026.蛾
――あぁ、そうだ。
だから、この肉蟲は養殖が可能になったのだ。――
勝手に蘇ってくる記憶は走馬灯のようで、止めることも思い出すことも自分ではどうにもならないことがもどかしい。こうした知識や情報は折に触れ蘇るのに、まるで何かの意思に阻まれるように、確信めいたことには思考さえも及ばない。
もやもやと落ち着かない気分になりながら、ヨルは肉蟲の記憶を探っていく。ともかく今は、この蟲の情報が鍵なのだ。
――この肉蟲は、元は人間を苗床にする蛾の魔獣。
人の血肉を食い荒らして孵化した数万の幼蟲の中に、ごく稀に人に近い肉質を持つ変異個体が現れる。
死ねば消える魔獣とて繁殖は可能で、魔獣の子がすべて魔獣として生まれるわけではない。人の因子を持つ突然変異の幼虫は魔獣化していない肉蟲として孵化する。
もっとも人肉を持つ蟲だから、この突然変異種は孵化すると同時に仲間の魔獣に食われてしまって、その存在自体、長らく知られてこなかった。
魔獣の餌として突然変異の幼蟲を隔離して育てても、アリシアが語った通り、その突然変異種は人に近いが故に変態に耐えられず、成虫になれずに死んでしまう。
ただ一つの例外は、肉蟲の幼蟲が変態前に魔獣化した場合。
どんな生物も、魔素の高い環境に置かれれば非常に低い確率で魔獣に生まれ変わる。魔獣の卵から孵った、魔獣ではない肉蟲とて例外ではない。奇怪な肉蟲が、さらにおぞましい魔獣へと変わる。
この世の業を煮詰めたようなおぞましい個体。肉蟲を養殖せよと命じた者がその個体に託した思いは、確かに希望だったろう。
――どうやら苗床となる人間が長く正気を保つほど、その因子が受け継がれ肉蟲が発生しやすくなるようですね。
長期間、強い痛みや恐怖にさらされると、人間は脳のここの部分が委縮し発狂します。仕組みが分かれば簡単だ。この辺りに治癒の魔法陣を組み込んで常時癒しを与えてやれば……。
苗床に痛みはないのか、ですか? あるに決まっているでしょう。正気を保つ、つまり意識レベルを上げるためには蛾が分泌する幻覚剤さえ邪魔なので中和していますから激痛でしょう。なに、問題はありませんよ、痛いだけです。騒がないようちゃんと咽はつぶしてありますし、暴れて余計なエネルギーを消費しないよう手足の腱も切ってあります。苗床が感じているのはただの信号。組み込んだ魔法陣が、過剰な痛みによる悪影響も処置してくれます――
本来、数万分の一しかない肉蟲の発生確率を、苗床となる人間に手を加えることで数百分の一にまで押し上げた、魔人の顔が思い出される。
肉蟲が魔獣化し、成体に羽化することができたとしても、そこから生まれる幼虫が肉蟲でなければ意味はない。
――魔獣化を果たした肉蟲、試作品としましょうか。試作品の間には生まれる肉蟲の比率に個体差があるようです。交配を繰り返せば肉蟲となる卵ばかりを産む個体も現れるでしょう。運が良ければそう言った変異個体も現れるかもしれない。……長い道のりになりそうですが――
発生する変異個体を数千数万集め、気の遠くなるほどの選別と交配の果てに、たった一体得られた完成体。それが、肉蟲たちの女王だ。
奇跡の確率で女王を誕生させる狂気を成したのはゼノンと言う名の狂った魔人だが、それを命じた者は別にいた。
何もののために、この種を誕生させたのか。
そのために、どれほどの人間が苗床となったのか――。
人の代わりになる食料として誕生した肉蟲の女王は、まるで願いを体現したように、変態の負荷に耐えられるだけでなく、単一生殖が可能な雌雄同体だった。
他の肉蟲を人の替わりの苗床として卵を産み付ければ、数千匹の肉蟲が孵化する。肉蟲を喰らい、肉蟲を産み、生まれた肉蟲を苗床にさらに肉蟲となる卵を産み付ける。産卵を繰り返せば魔獣化する個体がいずれ現れて次の女王として成長するだろう。
この閉ざされた牧場にはおびただしい数の肉蟲がいる。その数は万という単位では収まるまい。
間違いなく、この牧場の中には肉蟲の女王が棲んでいる。
「あにゃ? なんにゃ、ミーニャ、くらくらにゃ~」
真っ先に異常を訴えたのは、周囲を嗅ぎまわっていたミーニャだった。
ふらふらとおぼつかない足取りで今にもこけてしまいそうなのに、楽しそうに笑っている。
「鱗粉か!」
ミーニャは変わった臭いがすると、そんな風に言っていた。
この牧場には肉蟲を苗床にする女王がいて、大蛇まで棲んでいたのだ。肉蟲を蹂躙する天敵がいるというのに、この蟲たちはヨルたちを見ても警戒すらしなかった。
おそらくは、動きを阻害し意識レベルを低下させる効果があるのだろう。麻痺毒は、生き物に卵を産み付ける種族の常套手段だ。幼蟲が成長するまで苗床を長く生かすための。
「成蟲がいる。部屋に戻るぞ」
一同に声をかけ、振り向いた先の空にヨルは見た。
一面に生える柱の群れは、枯死した夜の森のよう。
そこに群がる白い肉蟲は、森を喰い荒らす害虫だろうか。
この森の運命は木々が枯れ果てた今なお暗く、新月の夜空と見まごう高い天井をゆったりと舞うのは白い蛾の女王だった。それも1体ではなく数体がこちらに向かって羽ばたいている。
人肉の代わりとなるべく生みだされた肉蟲の女王は、ヨルたちを苗床として見定めたのだ。
人間という珍しい苗床は、生まれる子孫に新たな特性をもたらすだろう。亡びたという魔人の国に代わって、この地下の王国で蛾の女王の一族はさらに繁栄するというのか。
ぐらり、ヴォルフガングが膝を着く。麻痺毒はとっくに回っていたらしい。幻覚でも見せられているのかその表情は苦悶に満ちている。
我が子を喰らい、我が子を苗床に更なる子孫を生み増やす。ここにはまっとうな生物が持つ倫理などかけらも存在しない。ここはかつて魔人が人肉もどきを生み出すために造り上げた牧場で、今は女王蛾の餌場なのだ。
ヨルの足元にはミーニャとアリシアが倒れている。「おさかにゃ」と幸せそうな駄ネコは放っておくとして、「エウレチカ様、エウレチカ様」とすがるように声を上げるアリシアは、今までの凛とした表情とは打って変わって泣き出しそうな子供に見える。
死の森に横たわる、男と女と幼子と。その姿は、蟲の女王に捧げられた生贄のようだ。
「絵づらとしては悪くない」
どうしてそんなことを思ったのか。
どうして自分だけ立っていられるのか。
どうして、どうして、どうして――。
なんだというのだ、この体は。
ぼろぼろと記憶の片りんをちらつかせ、一体ヨルにどうせよというのか。
記憶を全て取り戻したら、きっと元には戻れない。
二人分の人生を背負っても、変わらぬ自分でいられるような人格者でないことくらい、田口因は自覚している。
(異世界人って以上の秘密なんていらねーよ!)
肉蟲が蠢き、女王蛾が天を舞う。悪臭が湿った空気に溶けこんで、べたりと肌を汚すようだ。
ここは墓場で、餌場で、揺り篭で、肉蟲たちの王国だ。
なんて、悪趣味な場所なのか。
肉蟲の女王が、仲間を襲う状態を、肉蟲の女王が、人間を襲う状態を、ヨルは、ただただ苛立たしいと感じていた。
「蟲ごときが、我が頭上を飛ぶな」
ヨルは女王蛾をねめつけながら右手を上げる。
「凍れ、凍れ、凍れ、凍れ」
詠唱に合わせて女王蛾たちを中心に廃坑上部が白く煙り、広大な空間をヨルの魔力が支配する。
ここは湿度が高いから、この魔術にはぴったりだ。天井が高く、距離があるのも悪くない。
上部の水蒸気が一気に凝固することで上昇気流が発生し、あたりの悪臭が巻き上がり、代わりに新しい空気が通風孔から流れ込む。急激な気圧の変化に肉蟲たちは身を捩り、流れ込む空気が奏でる音が肉蟲たちの叫びのように廃坑中に木霊している。
女王蛾も激しい気流に弄ばれているのだろうが、発生した氷霧に白くけぶってその様子を見ることはできない。
「凍れ、凍れ、凍れ、凍れ」
大気から熱量を奪い、水分を凝らせ、この空間を支配する。自然現象を統べる詠唱は驚くほどに心地よく、流れ出す魔力とともに解き放たれる感覚がした。
暴圧する魔力によって凍てつき白く染まる世界で、ヨルの眼光だけが爛爛と赤く輝く。
「凝りて降り、集いて凍てつけ。崩れ六華」
その詠唱によって、氷霧でけぶっていた上空は一瞬白く輝いた。
発せられた光は数体の女王蛾に収束したかと思うと見る間に晴れ渡り、元と変わらぬ暗い天井へと戻っていく。凝集した氷霧が粉雪のようにちらり、ちらりと舞っている。
その中を、落下していく白い塊。
遠くから見るその様子は蕾のまま崩れ落ちる花のようで、芯まで凍った肉蟲の女王たちが衝突と共に砕け散るさまも、絵画のような美しいものに感じられた。
(崩れ六華、か……。俺なら氷雪ジェットとか名付けるけどなー)
この体の持ち主ならば、柱が乱立し肉蟲が蠢く森に雪をなんと表現したのだろう。
整った見目に相応しい麗句でも並べたろうか。
それも、どうでもいい事だ。
(さーて、面倒なアリシアお嬢様が目を覚ます前に、さっきの部屋まで戻るとするか)
離れた場所からもと来た通風孔を振り返れば、この広い空間を貫く塔のように見えた。根元の建物は随分広いから、ヨルたちが出てきた部屋の他にもいくつか部屋がありそうだ。
建物からは肉蟲の林を抜けて廃坑の奥へと太い配管が這っている。おそらくあれは搬送路だ。ここは肉蟲の牧場だから、肉を運ぶものだろう。よくよく目を凝らしてみると、遠くにも同様の通風孔がいくつもあって、外に通じているらしい。
本当に大掛かりな設備だ。
「暴れるなよ」
ヨルはぼんやりと意識の定まらない3人を担ぎ上げる。
左肩にヴォルフガング、右腕でアリシアの腹。どちらも手足をぶらんとさせるポーズだ。ちなみにミーニャは肩車だ。バランス次第で落下しそうだが、ぼんやりしても流石はにゃん子かうまくバランスを取っている。
「エウレチカ様……お目を……」
うわごとのように呟きながらじたばたと手足を動かすアリシアと、眉間にしわを寄せたまま黙って担がれるヴォルフガング。
ミーニャだけが混濁した意識のなかで舞い降る雪片に手を伸ばし、「うにゃうにゃ」と楽しそうに笑っていた。
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