてイェーニスに捲し立てた。

 なんだか妙に熱のある質問に、イェーニスは僅かにたじろいだ。



「はぁ? セレティナ?」


「屋敷にいたんじゃ分からないだろうが今や街中、いや、アルデライト領中セレティナ様フィーバーだぞ」



 眉根を顰めるイェーニスをよそに

 そうだそうだ!

 セレティナ様のことを教えてくれ!

 と、取り巻きの男達も思い出しかのようにイェーニスに詰め寄った。

 いずれも妙な熱量のある視線と声音だ。

 そう、それを私も聞きたかったの! と、女料理人まで出張る始末。


 イェーニスは、混乱した。



「は、はぁ? セレティナ、フィーバー? なんだってそんなことに」



 困惑するイェーニスに、男達は追撃の手を緩めない。



「初社交界で絶世の美を持ってして全ての男達を魅了したとかしてないとか」


「王子達が婚約を迫った、なんて噂も聞いてるぞ。本当なのか?」


「俺は窮地を救ってくれた王国騎士団長と恋に落ちた、と流れの吟遊詩人が歌っていたのを聞いた」


「何にせよ誰の噂を聞いても、飛び上がるほどの美人だというのは共通項だよな。おい坊ちゃん、やはりそんなに美人なのか妹さんは」


「セレティナ様が屋敷を出られた、ということは俺らも拝見する機会はあるんだよな?」


「街中どこ行っても、今やセレティナ様の話で持ちきりなんだ。坊ちゃんの口から真相を聞かせてくれ」




 イェーニスに降り注いだのは虚構と真実。

 それぞれが良い塩梅にコントラストを描く、眉唾な噂の滝であった。


 イェーニス本人からすれば知るかよ、の一言なのだが……。



「おいおい……。街中そんな下らない噂ではしゃいでるのか……」


「坊ちゃん下らないなんてことはないですぜ。屋敷から一度も出たことがない……領民が一度も見たことがない深窓のご令嬢が、初の社交界でこれだけ噂になってるんだ。それに、事の次第によっちゃ王妃になるかもしれねぇんだろ」


「まあ……確かにそうかもしれんが本人を差し置いてそんな噂がなぁ……誰が流したんだか……」



 頬杖を突くイェーニスだが……



「俺はバルゲッド様が街で声高らかに話していたのを聞いたぞ」


「俺もそれ見たことがあるな……。あの人街に来てはしょっちゅう娘自慢だからな」



 ……犯人は、身近にいるものだ。



「あんの髭熊……愛娘に嫌われたって俺知らねーぞ」


「で、で、真相はどうなんだイェーニス坊」


「知らねーよ。セレティナが帰ったら直接聞け」


「なんだよケチだな」


「それより帰ったらってなんだ。セレティナ様はどこかに行かれてるのか?」



 先程から男達の顔が近い。

 イェーニスは鬱陶しそうに顔を押しのけた。



「帝国だよ」


「帝国!? まさか国の外へ行かれるたぁ……何をしてるんだ」


「何をしに……そうだなぁ」





「今、何してるんだろうなセレティナ」





 イミティアには、会えたのだろうか。

 兄なりに息災であることを願いつつ、イェーニスは群がる男達をどう煙に巻こうかと、ぼんやりと考えた。


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