006.黎明の記録
エヤミドリの討伐は、その後まもなく完了した。
魔物は人間を喰らおうと群がるものだ。逆に言うと人間の部分が欠片も残っていないヨルには寄ってこないから、こういう数が多くて飛んで逃げるタイプは面倒なのだが、今回はエヤミドリのほとんどが教会に群がっていたおかげで手間が省けた。
残党狩りにはヴォルフガングやドリス、ミーニャも手伝ってくれた。
「一人旅をするんだよ? 狂乱熊は無理だけど、ちっさいのを単発なら問題ないよ」
と豪語していた通り、ドリスも意外と戦えたのだが、何より驚きなのはデタラメニャンコのデタラメスキルだろう。
ワー・ニャンコには『威を借る猫の咆哮』という魔獣をイラつかせるスキル……いや特技があるらしく、ミーニャが「シャー」とやるたびにあちこちに潜んでいたエヤミドリがぴゅーんと飛んできて、それをドリスが撃ち落すコンビネーションで一番ポイントを稼いだのが面白い。
まぁ、あのニャンコにドヤ顔で威嚇されたら、とびかかりたくなるのも無理はない。ヨルも思わず挑発されそうになったのは内緒だ。
このホウロウ村はルーティエに体を提供しているミリィの故郷だ。
ミリィの「家族にもう一度会いたい」と言う願いを叶えるためにこの村を経由したのだが、思いもよらないトラブルが発生していた。多数の魔獣の気配を感知しセキトを急がせたおかげでミリィの父と兄を助けることはできたけれど、母やそのほかの兄妹は1週間も前に亡くなっていた。急いでどうにかなったわけではないのだが、ミリィとの約束をすべてはかなえてやれなくてヨルは心苦しい気持ちになった。
ヴォルフガングもいる手前、できればすぐにでも発ちたかったが、村長に請われるままに村にとどまり宴に参加したのは、ミリィに少しでも村の人々と触れ合う機会を与えたかったからだ。
とはいえ、ミリィの身体の主導権は彼女にはない。ルーティエが支配しているからこそミリィは樹木の魔獣に変じる痛みからも人肉を求める飢えからも解放されて穏やかに夢とうつつを揺蕩っていられるのだ。
窮地を救ってくれた礼にと村長が催してくれた宴。
村の広場に焚火を起こし家庭料理を持ち寄るような素朴な野外パーティーだ。その席でミリィが懐かしい味を楽しめたのもルーティエが肉体を支配しているからだ。そうでなければミリィの身体はとっくに地面に根を張って関節一つ動かすことはできなくなっていただろう。
しかし肉体の変貌は抑えられても精神の変容は抑えきれない。魔王の魔晶石にできるのは、魔化を促す因子の制御。魔人にのみ有効な救済手段で、人間性を失った魔獣に与えても意のままに操れる以上の意味はない。
その者をその者たらしめるもの、変貌した姿が示す獣性や人間性は、その者だけのものであって、魔王であっても手だしできるものではないのだ。
今ではミリィの精神は、植物のような平坦なものに変わって何かを強く思うことも少なくなってしまった。
けれど今日ばかりはミリィの心は人であった頃のように千々に乱れているとルーティエは話した。
父と兄が無事で嬉しい、また会えてうれしい。母や他の兄妹たちが死んでしまって悲しい。もう一度会いたかったのに会えなくて悲しい。村に戻れて懐かしいけれど、誰も自分だと気づいてくれなくて、もう家族の一員に戻ることが出来なくて寂しい。そう言う気持ちでぐちゃぐちゃなのだ。
「ルーティエ、ミリィはどうしている?」
「泣いています。嬉しくて、悲しくて、懐かしくて、寂しくて、いろんな気持ちがぐちゃぐちゃで泣いています。……この感じは、ルーティエにも覚えがあります。核のあたりが、きゅーって痛くなるんです。痛覚なんてないはずなのに」
宴席を早めに退席し、セキトの上で夜風に当たるヨルの隣でルーティエがぽつりとこぼす。
おそらくヨルが倒れた時のことを言っているのだろう。
「人間も大切なものをなくすと、同じ気持ちになるんですね」
「そうだな」
ルーティエの思想は魔王時代の魔人のそれに近く、人間を家畜程度にしか見ていない。友好関係を築ける相手だと認識していないのだ。
人間はルーティエに比べればあまりに非力で対等の関係を築くことは難しいかもしれないが、端から切り捨ててしまうのは可能性を狭めるだけだ。ルーティエには人間のように感情がある。孤独を感じる生き物なのだ。ならば人間の良き隣人となる可能性を捨てるべきではないだろう。
ミリィの感情をきっかけに、人間も自分と同じように喜怒哀楽を持つ相手だと理解して欲しい。
魔王シューデルバイツもまた、大切な者を失う悲しみに何度も胸を痛めたのだから。
「俺だって同じだ。大切な者を失うことは何より辛い」
「ヨルさまもですか? ヨルさまの大切な者って?」
「それは……仲間だよ。お前だっておなじだ、ルーティエ」
「私も……? では、かつて、ヨルさまにお仕えした魔人たちも?」
「あぁ。勿論だ」
遥か昔、北の大地に共に集った仲間たち、共に国を興し、文明を発展させ、魔王の時代と呼ばれる繁栄の時期を共に過ごした配下たち。そして何より大切な――。
膨大な数の面影が、魔王シューデルバイツの脳裏によぎる。
感情を失っても、彼はただの一人も忘れていない。
――皆、ただ、笑って暮らしたいと望んでいた。
魔人となり、正気を失うほどに激しい人の血肉への欲求に支配される。
その果てに大切な家族を手にかけた者は少なくない。
己の罪に苛まれない者など、いなかった。
彼らの悔恨と、精神と肉体を苛む痛み。
呪われた肉体で生きなければならない魔人たちが、穏やかに笑って暮らせるそんな場所を作りたかったのだ。
長い長い生涯の途中でそれを叶えることはできたけれど。
魔人たちの国、帰る場所を与えることはできたけれど、ただ一人、その国の王だけはずっと孤独なままだった。
彼を親のように慕った者も、友のように支えた者も、君主として仕えた者も、恋人のように愛した者も。誰もが彼を置いていくのだ。
永遠の生という残酷な秘宝は、魔王にしか与えられなかったのだから。
「……だからヨルさまは去ってしまわれたのですか? 大切な方たちを何人も何人も失って、胸が痛くて辛くて、だから……」
その言葉にヨルは思わずルーティエを見た。
記憶はない。この身体に残っているのは感情を伴わない情報、記録だけだ。その事実がすべてを物語っている。
曇りなく見つめて来るルーティエに、ヨルは思わず宴席を照らす焚火へと視線を逸らす。
村人たちが焚火を囲んで談笑している。ヨルに代わってドリスやヴォルフガングが村長たちの相手をしてくれているようだ。よく見れば、ヴォルフが誰に借りたのか弦楽器をつま弾いている。意外と芸達者なようだ。ミーニャは女性と子供たちのアイドルだ。穏やかな風が微かに吹き、焚火の暖かな光が彼らの顔を照らす。その暖かな光は、エヤミドリの恐怖に縮こまった身体をほぐし、心を安らかにする魔法のようだ。陽気な笑い声と討伐の興奮が空気を満たしていた。
こんな光景は、文明が起こる前の頃から変わらない。
ヨルは、いや魔王シューデルバイツは、あまりに遠い昔のことをおぼろげに思い出していた。
■□■
それは、文明と呼べる社会が生じる前の、古い、古い時代。
人は今よりはるかに未熟で愚かで、倫理なんてものは欠片もない、人も獣も変わらない、そんな時代の記録だ。
魔獣から逃れる多少の知恵と、子を産み増える能力だけで、人という種族は生きながらえていた。
世界はとても美しく、果実も動物も満ち溢れていて餓えることはなかったけれど、同時に人は無力な食材として、魔獣に喰い殺されつづけていた。
仲間の死が日常にあふれていた、酷い、酷い時代だった。
けれど幸福な時代でもあった。
まるで獣の子のように、三つ子、四つ子は当たり前で、兄も姉も弟も妹も、自分の兄弟なのか余所の家の子供なのか分からないほどたくさんいた。
魔力の強さがそのまま力で、一番強い者が群れの長。
人という弱い種族であるゆえに、群れに諍いはなく、明日死ぬかもしれない同胞を慈しみ、団結した。集落の大人は子供たちを隔てなく我が子のように愛し、集落全体が家族のように暮らしていた。その暮しは、獣の群れのようであったし、それ故に幸福だった。
月の慈愛が照らしたものは、飢えることない豊かな世界。
月の光と共に降り注ぐ魔素のおかげで、草木には果実や穀物がたわわに実り、食べるものには困らない。動物は獣も人もたくさん生まれ、すぐに大きく育って動き回れる。全ての生き物の体には魔素を魔力に変換する『光体』と呼ばれる因子があるから、どんな生き物も体が丈夫で力が強い。
こと、知恵と魔力に恵まれた人間という種族は、獣さえも容易く狩って、集落は潤い子は増えた。人々は生命力に満ち溢れ、飢えることのない美しい世界で限りある生命を謳歌した。
神というこの世全ての生命を愛する存在がいたのなら、この世界こそ神の作りたもうた楽園に違いない。それほど豊かな世界であった。
けれど、月の無慈悲が照らしたものは、人の血肉をすすって喰らう鬼畜に堕ちる地獄の世界。
獣が魔獣に、人が魔人に。ある日を境に正気を失い、親兄弟を喰らい始める。
人の血肉は旨いのだろうか。
魔獣も魔人もこぞって人に襲い掛かって、その血をすすり肉を喰らおうとする。どれ程大勢襲われても、どれほど大勢喰らわれても、人が絶滅することは無い。
ここはどんな生き物も、飢えることない豊かな世界。魔獣や魔人の腹が満ちても、人はすぐさま増えるのだ。
世界は命に満ちている。
喰らえど尽きぬ豊かな世界。
そんな世界のただ中で、ヨルムという青年は、ただ一人、底知れぬ飢餓に苛まれていた。
(腹が空いた――)
遥か遠くの集落から、えもいわれぬ旨そうな匂いが漂ってくるようだ。
人とはこれほど旨そうなものだったろうか。
(体中が痛い――)
体を内側から細かく喰い荒らされていくような、耐えがたい痛みが止むことがない。
この痛みを止める方法なら知っている。
この体が食欲として訴えている。
“人を喰え”
――それだけは、したくない。
自分が何になりかけているのか、ヨルムには分かっていた。
(魔人――。あいつらが何で人を襲うのか、身をもって知るとはな)
ごくまれに、魔人に変わる者がいると、ヨルムは聞いたことがあった。
魔獣と化すのは分かりやすい。姿も思考も人ではない、獣のそれに変じるからだ。
けれど魔人は姿が変わらず知性を保ったまま、中身だけが変わってしまう。
姿かたちが変わらなくとも、見分けることは難しくない。知性や記憶を保っていても、理性を保つのは難しいからだ。発現するのは10歳くらいの子供たちがほとんどで、本能に訴えるような極限の痛みと飢餓に容易に発狂する。
理性をなくした哀れな子供は、完全な魔人に変わって強い魔力を手にする前に集落の長の手で殺される。それは哀れな子供に対する慈悲で、集落に対する長としての責任でもある。
ヨルムの父は集落の長で、彼もそうして村を守ってきた。
人望厚く誇らしい父親で、屈強で尊敬すべき長だった。成人を迎えた今でもかなわない。けれどいつか父を超え、自分が後を継ぐのだと、ヨルムは漠然とそう考えていた。
けれど彼は村を襲った魔獣との戦いであっけなく死んでしまった。
どんな魔獣であったのか、今では思い出せないけれど、人よりはるかに大きいそれは、長である父を殺し、立ち向かった兄たちをぼろ雑巾のように引き裂いた。
泣き叫び、逃げる幼い妹の腹を喰い、庇った弟の頭をちぎった。
父の剣も、長兄の槍も、姉の弓も、長老衆の魔法もその魔獣を仕留めることはかなわない。
それでもヨルムに立ち向かわないという選択肢はなかった。
彼はこの集落を継ぐ者で、なにより彼の背に立つ家の中には、生まれたばかりの彼の子と妻、床に伏した母がいた。
“力が欲しい”
そう渇望することは皆等しくあることで、このところ続く体の不調、食べても食べても満たされぬ飢え――彼が最悪の運命を引き当ててしまったことも、おそらく偶然なのだろう。
その最悪な偶然は、奇しくも青年期には極めてまれな魔人化という症状で、赤い月の満ちるにあわせて、ヨルムの魔力は満ち満ちていた。
“刺し違えてでも”
真摯なまでのヨルムの願いは、想いのままに実現し、ズタズタに裂かれた体と引き換えに、ヨルムは魔獣を討伐せしめた。
常人では治らないはずの深い傷も、不思議なほどに痛まなかった。
体が痛みを感じるのは危険を知らせるためなのだと、そう習った覚えがあった。だから傷が痛まないということは、肉体の損傷などは容易に修復可能な取るに足らないものになったということだろう。
代わりにその傷を癒やす対価は、体を作り変えられていく身の内を焼き削られるようなひどい痛みと、狂いそうな飢餓感だった。
自分が何者になったのかを悟ったヨルムは、傷ついた体を引きずって、そのまま集落を後にした。
背後から自分の名を呼ぶ妻と母の声、異常に気付いて泣く我が子の声が、極上の料理の立てる香りのごとく、ヨルムの飢えた肉体を掻き毟っていた。
■□■
集落を離れても、体が魔人に作り替わっても、ヨルムは正気を失うことも、過去を忘れることもできなかった。
人間だった時のまま、仲間や家族への慕情が捨てきれないヨルムには、集落を捨てきることはできなくて、近くの森の洞窟で獣のように潜って暮らした。
この豊かで残酷な世界の中で、一人飢えと痛みに苛まれながら。
痛みというのは不思議なもので、死ぬことがないと分かってしまうと、いくらかましになってくる。魔人化に伴い作り変えられる体の痛みは、怪我のそれとは比べようがないほど凄まじかったが、耐えられないほどではなくなっていた。
そしてどれほど痛みに慣れたとしても、空腹に慣れる日だけは訪れなかった。
腹が減った、腹が減った、腹が減った。
どれ程果実を食らっても、どれほど獣を食らっても、ちっとも腹は満たされない。
だから。
耐え難い飢餓の果てに、喰らい付いた己の腕はひどく甘く胃の腑に染みた。
喰らっては癒やし、癒やしては喰らう。
そのおぞましい繰り返しは、ヨルムの魔人化を早めるだけの行いだった。残り少ない人の部分を自ら喰らって魔人のそれに変えているのだ。
どれほどそうしていただろう。
流れる血潮からは饐えた臭いが増していき、己の肉の腐った味は吐き気を催すほどになった。やがて己の肉では飢餓の癒えないほどに人の部分を喰らいつくしたヨルムには、人間らしい感情さえも残されてはいなかった。
ただ、腹が減っていた。
高熱にうなされるように体が重く、全身が痛い。
そんな中で、ヨルムは懐かしい夢を見ていた。
父がいて、母がいて、兄弟たちや仲間たちと皆で笑い合っている。妻がいて生まれたばかりの子に乳を与えている。
共に倒した獲物を囲み、皆で分かち合って食べるのは、最高に旨いのだ。
(あぁ、腹がいっぱいだ。体だって痛くない……)
何て幸せな夢だろう。
かつて当たり前に享受していた、平凡で安息に満ちた日々。
(この夢を、ずっと見ていたい。ずっと……)
ヨルムが意識を取り戻したのは、喰い荒らされた死体のちらばる、かつて暮らした集落の中だった。
死体に付いた古傷は、どれもこれも見覚えがあった。
死体の握った武器や衣類は、どれも見知ったものだった。
転がった首の髪の色は、妻と同じ色合いで、かつて贈った髪飾りが髪の端に引っ掛かっていた。
その横に転がる腸のない子供の死体は、誕生の日にヨルムが贈った短剣を握りしめていた。
こんなに大きくなったのか――。
時の流れを知らしめる思いが、胃の腑の底から嘔吐感となって込み上げる。
「ヨル……ム……」
彼の口元から懐かしい声がした。
喰らい付いていた獲物が優しくヨルムの頬をなでる。
口腔を満たす母の肉は、えもいわれぬ甘露に思えた。
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