028.ルーティエの願い
その魔力の形を覚えていた。
スライムという生き物は生まれやすくて死にやすい。
乾いた場所を移動すれば、どんどん水分は失われるし、強い日差しにさらされるだけで直ぐに乾いて死んでしまう。
かといって、水中に落ちれば水に含まれる魔力や微生物を取り込もうと、際限なく水を吸って膨れ上がった水袋のようになり、移動さえもままならなくなる。
最大の弱点は知能が決定的に低いということ。
天候を気にして移動するとか、自分が制御できる範囲で水分を取り込むとか、そういったことがまるで出来ない。
その分、増殖は簡単で、体がある程度大きくなって必要な魔力が蓄えられると、核と呼ばれる部分が二つに分かれて分裂して増えることができる。分裂した体は、分身のようなものだけれど、まったく異なる個体となる。人間の感覚に当てはめるなら、兄弟だとか双子だとかそういうものに近いかもしれない。
増えては消滅し、消滅してはまた増える。
知能があまりに低いから、増えすぎるということもない。
魔獣や獣が食べ残したカスであるとか、腐るのに時間のかかる植物や、昆虫の死骸、あらゆる動物の糞便などを分解して土に返す微生物が、魔獣化した姿なのだと知性を獲得した後に知った。
生態系の最下層。
そんな中でも、自分は特に特殊な個体だった。
増殖することができないのだ。
どんなに体が大きくなっても、どれだけ核に魔力を蓄えても、肥大化するばかりで分裂できない。
増殖できない自分という個体は、魔獣どころか生き物として出来損ないなのだということは、知性を獲得していない、生じてすぐの頃でも何となく理解していた。
肥大化する体と共に拡大するばかりの絶望は、今でも体に刻み込まれている。
魔獣化したばかりの頃は、全身痛くてたまらなかった。
逃れるためには、より高度な生き物を喰らうしかないと理解していた。
けれど喰らえば体が育つ。増殖し、痛みを分け合うこともできずに、肉体が肥大化するほどに、その身を侵食する痛みは増した。
もとより単純な生物なのだ。
魔獣化し、巨大化しても通常ならば人の頭ほどの大きさにしかならない。
それ以上の大きさの肉体を、制御できる機構を持っていないのだ。
なのに、この体はどんどん、どんどん膨らんで、痛みは増して、制御もできない。
増大していく体と痛み。
迫りくる崩壊の予兆だけは、愚かな本能にも理解できて、いかんともしがたい恐怖に『絶望』という感情を知った。
そんな自分がゼノンと言う名の魔人に拾われたのは偶然だった。
餌にはならない人型の強い生き物。
やすやすと自分を捕らえたその生き物は、喰らうほどに膨らむこの身を面白がって、さんざん実験をした挙句、彼の『主』にとある可能性を報告した。
「実に面白い個体です。このスライムの成長は無限にて、知性を獲得する可能性がありますね」
後になって思えば、悠久の時を生きる魔人たちの娯楽の一つに過ぎなかったのだろう。
魔王を中心に栄えたその時代の文明は、とても高度なものだったのだから。
けれどそんなことはどうでもよいのだ。
その時の自分には、思考と呼べるものなどみじんもなくて、無為に膨れ上がった肉体と痛みに震えながら崩壊の時を待つだけの、哀れな存在だったのだから。
スライムとして生じたのに、増殖さえもできなかった自分に、魔王と呼ばれたあの方は、力と役目を与えてくれた。
魔晶石というらしい。
あのお方の血肉を核に魔力が結晶化した石は、ただ消費するだけの魔石と違って魔力を蓄える器官となったし、なにより、魔獣の体を蝕んでいる狂い月の血を制御して、押し寄せる波濤のような飢えや痛みから救いだしてくれた。
魔晶石を与えられた時の、体中を満たし一切の苦痛から救われた、あの方の魔力の形は、今でも忘れることはできない。
自分は体の隅から隅まで、あのお方のものなのだ。
人型の生き物の手が、足が、内臓が。爪や髪の一片に至るまで、その持ち主を裏切ることがないように、この肉体もあの方の一部となった。
この幸福感、この充足感。
長く生きるに従って魔晶石は体になじみ、体中を巡る魔力もあの方の魔力の形ではなくて、自分のものになってしまったけれど、あの感動をあの方の魔力の形を決して忘れることはない。
「このスライムには意識があるのか」
初めて視線を下さった、あの日を決して忘れはしません。
「学び、識れ。力ある者には相応しき知性が必要だ」
御身を落胆させぬよう、たゆまず努力を続けます。
「お前は我が居城を守る最後の砦。この城もこの森もこの地に住まうお前達も皆、我が至高の財と知れ」
はい、この城に傷一つ付けさせはしません。このお城をずっと、ずっと守り続けます。
「お前に名前をくれてやろう」
ああ、なんてありがたい――。
この身は無知蒙昧のスライムだから、貴方様の下された御言葉を、教えを、おそばで過ごした時間の記憶を、一片たりとも忘れることがないように、何度も何度も繰り返して思い出す。
魔晶石により、増大する肉体の制御を得たスライムは、長い長い時の果てに知性を獲得するに至った。
その時にはもう、魔王もその配下の魔人たちも、歴史のかなたに消え失せてしまっていたけれど。
それでもスライムはただ一体で、生き続け、言われたままに城を守った。
やがて、肥大化しすぎた肉体を切り離し、分体としてコントロールする術を身に着けて。森から人の住まうノルドワイズまで分体を潜ませて、在りし日にかけられた言葉の通りに、知識を集めた。草木や魔獣の種類から人の村の様子、人の暮らしの常識までも。
でもね、時間が経つほどに、知識が積み重なるほどに、貴方様の記録はどんどん、どんどん薄れていくのです。
貴方様のお顔の形。貴方様のお声の響き。
唯一の宝物なのに、擦り切れて、薄れてしまって、忘れ去ってしまいそうです。
それでも魔力の形だけは、決して忘れることはない。私の核の中心に貴方様に授けられた魔晶石がある限り。
この身は下等なスライムだけど、下された命令をずっと守っておりました。
体のとても深いところから湧き上がってくる暖かいもの。きっと感情と呼んでいい、これはほかの配下の方々と同じものに違いない。
貴方様のためにありたいという、この思いは、魔晶石を授かった者だけに許される、とてもとても尊いもの。それに、変わりはないのです。
だから、だからだからどうか。
私をおそばにおいてください。
私にお声をかけてください。
貴方様の下された私の名前を、どうか、どうか呼んでください――――。
「ルーティエ」
その願いがかなったというのに。
「ルーティエ」
ヨル様と、お名前を呼ばせてくれた。
「ルーティエ」
何度も私の名前を呼んで、私のために話して下さる。
この身に触れてくださる手の温かさ。主の望みに応える悦楽、必要とされる充足、存在を認識され、肯定され、貴方様のために在れる奇跡。
あの方は、私の全てだったのに。
幸福というものの存在を、初めて理解したというのに。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」
よくも! よくも! よくも! よくも!
ヨルさまを! ヨルさまを、弑したな!
よくも! よくも! 奪ってくれたな!
殺してやる! 壊してやる! 何もかもを飲み込んで、喰らい尽くして、全てを奪いつくしてやる!
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」
濁流が泣き叫ぶ。
その悲痛な叫びは、まるで親を亡くした幼子のようだ。
「ルーティエ、もう泣くな。ルーティエ!」
「ヨル……さ、ま?」
哀れで孤独なスライムの心を慰めるように、その核に触れる暖かな手があった。
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