024.暴走
「ヨルさま! ヨルさま! ヨルさまぁ!」
少女の姿をした魔獣が半狂乱で泣き叫ぶ。
これは、魔獣だ。子供の姿をしていても人とは程遠い存在だ。
だというのに、ルーティエは心が引きちぎれそうな悲痛な叫びをあげ、主へと手を伸ばす。
ライラヴァルの《銀の棘》の影響でその力は見た目通りの子供程度で、ルーティエを荷物のように小脇に抱える聖騎士にとって抵抗などないに等しいが、それでも必死で身をよじる様は見る者に罪悪感を抱かせた。
嘆いているのだ、魔獣が。
主を失う恐れと悲しみに、主を傷つけられた憤りに、我を忘れて叫んでいるのだ。
まるで、人間のように。
「ヨルさま! ヨルさま! ヨルさま! ハナセ、ヨクモ、ヨルさまを、ヨクモ、ヨグモオォォオ……」
自己保身のため、逃げようと身をよじるならただの魔獣として処理できただろう。けれどこの魔獣は自分の身も顧みず、ただ主であるヨルのことだけを考えている。そのありさまは保身のためには自分の行動も言葉も裏切ってしまえる人間よりも、よほど正しいようにライラヴァルには思えた。
しかし、ここは浄罪の塔。捕らえた魔獣を『箱』に加工する場所だ。
「さっさと下へ連れて行って。下の連中が動揺しないよう、猿轡をしてちょうだい」
ライラヴァルの命令に従い、聖騎士が昇降機へと戻っていく。
一歩、また一歩。聖騎士が歩むにつれて、ルーティエとヨルの距離は遠ざかる。
「ヨルサマァ……!!!」
前に進むことのかなわぬ体の代わりに、ルーティエの口から、鼻から、そして眼孔から、ドゥルンと半透明の粘体があふれ出した。
とっさに身構える聖騎士とライラヴァル。やはりこの少女は魔獣、それもスライムなのだ。肉体を捨ててでも主の元へと行こうとしたのだろう。
けれど半ば融合しているせいか、体から抜け出すことはかなわずに、溢れ出したルーティエの本体はひくひくと痙攣するように蠢いた後、力尽きたかのようにただの液体に変わって、ぼたばたと垂れ、床を汚した。
ガクリ。
同時に力を失う少女の肢体。
あまりのショックに気を失ったのか、それとも力尽きたのか。
そのどちらでもないことを、決して起こしてはならないものを目覚めさせてしまったことを、ライラヴァルはその瞬間に悟った。
あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!
少女の姿をした魔獣が力を失った瞬間に、北西の森が鳴動したのだ。
「なっ、何事!!?」
その変動は、聴覚の鋭い者よりも、魔力に敏感な者の方がより正確に知覚できただろう。
状況を確認すべく、展望窓を振り返るライラヴァル。
ノルドワイズの森に面した大きな展望窓から、北西のルティア湖の方角に巨大な水しぶきが上がるのが見て取れた。
「ま……さか、ルティアの湖が!?」
けぶる霧のヴェールを纏い続けた壮大な湖が、突如として爆ぜたのだ。
通常の馬車なら3日はかかる距離にあるのに、どっと押し寄せてくる魔力の奔流。雪崩のごとき濁流のイメージがライラヴァルに流れ込み、思わず数歩後ろによろめく。
遥か北西に横たわる広大な湖があふれ、森を割り、木々も大地もそこに住む恐るべき魔獣すら喰らいつくして、この浄罪の塔めがけて押し寄せようとしている。
「う……“蠢く湖”。まさか、……まさか、これほど巨大な……」
ライラヴァルはこの塔めがけて意思をもって押し寄せる津波と、糸が切れたように動かなくなった少女へと交互に視線を走らせる。
蠢く湖の伝承は、この地に遥か昔から伝わっている。
魔王シューデルバイツの城の周りに広がる湖、ルティア湖には意思があり、主無き城を守っているのだと。城に近づく人も魔人も呑み込んで、何人たりともその城に足を踏み入れることはできないのだと。
けれど、それは言い伝えに過ぎないと、代々この地を治める者たちは考えていた。
ノルドワイズ北部の森のさらに北には、大陸が割れて一帯が隆起したような大断層があり、こちら側と世界を隔てている。大断層の向こうには一国にも相当するほどに広大な未踏の大地が広がっていると言い伝えられているが、真相を知る者はいない。
大断崖を隔てた北部の未踏の大地からルティア湖に流れ込む水量は、滝つぼから湖一帯を晴れない霧で覆いつくしてきた。ルティア湖を源とする幾本もの河川は、かつてはグリュンベルグ地方と呼ばれたこの広大な地域一帯を潤し、今なおこの地を聖ヘキサ教国有数の穀倉地帯たらしめている。
ルティア湖の恵みはこの地域だけではない。豊かな河川はさらに下流までを潤し、名物として名高い川魚は年中高い漁獲量を誇る。
神秘のヴェールに包まれたルティアの湖は、恐るべき森にあるがゆえに何人の訪れも阻んできたけれど、尽きぬ恩恵から母なる湖として長くこの地に暮らすあらゆる生命を支えてきたのだ。
あまりに広大で、自然そのものとも思われるその湖が魔獣であるなど、誰が信じられようか。
北の森に棲む、何か強大な魔獣を湖に重ねたのだろうと、誰もがそう思ってきたのに。
「まさか、本当にいたなんて……」
そして、その“蠢く湖”は、泣き叫ぶような濁音とともにこの塔を飲み込もうと雪崩れ込もうとしている。
落差を下り、渦巻き、意思を持って高低差を乗り越えるその濁流は、怒りに震える叫びのように大地を振るわせ、木々の間を抜け、あるいはへし折り、獣も魔獣もちり芥のごとく呑み込んでいく。大森林を引き裂く破壊の音色は、泣き叫ぶ幼子のようだ。
この湖は、激しく怒り、そして深く悲しんでいる。
一体どうして、一体誰のために――。
(そんなの、一人しか……)
魔王の城を守る“蠢く湖”。それが主と呼ぶ者なんて、一人しかいないではないか。
理性が導く答えを、魔滅卿ライラヴァルの思考が否定する。
ありえない。あってはならない。そんなことは。
839年もの間、人間が偽り続けた真実が、閉ざし続けた秘密の箱が、開いてしまったとでもいうのだろうか――。
聖女サラエナが魔王シューデルバイツを滅ぼして、人の時代が始まったのだと人の歴史書は高らかに謳う。けれど世界の主だった都市は、かつての魔人文明が作り出した城壁や結界に守られ、都市を繋ぐ街道さえも魔人文明の残したものだ。
人々が使う魔導具のうち、人間が作り出せるのは初歩的なものに過ぎず、隷属の首輪や高度な結界、強力な武器に至っては、魔人文明の遺跡を人が使えるように手を加えただけだ。
魔人を狂人と蔑み、自らを魔人さえ超越した時代の覇者としてふるまっているけれど、人間など所詮は劣等種に過ぎないのではないか――。
けっして口にはできないその疑問に、是と回答を与えたのは、魔滅卿のみが手にできる『魔滅の聖典』だった。
6人の枢機卿が持つ聖遺物、『幻の横笛』、『友愛の共鳴輪』、『不壊の聖盾』、『魔滅の聖典』、『安寧の聖槍』、『赤定の聖衣』そして教皇が持つ『超越の宝冠』。
これらはとある儀式を執り行うために創られた一式の魔導具だが、単体で用いても持ち主に人外の力を与えてくれる。
ライラヴァルの持つ『魔滅の聖典』は、書物という体裁の通り、中には魔人文明の様々な知識が記されていた。人間が、まがりなりにも魔人の遺産を利用できているのは、先達がこの書を紐解いてきたからに他ならない。この書は人間が生き残るために与えられた教本であり、これほどの書が残されていながら、いまだ人類はこの書に記された内容さえ十分に理解できてはいない。
その事実を知った時、ライラヴァルは歴史のかなたに捨て去られた真実にも気が付いてしまった。
――人間が魔王を滅ぼしたのではない。魔王たちは自らの意思で去ったのだ。
文明も、栄光も、何もかもを捨てて……。魔王たちがこの世界を去ったから、配下の魔人も供をするようにこの世を去った。
魔人を苦痛と狂気から救う唯一の存在。それは魔王に他ならない。
だというのに、魔王は見捨てたのだ。後の世にも生まれ、苦しみ、狂っていく魔人たちを。
家畜としてしか生きながらえなかった脆弱な人間を、魔獣と化す子供たちを。
魔王には永遠の命と、真に王たる力があったというのに、この世界のすべてを見限り、全て見捨てて去ってしまったのだ。
魔王を失った今の世の魔人は、狂うしかない運命に苛まれながらも生きるしかないというのに。
(あたしは、狂気に蝕まれていく日々に、この先待ち受ける運命に、絶望するしかなかったのに……)
「ごめんな……」
――どうして、そんなに簡単に、貴方は謝ってしまえるのだろう。
その言葉をライラヴァルは口にできない。耳に届いた謝罪の言葉はライラヴァルに向けてのものではない。
振り返らなくてもわかってしまう。
確かに殺したはずの男が、ライラヴァルの背後で立ち上がり、泣き叫び押し寄せる湖を見つめていることを。
「貴方は……。いいえ、貴方様は……」
ゆっくりとライラヴァルが振り返った先には、彼が想像した通り、ヨルと名乗った男が立ち上がり、悲し気な表情で窓の外を眺めていた。
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