026.結界起動
ドリスとアリシアを見送った後、編術師団の研究施設へはすぐに着いた。
人格が変わってしまったドリスのことは気がかりだが、こうしている今もヴォルフガングたちがグロースプラガーの出所であるライツ葬送に突入している。
セキトの装甲はグロースプラガーのハサミも毒もものともしないから、乗っている間は大丈夫だが、あのヤンチャオヤジのことだ。中でおとなしくなんて絶対していないだろう。
魔剣カルニフィクスを振りまわし「この切れ味、まるで紙でも切るようだ」とか言いながら、大立ち回りで無双しているに違いないが、ヴォルフはいい年をしたオッサンなのだ。ハッスルしすぎてぎっくり腰とかになる前に、助けに行くべきだ。フォローしているルーティエが大変だ。
(これが結界の魔導具か。ここに魔力を注げばいいんだな)
もう一人、奮闘中の配下はいるのだが、エビの中心でヨルへの愛を叫んでいるライラヴァルのことはマルっと忘れて、ヨルは結界の魔導具へ魔力を注ぐべく手を添える。
前回この研究所を目覚めさせた時もそうだったが、設備を完全に沈黙させているせいかこの結界の魔導具も大喰らいだ。
魔晶石には種類があって魔人を配下に加えるものは魔王にしか作れないけれど、魔導具の核や魔力庫用の小さなものは配下の魔人たちでも作れる。
結界の魔導具の魔力庫は、クズ魔晶石を集めて作っているのだろう。造りも雑なようでかなり魔力を溜めないと起動しない。
(魔王が関わらないところはすぐに手を抜くんだよな。つーか、これ、容量デカすぎないか? 罰ゲームだろ。成果が真ん中以下の連中に魔力を注がせるとか。あー、エレレそう言うの好きそう)
困った連中だったなと思いながらも、ヨルは魔力を注ぐ。
かつての編術師団長エレレたちの姿が脳裏をよぎったのは、魔王の肉体に郷愁の念が宿ったからか、それとも因が前世に引っ張られたせいか。
(あれ、これヤバいんじゃね? 魔力、枯渇しそう)
考え事をしていたせいで、魔力を注ぎすぎてしまった。この辺りは魔素が濃いから、じきに回復するけれど、なんて大ぐらいな設備だろう。
大量の魔力を流し込んでようやく、ヴン、と腹に響く振動と共に結界の魔導具が起動する。
(おぉ~、ポンコツ臭がしたけど、流石はエレレたちの魔導具。この効果、巻き込まれたエビはおぼれ死ぬかもな)
結界の効果範囲はメリフロンド下層の護岸の少し外だろうか。その辺りを中心に、急激に魔素濃度が低下する。
魔物は巨大な肉体を魔力で維持しているから、魔力の元となる魔素が薄い場所では生息できない。だからこの魔導具は、魔物にとって絶大な効果を発揮する。体内に魔力が残っている間は問題ないが、使い果たせば飢餓状態にも似た状況に陥る。
それは、魔人もまた同様だ。
結界起動の反動か境界線を大きく超えて、ヨルの今いる付近までググっと魔素が薄くなる。
枯渇寸前まで減った魔力の回復速度が急激に落ちていくのを知覚する。
ふらっと、血の気が下がるような感覚。ザッと視界にノイズが入り、聴覚が衰え耳鳴りがする。
まるで立ち眩みのような感覚だ。その感覚が訪れると同時に、ヨルは意識を失った。
■□■
(はぁ!!?)
意識を取り戻した第一声は、かすれた喉のせいで声にはならず、吐息のように口から洩れた。
眼前に広がっているのは白い天井。周囲は白いカーテンで区切られ、横たえられた寝台も真っ白だ。この白い空間には覚えがある。
病室だ。ヨルは、日本に戻ってきたのだ。
(な……なんで? ちょっと魔力を注ぎ過ぎただけで、別に戻ってくるような……死ぬようなことはしてないぞ!?)
まったく訳が分からない。
ヨル――、因は混乱しながらも今の状況を確認する。
なんというか、めちゃくちゃキチッと片付けられた病室だ。
病室が清潔で整っているのは当然だが、シーツや布団だけでなく、部屋の壁も床も天井も、置かれた調度――私物を納める棚やベッドを隔てるカーテンまで、色は一片の染みもない真っ白に統一されている。収納台に置かれた真っ白いタオルは台に対して水平で、1ミリの狂いもなくキチッと畳まれているし、点滴袋の向きはベッドと並行、チューブは曲がりもなく適切な長さで因の腕まで伸びている。液滴の落ちる速度もメトロノームの様に正確なのではなかろうか。
タオルの向こう、収納台の奥には、見舞い花の代わりかそれともインテリアなのだろうか、レゴブロックで作られたキューブが飾られているのだが、このブロックも真っ白だ。
(なんだこの病室。めちゃくちゃキチッとしてるな……)
そう考えて見てみれば、眠っている自分もベッドのちょうど中央で、姿勢も左右ぴったり対称なのではなかろうか。もっと言うなら、頭髪も真ん中分けにされていそうだ。
カチャ、カチャ。
カーテンの向こうに人の気配と、紅茶の香りが漂って来る。
(見舞い? 何か食ってるな。かーちゃんかな?)
ヨルはゆっくり体を起こすと、カーテンへと近づく。
ふらつきもしないし筋力も衰えていないから、意識を失ってからさほど時間は経っていないのだろう。やはりマグスとこちらとでは時間の流れた違うようだ。
ゆっくりとカーテンを開けて向こう側を窺うと、そこには、病室に似合わない白い丸テーブルでケーキを食べる女性がいた。
ケーキの載せられた皿も紅茶の入ったカップも白で統一してあるのは、この部屋らしいと言えるが、さすがにケーキはカラフルだ。
この女性には見覚えがある。最後に見た時より少しふっくらしているが、因が新車と共に海へとダイブしかけた時に近くにいた女性、芽府医院の医院長夫人、芽府真那――、因の勘が当たっているなら異世界マグスでの魔王シューデルバイツの義娘、魔女王ラーマナの転生した姿だ。
目覚めた因を見た真那は、少し驚いた様子を見せた後、ケーキを紅茶で飲み下して口を開いた。
「おかえりなさい、田口因さん。お父様と呼んでも?」
「……やはりラーマナか。お父様は勘弁してくれ、年、そんなに変わらないだろ? 普通に田口で頼むよ」
「田口、田口ねぇ……。平凡過ぎじゃないかしら。じゃあ、因と呼ばせてもらうわ。私のことは真那でいいわよ」
田口ってそんなに平凡だろうか。四角がいっぱいで、箱みたいでいい苗字だと思うのだが。
因の箱好き趣味は置いておくとして、やはり彼女は魔女王ラーマナで、ちゃんと記憶もあるようだ。
「! それより魔力! まだ、魔力があるはずなんだ。これで咲那を……」
「落ち着いて。残念ながら、魔力はほとんどないわよ。帰って来る直前、魔力枯渇状態だったんじゃないの?」
「あ……。クソッ」
あれほど長くマグスにいたのに、魔力を持ち帰れなかったのか。
苛立ち交じりに振り下ろした拳は、白いベッドのマットレスをボスンと軽く打つだけだ。
この体は、あまりに非力だ。凡庸な人間にできることはあまりに少ない。
「咲那は、どうしている? 俺は、一体どれだけ寝ていた? 真那、お前は何を知っている?」
何もかも分からなことだらけだ。
けれど、ここにいる芽府真那こと魔女王ラーマナは、重要な何事かを知っているに違いない。
矢継ぎ早な因の質問の答える代わりに、真那は立ち上がると病室付きの冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、ストロー付きのキャップを付けて渡してくれた。
落ち付けということだろう。
ペットボトルを受け取ると、真那はヨルの胸元付近の空気を掴んでニヤリと笑う。
「お前……。なけなしの魔力を持っていくなよ」
「因に持たせていても霧散させるだけでしょう? やっぱりあちらの魔力は濃厚ね。こちらで得られる魔力とは比べ物にならない」
こちらでも魔力を扱えるとは、さすがは魔女王ラーマナか。
平凡なサラリーマンの因より優秀で、お父さんは肩身が狭いぞ。
「ちょっと待て、こっちでも魔力が得られるのか?」
「そうよ。気付いてなかったの? これで3度、どうやって因をこちらに引き戻したと思っているのよ。まぁ、こんなに魔素も希薄な場所で光体もなしに魔力を収集できるのは、この私くらいのものでしょうけれど。ふふ。この部屋を見ればわかるでしょう!?」
「……」
この真っ白けの部屋が何だと言うのか。
こちらでも優秀らしい真那と違って、因の頭脳は人並みなのだ。
あと、冷静になってみれば、どうして真那は因の病室で大量のケーキを貪り食っているのか。
「時間がないんだ、説明してくれ。端的に」
ちなみに前世からの秘密であるが、魔女王ラーマナは本物の天才で、魔王シューデルバイツの頭脳をしても細かい理論までは理解しきれていなかった。もちろん「ぜんぜんわかんない」なんておくびにも出さず、上手にやり過ごしていたのだが。寡黙キャラって実に便利だ。
魔王シューデルバイツに分からないラーマナの理論を、凡人ボディーの田口因に理解できるわけがない。
それでもラーマナの中の魔王像をなるべく壊さないように配慮しながら、因は真那に説明を求めた。




