025.君はだれ?
「やあああぁっ、助けてぇ!」
ドリスの目の前で、一人の少女がグロースプラガーに襲われようとしていた。
一人ならきっと逃げられただろうに、幼い子供らを庇うように抱きしめた少女には見覚えがある。ヨルと一緒にメリフロンド下層の案内をしてもらったナビアだ。
毒で麻痺させたあと、じっくり肉を腐らせて、柔らかくなった肉をジュルリと吸うつもりなのだろう。グロースプラガーは棘のある触手をナビアと子供たちに向けて振り下ろした。
しかし、グロースプラガーのおぞましき一撃は、ナビアたちに届くより先に、華奢な脚の一撃で蹴り飛ばされ、防がれていた。
(あ……。あれ? ボク、どうして……?)
どうして子供たちを助けたのか。ドリスにも分からない。
見知った人間が無残に死ねば、ヨルは傷つき、この世界の無常さに憤り、人間という弱き者たちに手を差し伸べてくれるはずだ。この世界の弱い人々に救いの手を差し伸べるために、ヨルは、魔王ヨルム=テルドア・シューデルバイツは再び甦り、この世界をすべてくれるはずなのだ。
そのためならば、どんな犠牲を払っても構わないと思っていたのに。
気が付けば、体が勝手に動いていた。
ほんのわずかな時間とは言え、共に過ごした子供たちを、いいや、例え見知った者でなくとも、魔獣に襲われようとしている者を見捨てることなど、彼女にはできなかったのだ。
「!? あ……。昨日のねえちゃん!?」
「早く逃げて! アリシア、アリシア! しっかりして。子供たちを早く遠くへ!」
「え……、えぇ!」
ドリスの声に、我に返ったアリシアは、グロースプラガーをけん制しつつ、子供たちを安全な場所に誘導する。対してドリスはグロースプラガーの前に立ちふさがって、注意を引き付けている。
グロースプラガーの注意を引くだけなら、反対の方向に逃げればいい。けれどドリスがその場に立って、グロースプラガーの攻撃をかろうじて躱すにとどまっていたのには理由があった。
(あーあ、やっちゃったな……。逃げるのは、無理かも)
ドリスは感覚の無くなっていく右足から、重心を左に移す。
右足のブーツは破れ、切れ目からのぞく脚は黒く変色し始めている。
グロースプラガーの毒だ。先ほどグロースプラガーの触手を蹴り飛ばした時に、毒棘がブーツを裂いて皮膚を掠めてしまったのだ。
一人で旅ができる程度に身体能力が高いドリスだが、戦闘力はエヤミドリのような小型の魔獣を単体ならば倒せる程度。基本的には俊足を活かして魔獣は避けるスタイルだ。スピードを損なわないよう、装備は軽装で、ブーツの皮もしなやかで薄い。それが災いしたのだろう。
(昔っから、ツメが甘いんだよね、ボクって)
ギチ、ギチチ。
ドリスが毒を受けたと察知したのだろう。獲物の動きを完璧に止めようとグロースプラガーがさらに触手を振りかぶる。
(でも、あの子が助かってよかったよ)
その気持ちに偽りはない。
多勢を助けるために少数を犠牲にするべきだとアリシアに説いたくせに、思わず体が動いてしまった自分の愚かしさをドリスはおかしく思う。
どんどん鈍くなっていく体で、鞭のように振り下ろされる毒棘の付いた触手を躱す、躱す。
躱しきれない触手を左腕で払うと、毒棘が掠めて白い服に血がにじむ。この腕も、じきに麻痺して動かなくなるだろう。
(うん、まだ計画通りかな。目撃者もできたことだし、ここでドリスが退場すれば、目的は達成されるもの)
ちらりとアリシアたちの去った方を伺えば、子供たちはうまく逃げ延びたのだろう、その姿はすでになく、こちらへと踵を返すアリシアが見えた。
アリシアがドリスに思考を誘導されておらず正常な思考ができていたなら、ドリスに子供を預けて聖騎士である自分がグロースプラガーに立ち向かった方がずっと勝率が高いことにすぐに気が付いたろう。けれど、アリシアがどこか夢でも見ているような心地から覚め、そのことに気が付いたのは、子供たちを逃がした後だった。
アリシアは必死の形相でこちらに走って来るけれど、ドリスはすでに限界だ。それを察したグロースプラガーは、止めを刺そうと刃物のごときハサミを振りかぶっている。
ドリスの身体は、もう動かない。
(見てて、アリシア。ドリスの最後を。そこで見て、そして、ヨルに伝えて……)
ごめんね、とドリスは思う。
申し訳ない気持ちはあるのだ。友人を目の前で無くすアリシアに対して、短い間とはいえ共に旅した仲間を失うヨルやヴォルフガングに対して。
そして、ここで命を失うドリスに対して。
(あぁ、もう一度、会いたいな。次に会うまで、きっと時間がかかるから……)
ずっとずっと、会いたかった。
会いたくて、会いたくて、どれほど夢に見ただろう。
ようやく会えたのだ。彼と共に生きるには、まだ道は半ばだけれど、それでもこの夢のような時間をもう少し過ごしていたかった。
ドリスは静かに目を閉じた。
頭上に落下して来る重量感。
肉体が破壊される痛みをつぶさに感じ、意識が潰えていくのを体感するのは、何度経験しても気持ちの良いものではない。
生物が持つ根源的な恐怖と、そして、来世へたどり着けるのではというわずかな希望。
いつもならそれは絶望に変わって、狭く真っ暗な世界の中で痛みと共に目覚めるけれど、今この時だけは恋焦がれた救いの形で訪れた。
「ドリス!! 無事か!!?」
「……ヨル?」
「良かった! なんて無茶をするんだ!」
力強い腕がドリスの背に回される。温かな胸に抱きしめられる。
懐かしい声、落ち着く香り。
ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。狂うほど、夢にまで見た腕の中。
「ヨルム……」
幸せだ。
ただそれだけを彼女は思った。
こんな時間の訪れをどれほど待ち望んだことか。
今この時が永遠になれば、他には何もいらないと、嘘偽りなく思えるというのに――。
「ドリス、グロースプラガーの毒にやられたのか? 待っていろ、今解毒する。万毒喰らう身中の蟲、生命の理つまびらかに――」
「だ、だめ! その呪文は……」
「――、清浄に帰せ 毒喰らい」
ドリスが制止するより早くヨルは状態異常回復の魔術を唱え、グロースプラガーの毒を含むありとあらゆる状態異常をドリスの肉体から取り払った。
■□■
今度はちゃんと助けられたと、そのはずだと、ヨルは思った。
グロースプラガーに襲われて、今にもハサミの一撃で絶命しようとしているドリスを見た時は肝が冷えたが、魔王ボディーにも魔術にもずいぶん慣れたおかげか、それとも咲那が車にはねられた瞬間を思い出してしまったからか、驚くほどのスムーズさで魔弾を打ち出し、崩れ落ちるドリスの身体を抱き止めることができた。
ドリスの無事を確認し、思わず抱きしめてしまったのはやりすぎだったかもしれないが、ドリスを失うかもしれないと思った瞬間の、あの世界が終わるような絶望感を思えば、致し方ないと思う。
しかし、抱きしめたドリスの身体は、グロースプラガーの毒に犯されていて、すぐにでも治療が必要な状態だった。
グロースプラガーの毒に効く魔術は知っている。セキトを散歩に連れ出した時、拾った死にかけの少年ヤバリオを治療したから、『毒喰らい』が有効なのは分かっていた。
だから迷わずドリスの解毒を行ったというのに……。
「きゃっ、あ、あの、あなたは? こっ、ここはどこですか?」
今ヨルの腕の中にいる、ドリスの姿をした女性は一体誰なのか。
「……ドリス? どうした? …………ドリス、だよな?」
見た目はドリスだ。ヨルは間違いなく、これまで旅を共にしたドリスを助けたはずだった。だというのに、今目の前にいる女性はドリスではないと、確信をもって感じられた。
先ほどまでは抱き合うようにヨルに身を任せていたドリスは、ヨルが驚き力を緩めた隙にさっと身を離し、怪訝そうな顔で辺りを見渡す。そして近くにグロースプラガーの死骸を見つけるや「ヒッ」と小さく悲鳴を漏らし、次いで自分の状態を確認している。小さく裂けたブーツや服に、自分がグロースプラガーに襲われたこと、そして、ヨルに助けられたことをなんとなく理解したらしい。
「あの、助けていただいたようで、お礼を申し上げます」
おどおどと落ち着かない様子を見せるドリス。
表情も言動も、何もかもが違い過ぎて、事情を知らぬ者が見たならよく似た別人だと思うほどだ。
一体どういうことなのか。当然事情が聴けるはずだと、心配げにのぞき込むヨルの視線から逃げるように、ドリスは目を合わそうともせずに辺りを見渡している。
まるで助けを求めるようなドリスは、少し離れた場所に立ち尽くすアリシアの姿を見止めた。
「ヨ……ヨル……、どうして……」
アリシアはドリスを救われた事よりも、隷属の首輪を使ってヴォルフガングに殺させたはずのヨルがここに居ることに驚きを隠せない様子でその場に立ち尽くしていた。
彼女からすれば自分の友人であるドリスとヨルに面識があることすら知らないのだ。
グロースプラガーに襲われるドリスが、間一髪助かったことに胸をなでおろした次の瞬間、その助けた相手がヨルで、しかもドリスと知り合いのようなそぶりを見せることに、理解が追いつかないでいるのだろう。
「アリシア様! アリシア様ですよね!?」
「え、えぇ。ドリス、無事でよかった」
「アリシア、さま?」
まるでヨルから逃げるように、アリシアへと駆け寄るドリス。
ノルドワイズではアリシアのことを呼び捨てにして「歩く教義書」なんてあだ名していたのに、様付けで駆け寄る様子に、ヨルは唖然とするほかない。
「アリシア様、今すぐ私を聖都に連れて帰って下さい。お勤めなのです。お願いします!」
「お勤め? ……分かりました」
「ちょっと待ってくれ、ドリス。アリシアでもいい、どういうことか説明してくれ」
どういうことかと説明を求めるヨルに向かって、アリシアが剣を抜く。ドリスはドリスでアリシアの影に隠れるようにして、得体の知れない者を見る目でヨルを見ている。
こんな対応、まるでヨルが悪者のようではないか。
(記憶がない? いや、これじゃまるで別人だ。俺は状態異常を回復させただけだぞ……!?)
ここまで拒絶されては、ヨルにはどうしようもない。
今までのドリスとの関係性、グロースプラガーから助けたことを思えば失礼極まりないと詰め寄ることもできるのだろうが、女性二人に不審者を見る目で見られてしまうと、中身が日本人な田口因としてはどうしても強く出られない。
現実でぴったりと来るのは、痴漢冤罪。まるでそういうシチュエーションなのだ。
「アリシア様、参りましょう。はやく、はやく」
「……分かりました」
ヨルが強く出ないことに気付いたのか、この場を早く立ち去ろうと促すドリスに従い、アリシアがヨルに背を向けた。言いたいことはたっぷりあるぞと言わんばかりの視線を最後に投げつけてきたのは、ものすごく納得がいかないが、そこここからグロースプラガーに襲われている人々の悲鳴が響く。
ドリスだった何者かは健在でアリシアがいれば無事に逃げ延びられるだろう。話を聞くチャンスはこの先きっとある。今は緊急事態なのだ。
(行先は分かっている。いずれ、話を聞けばいい)
そう思ったヨルは、目的の場所目指して走り出す。
ビシャバシャとそこら中に張った水たまりが鬱陶しい。
エンブラッド大湿原の一面に広がる水鏡は、降りしきる雨に割れてひび割れて、空に浮かんでいるようだった景観は一面の灰色だ。
今のメリフロンドはただただ狭苦しいだけの、虫の巣穴のような場所に変わった。
ドリスとのこんな別れは本意ではない。
けれど、ヨルの知るドリスはとっくにいなくなっていた。
グロースプラガーから助け、抱きしめたあの時が、彼女との別れだったのだ。
状態異常を回復する魔術、『毒喰らい』を唱えようとした時に、ドリスが発した言葉を思い出す。
「だ、だめ! その呪文は……」
ドリスはそう言っていた。おそらくは、『毒喰らい』によってこうなることを知っていたのだ。
(つまり、先ほどの彼女が本当のドリス? 俺の知るドリスは一体……)
いつかは行くつもりでいたが、聖都に向かう理由がもう一つ増えたようだ。
今は何も分からずに、この雨の降りしきるメリフロンドのように、先も見えない迷路のような状況だけれど、ドリスを助けることはできた。道が途切れたわけではないのだ。
(まずは、結界の再構築だな。ドリスたちを無事に聖都に返さないといけない)
ヨルは、編術師団の研究施設を目指して、灰色の世界を疾走していった。




