3-17 その命より愛してる
その命より愛してる。
純愛を信奉する森谷修は、愛する彼女の望むまま、彼女をひっそりと絞殺した。一切の悔いはなかった。森谷修はその美しい想い出を胸に、永遠の愛を生きるつもりだった。
しかしそんな彼の前に、殺した彼女の妹が現れる。突如失踪した姉の行方を追って、姉がよく口にしていた森谷修という名前を頼りにやってきたのだ。
自分たちの愛の証明を『殺人』という犯罪にはされたくない森谷修は、当然真実を口にすることをしなかった。かといって、愛する人の妹をぞんざいにも扱えない。とりあえず、満足するまで探偵ごっこに付き合って、穏便に諦めさせようとするのだが、姉と一緒に全てを失ったような彼女の様子に、彼は不思議と共感を覚えて。そして、彼は自分の愛の歪みに向き合うことになる。
出会い。一緒に歩いた海岸線。触れた手の温もりと、初めてのキスの味。そして、互いの粘膜の間にあった愛情。
その全てを思い出し、浸りきったような微笑みで、彼女は僕の手を導く。
そのほっそりとした首筋に力を加えれば、彼女は一分とたたず死体になった。
◇◆◇
「どうしたの。話って」
公園にたどり着くなり、僕は彼女にそう尋ねた。
秋の夜は寒い。冬になる前の予行演習なのか知らないが、昼と同じ調子で外出すると、思わずぶるりと体が震える。そう、僕は寒さからぶるりと体を震わした。
人気のない公園で、彼女がブランコから立ち上がり、鎖がきぃとなったのが不気味だからだとか。
僕の『お付き合いしている相手』という意味の彼女、世良美優から、いきなし呼び出されたことへの不安だとか。
彼女がわざわざ、大学における共通の友人たる、水原湊を連れてきている不自然さとか。
けして、そういうものに由来するものではない。僕はほっと、顔に出さないように胸を撫で下ろした。
「話って、言わなくてもわかる……でしょ?」
対して、世良美優はだいぶナーバスになっているようだった。まだ付き合って数ヶ月だが、黒いタートルネックで覆われた首元をさするその仕草は、彼女が何か葛藤を抱えている時のそれだった。僕はその手の動きをしばらく眺めて、自分の口にすべき言葉を探すのだが。
「さぁ、わからない。何かあった?」
「何かって、本当にわからないの」
「わからないよ。何か忘れてたっけ、記念日とか」
「そっか。やっぱりそうなんだね」
目を細め、薄く微笑む彼女。その儚げで、哀れみにあふれた表情。
「ところで、さっきから首をさすってどうしたの?」
「どうしたのって……!」
一転、彼女の眉がきっと吊り上がる。彼女の首をさすっていた手に力がこもり、整えられた爪の先が黒い布地へ食い込んでいる。
「あなたが散々首を絞めるから、痣になって痛むのよ!」
世良美優はぐいっとタートルネックの裾を引き下ろす。あらわになった首元には、公園のぼんやりした照明に照らされて、赤い筋がいくつか。僕が首を絞めた痕だった。
「なんで私がこうやって、首元を隠すようになったと思うの? あなたが首を絞めて、痕をつけるからでしょ!」
「私は何度もやめてって言ったのに。別に気持ちよくも、嬉しくもないし。ていうか、プレイでもなんでもなく、ただ首を絞めるなんて、あなた異常よ!」
「付き合う前は、まじめで、優しそうな人だって思ってたのに、全然そんなことなかった」
「ここまで言えば、もうわかるでしょ?! 私、もうあなたに付き合いきれない。もう、別れてよ!」
身体全部を絞り切るようにして、一息に言い切った彼女は、苦しそうに肩を上下させている。そこには間違いなく、彼女が鬱屈と堆積させた情念がこもっていたのだろうし、だからこそ僕は少し残念にも思った。
夏休みを終えて秋学期に入った時分、大学生特有のモラトリアムとは違うが、ちょっとした無気力状態に陥っていた僕に声をかけてくれたのが、世良美優だ。彼女は春学期のころから僕が気になっていて、しかし近寄りがたく。そんな僕が気落ちしていたのが、彼女にとってチャンスに見えたらしい。
実際、僕は大学の中で恋愛関係はおろか、交友関係もろくに作る気がなかったから、通年科目である英語の科目で突然声をかけられた時も、彼女の名前などわからなかった。それでも素直な興味と好意を向けてくれる彼女がまぶしくて。僕は彼女と付き合ってみることにした。
そして、首を絞めた。
僕の愛の正しさを確かめるために。彼女の愛の程度を確かめるために。
単なるセックスに飽きて、快楽のために首を絞める頭のおかしいカップルもいるというが、僕のそれは単なる愛情の確認だ。ハグをするのか、首を絞めるのかという違いでしかない。
だから世良美優も、最初こそためらいを見せていたのだが、首を絞められることを受け入れてくれた。彼女が首元を隠す衣服を着始めたのが、僕に首を絞められ始めてからというのには気づいていたし、世良美優は意外と尽くすタイプなのだと感心した。
その彼女が、今切実な表情で、僕との別れを切り出している。
「じゃあ、別れようか」
「――え?」
「別れたいんだよね。じゃあ、別れよう」
彼女に一切の遠慮を感じさせたくなくて、僕はにこやかに告げた。
戸惑いを見せる彼女に、僕ははたと気づく。
「ありがとう。付き合ってくれて」
危うく、お礼を言い忘れるところだった。
彼女の表情が一瞬真っ白になり、その数舜後、ぱちんと小気味よい音が鳴る。遅れてやってくるひりひりとした痛み。
「さいってい!」
平手打ちをされたのだった。世良美優は最後に涙を見せて、公園から走り去った。僕は痛む頬に手を当ててみるが、ちっとも痛みはひかない。とはいえ、大した痛みでもないので気にしなければいいのだが。
さて、どうしようかというところで、ずっとブランコに座って事態を静観していた水原湊が僕の隣に立った。
「今のは、さすがにないと思う」
「そっか。僕なりに誠意を伝えたつもりなんだけど」
「だって、あの子は本気で、君のことが好きだったんだぜ。君の言う誠実ってやつは本当に、その恋心に対しての誠実さだったのかい?」
「なるほど。それは確かに」
水原湊はため息をこぼす。長い付き合いになる友人だ。僕の心の内は読まれているらしい。
「君、世良ちゃんのこと、好きじゃなかったろ」
「うん、まぁ。それはね」
そも、彼女の愛の程度では、僕の心の中に席を作ってやる余地はないのである。
僕は彼女との付き合いの中で、僕の愛の正しさを確かめたかった。僕の愛はもう、愛する人にぶつけることはできないから。代わりにぶつける相手が必要だった。そこにちょうど、世良美優がいたという、それだけの話だったのだ。
「いったいどうしたんだよ。昔からちょっとずれたやつだとは思っていたけど、今年の春から少しずつおかしくなって、夏休みの終わってからはまるで別人だ」
「ステキな出会いがあったんだよ」
「だったら余計にわからない。それが男女の出会いって意味なら、なんだって世良さんと付き合ってたんだ」
「それは……ちょっと言えない」
彼女との、るみさんとの秘密は、いかに水原湊といえども教えるわけにはいかなかった。口元を手で覆う。
水原湊は僕のことをじっと見つめ、意識してか無意識か、「まぁ、私と君との腐れ縁だからな」とつぶやく。
「世良ちゃんのフォローはしておいてあげるよ。でも、今度からは接し方に気を付けてくれよ」
「ああ、もちろん」
「……なぜか、逆に不安だね」
そういって肩をすくめて、水原湊も公園を去っていった。夜の公園で僕は一人になる。映画の一本でも見終わった気分で、僕は公園のベンチに深く腰を下ろした。夜気に浸された座面が、ひんやりと体の熱を奪う。
「ねぇ、あなたは本当に、私を殺すの?」
だから、目をつむればあの時の、冷えた緊張感がよみがえる。夏の夜の蒸し暑さと不快感はおかげで記憶に残らず、ただ美しいだけの思い出。
「うん、殺すよ。君が好きだから殺すんだ」
「ふふっ、嬉しい」
るみさんの細い手が僕の手を導く。死ぬ前に人は走馬灯を見るというが、なぜか殺す側の僕のほうが、彼女との記憶を思い出していたのを覚えている。
これは、彼女の望んだ死で、殺すことで、彼女は僕の記憶の中でだけ生き続ける。永遠の愛を得る。
世良美優の首を絞めても僕は同じ高揚を得られなかったし、彼女はそこに愛を感じなかった。おかげで、今はこの愛が唯一無二のものであると信じられた。僕らの純愛に、ようやく酔うことができた。
だからやはり、僕は世良美優に礼を言わねばならなかったのだ。
記憶の中に生きるるみさんの美しい首に手を添わす。僕はこの先一生、彼女の首を絞めて生きていく。
あぁ、るみさん。るみさんはその美しい顔が醜くゆがむ様さえ美しいよ。
その時だ。記憶の中だけのはずのるみさんの感触に、現実の感触が加えられる。
「るみさん?」
僕はまさかと目を開ける。まさか。
けれどそんなはずはなかった。中空に掲げた両手の中には、見知らぬ首が収まっている。僕はぱっと手を放す。
「けほっ、ごほっ」
「……だれ?」
「ああ……す、すみません! 手があって、収まりよさそうだなって、えっと、つい!」
女、いや少女は、どもりながら両手をわたわたと振る。体格から察するに中学生か、あるいは高校生か。着ているジャージからは判断がつかない。ただ、少し臭う。
まとめて考えれば、何かしらの事情を感じさせるものではあるが、僕にとってはるみさんとの情事を邪魔された怒りのほうがよっぽど強い。
「もういいから。未成年でしょ。早く帰りなよ」
「いや、まぁ、確かに未成年なんですが! そのなんていうか、帰る場所はなくてですね」
「家出少女か」
「そ、そうなる、んですかね?」
はっきりしない子だった。もじもじと指先をこすり合わせる様は苛立ちさえ覚える。早く帰れというのだが。
仕方ない、こっちが帰ろうと立ち上がると、僕のシャツの裾が控えめにつままれる。振り払うのは簡単だ。
「あの、私、叶由美って名前で!」
しかし、その名前に足が止まった。心臓を氷柱で貫かれた気分だった。だってその名字は、るみさんの名字と同じで――
「森谷修って人を探してるんですけど、知りませんか?」
森谷修というのは、僕のことだったからだ。





