022.束の間
「ゲホッ、ゲホ、ガハッ」
「よかった……! 意識が戻った!!」
(なんだ、何が起こった?)
急に暗転した景色、胸部の痛み、体はどこも重たく冷たくて、何よりも息が苦しい。酸素を求めて呼吸を吸えば、気管に残っていた液体を「ゴフッ」と吹いた。
苦い、まずい、鼻の奥も喉もツーンと痛み、口の中は塩辛さでいっぱいだ。
(……塩辛い?)
ようやく慣れてきた視界であたりを見れば、そこは月のない夜空が広がっている。降るほどに輝いていた星明かりは濁った空気にかすんで小さく、一方向から照らす眩しい光は車のヘッドライトだろう。
「は……?」
一体どういうことなのか。ライラヴァルの元を訪れ、戦闘が始まって、そして……。
(もどってきたのか……? 俺は……)
この時因の胸に去来したのは、帰ってこられた喜びではなく「なぜ?」という疑問だった。
ライラヴァルの攻撃は確かに強力だった。
なりかけとはいえ魔人な上にそもそも優秀な魔導士だ。それが『魔滅の聖典』を使うのだ、弱いはずがない。ゲームで言うなら、中ボスとか四天王とか、序盤なのに出張ってくる強キャラみたいなヤツなのに、しょっぱなから必殺技に相当する『魔滅の聖典』を使ってくるとは。ついでに言うと、いきなり最終兵器を起動みたいな攻撃をしてくるので、反応が遅れて思わず受けてしまったというのもあったりなかったりする。まぁ、ルーティエには、「想定内だ」とか言うつもりだが。
少しばかり想定外ではあったけれど、それでも、心臓を貫かれた状態で超高所から落下して、四肢爆散したわけではない。攻撃の威力としてはこちらに戻れる――、死ぬほどではなかったのに。
(一体どうして……。いや、戻ってきたなら咲那に魔術を……)
立ち上がろうとするも、体がうまく動かない。なんとか目を動かして周りを見ると、因を介抱してくれているのは院長先生とそのお相手らしき女性。しかし女性の姿は死にかけた因が心配になるほどガリガリに痩せてやつれて見える。短時間でめちゃくちゃ痩せていないだろうか。
少し離れた場所では、ずぶ濡れになったリュージがへたり込んでいるから、溺れた因を助けてくれたのかもしれない。
院長先生は因より、女性を心配しているようだ。逆に女性は、ミイラか枯れ木かというほどのやつれ具合で、今にも倒れそうなのに、因を心配している。
人工呼吸は一体誰がしてくれたのだろう。「リュージだったらやだな」なんて、間の抜けたことを考えてしまう因。
(あれ? この女性……)
覗き込んでくる理知的な強い瞳の光には、どこか見覚えがある気がする。
一体どこでだろう。少なくとも因は、知らない人のはずなのに。
「……つっ! また引きずられてる……!!」
やつれた女性が声を荒げる。
(……なに、を……? あ……意識……が……)
覚醒したはずの因の意識は、眠りの淵に誘われるように消えそうになる。
車のライト、闇には程遠い光に満ちた夜の色。
覗き込み、声をかける、顔、顔、顔。
ちかちかと、点滅するように、途絶える意識と流れ込む情報。
ぐるぐると酷いめまいのように回る景色は、万華鏡のようだ。
「いっちゃだめよ! もう、呼び戻す魔力が……!!」
やつれた女性がそう叫ぶ。聞き違いなどではない。この女性は、確かに「魔力」とそう言った。
何を言っているんだろう。いや、俺は、まだ異世界マグスにいるんじゃないか。
「真那、やめてくれ。これ以上は無理だ! 君まで死んでしまう!」
隣に寄り添う院長先生が女性を止める。
(止める? 何を?)
真那と呼ばれた女性は、因の心臓辺りに手を当てこちらを覗き込んでいるだけだ。少なくとも田口因が知る範囲で、何かをしているようには見えない。けれど、触れられた手の平からじんわりと暖かい力を感じる。ヨルは、この力を知っている。まだ、覚えている。そして、短期間とはいえマグスにいた因の魂にいくらかこびりついている。
(魔力じゃん。なんで? ここ、日本だぜ? 真那? ……あぁ、マナか。はは、さっすが)
――さ……ま、……ヨ…………さ…………。
聞こえないはずの声が聞こえる。
あの声はルーティエだ。必死になってヨルを呼んでくれているのだ。なんて悲痛な声だろう。
このまま放っておいたなら、きっと壊れてしまうのではないか。
――おおおおぉ……!
己を克己するような男の雄たけびが聞こえる。
たくさんの人間の叫び声、どう猛な魔獣におびえて助けを求める声の中で、たった一人、立ち向かうことを決めた叫びだ。
異世界マグスの禁断の箱には、世界の半分を覆う夜と闇を照らす三つの月が入っていたのだとライラヴァルは言った。あの世界は絶望ばかりで、救いの光は満ちては欠ける気まぐれな女神たちだ。
こちらの世界のパンドラの箱もハズレばかりの糞ガチャだけれど、必ず一つ希望というSSRが入っている。だからこの世界の人間は、だれしも胸に希望を抱ける。希望という微かな、けれど何物にも負けない光は、この世界で生まれた田口因の心の中にも間違いなく灯っている。きっとそれは、魔王シューデルバイツが最後に欲したものなのだろう。
「ラ……マナ、俺、いくよ……。咲……那を、たの……む」
因は何とか動いた左手を、真那の手に重ねる。今の因にあるわずかな魔力を与えるためだ。
「駄目よ! 駄目、やっと来られたのよ!? なのに……また……」
「やめてくれ真那、でないと君が……!!」
(こいつらも来れたのか……。こんな風になってたとか……)
意識が朦朧とする。こちらとあちら、過去と現在が入り混じる。
今ならすべてを理解できる。この二人が誰なのか、自分が一体何なのか。
それなのに、思考は全く働かなくて、一体何が知りたいのかさえ分からないままだ。でも一つだけ、決めていることはある。
「かな……ら、……かえ…………」
必ず帰ってくると、きちんと言葉にできただろうか。きちんと伝えられただろうか。
急速に薄れていく意識の中で、マグスと地球の両方で彼の名を呼ぶ声がする。
「……メルフィスの地下……ゼノンが……」
また、懐かしい名を聞いた気がした。これは誰の言葉だろうか。
一度は息を吹き返した田口因の意識が、再び失われた横で真那は悔しそうに唇を噛む。先ほどまで、今にも死にそうだった顔色は、因の魔力を受け取ったおかげか、今は生気に満ちている。
「あなた、お父様を病院へ。今度は確実に準備をしたうえで、確実に連れ戻すわ」
「仰せのままに、我が女王」
「……一体あっちで何が起こっているというのよ……」
因をマグスに引き寄せる原因。それが分かれば手の打ちようもあるというのに。
この世界には魔力もなければ、今の自分には脆弱な肉体と鈍い頭脳しか持ち得ていない。人間とは何て無力な生き物だろうか。
けれど、因の肉体は暖かく、心臓は規則正しく脈を打っている。希望は失われてはいないのだ。
真那――かつて時空の魔女王と呼ばれた魔人、ラーマナ・ルルラ・メルフィスは、因を乗用車の後部座席に収容すると夫と共に病院へと帰っていった。
「……え? ちょ、オレは……?」
存在を忘れ去られたリュージは、通報を聞いて駆け付けた警察官に事情を説明した後、パトカーで送ってもらって家に帰った。
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