3-16 不良のマーヤさんは僕にだけ甘い
主人公の亀山良太は病気がちで気が弱く、コミュ力不足で何をやってもうまくいかない中学時代を過ごしてきた。心機一転を決意して臨んだ高校生活も、スタートでつまずいてしまい早くも諦めかけていた。
一方、ヒロインの阪本真彩は元ヤンの母親と伯父の影響を受けて外面は不良そのものだけれど、実は正義感が強くて可愛い物に目がないという一面を併せ持つ、不良になり切れていない不良少女。
ある日の昼休み、良太は真彩のちょっと恥ずかしい場面を目撃する。仲間にバレると馬鹿にされると焦った真彩は、良太が秘密を守る見返りとして、何でもすることを約束してしまう。
ひたすらに空回りするヒロインと、怖がりながらもヒロインを支えていこうとする主人公。育ちも性格も正反対な2人が織りなす青春ラブコメディ。
僕は幼い頃から病気がちで入院生活が長かった。それでも中学校に入る頃には入院日数は減ってきたのだけれど、今度は人間関係のトラブルで不登校になってしまった。だから僕には小中を通じて学校の楽しい思い出なんてものは何一つ存在しない。
でも勉強することは嫌いじゃないし、本当は友達も作りたかった。だから地元を離れ、新たな環境である清林高校で、僕は再出発を決意した。
不幸体質――まったく、これほど僕を端的に表す言葉は他にはないだろう。入学前日の夜、僕はぜん息の発作により緊急入院した。ようやく登校したときには、クラスの人間関係は大方でき上がっていて、コミュ力ゼロの僕なんかが入っていく隙は残されていなかった。
そんなわけでGW明けの5月8日。今日も母の手作り弁当をバッグに忍ばせ、人目に付かない場所を探して、体育倉庫の裏を歩いているのである。
チッチッチッ――
舌を鳴らす音が聞こえて、僕は足を止めた。
「やー、また会ったニャン。今日も元気そうで何よりニャにより」
フェンス越しに猫と楽しそうに戯れている彼女は同じクラスの阪本真彩。茶髪にパーマという外見から分かる通り彼女は不良だ。まともに授業を受けたことなんてただの一度もないであろう、正真正銘の不良少女だ。
「おまえ、昼飯のときに狙って来るニャン? まったくよぉー、そんな目で見られると、あたしはほっとけねーぜ。うーん、なんか食い物あったかなぁ?」
そう言いながら前屈みに立ち上がりスカートのポケットに手を入れる。校則を完全無視した超ミニスカートがふわりとまくり上がって、まったくもって目のやり場に困る僕。
いや、困るべきはそこじゃ無い。彼女は絶対に関わってはいけないタイプの相手なんだ。
僕は身をかがめ、そそくさとこの場から立ち去ろうとした。
次の言葉を耳にするまでは――
「あ、さきイカあるじゃん! おまえこれ食うか? おー、スゲー勢いで飛びついてくるぅー」
「だ、駄目だァァァ――!」
思わず僕は叫んでしまった。
そして後ろを振り返る。その一瞬うちに彼女は間合いを詰め、僕の腹部に拳をねじ込んでいた。
「――ッ!?」
猛烈な痛みに襲われる。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
死ぬ?
僕死んじゃう?
反射的に腹を抱えてうずくまろうとした僕だけれど、彼女の手が僕の胸ぐらを掴み、逆にグイッと引き上げられてしまった。
「い、今の見てた!? やっぱ見てたよねぇぇぇー!? 聞いてたよねぇぇぇー!?」
彼女は叫びながら、僕の頭をガクンガクンと揺さぶる。
「頭をぶん殴って記憶を消すしかないようね」
そんな悪魔のようなセリフを吐きながら、彼女は左手で僕の胸ぐらを掴んだまま右拳を振り上げる。
もうダメだ。頭を殴られたら絶対死ぬ。死ぬ以外の未来が僕には想像できない。
――それはもう『未来』とは言えないんじゃないだろうか?
思い出が走馬灯のように浮かんできた。
母さんに『丈夫に産んであげられなくてごめんね』と泣かれたときはキツかったな……
父さんが『一人で抱え込むな』と母さんの肩を抱くのを見た時はもっとキツかったな……
普通の学校生活を送れるようになって、僕はもう大丈夫だと二人に言ってあげたかったな……
本当に後悔ばかりの人生だった。
でも、最期にこれだけは――
「阪本……さん……ゴフッ」
僕は息絶え絶えに言葉を伝える。
「猫には……ゴフッ……さきイカをあげては……ゴフッ……駄目だからっ」
「んなっ!?」
彼女は切れ長の目を見開いて驚きの声を上げた。その一瞬の間が僕に幸運を引き寄せる。
学ラン姿の三人組が近づいてきたのだ。
「よー、マーヤ。カツサンド売り切れだったぜー」
「代わりにカレーパン買ってきたけど、これで良い?」
「ってかそいつ、誰? おまえ喧嘩してんの?」
彼女の仲間だった。不良が4人に増えただけだった。まったく不幸体質の我が身が恨めしい。
ところが阪本さんは僕の手をガッとつかみ、駆け出した。
三人組の声を背中で聞きながら、走る走るどんどん走る。
それにつれて僕の呼吸はどんどん苦しくなっていく。
校舎を半周ほど回ってようやく追っ手を撒いた頃にはもう瀕死の状態だった。
肉食獣は安全な場所に獲物を運んで食べる習性がある。これが同じ原理に基づいた行動ならば、僕はこれから彼女に食べられてしまうのだろうか?
僕の思考力は低下していた。風前の灯火だった。
そんな僕を校舎の壁にドンと押しつけ、顔を近づけてくる彼女。
「猫のこと黙っていてもらう見返りに……あたしは何をすれば良い?」
耳元で囁かれたそんなセリフに、薄れゆく意識の中で僕は何か答えたのだろうか。
僕の記憶はそこで途絶えていた――
保健室のベッドで目覚めた僕には、教師からの事情聴取が待っていた。
さんざん迷った挙げ句、約束通り僕は彼女が猫と戯れていたことは秘密にした。その結果として『何の前触れもなく暴力を振るわれた』という〝事実〟が出来上がったけれど、よくよく考えたらそれは事実と大差ないものだった。
彼女は2週間の自宅謹慎処分となった。
不良少女が一人いなくなったとはいえ我がクラスは平常運転。僕のぼっち生活も続く。果てなく続く。
変わったことといえば、僕に気になる女子ができたことぐらいか。ショートカットの丸顔で、笑顔がとても可愛い斉藤由美さん。最近、ちょくちょく彼女と目が合うのだ。
そんなある日の放課後、僕の下駄箱に手紙が入っていた。『話したいことがあるので、今から校舎裏に来てほしい』という内容だった。僕は物語の主人公にでもなったような気分で、待ち合わせの場所へと急いだ。しかし、校舎裏で待っていたのは斉藤さんの友達だった。
「亀山くんは、今付き合っている人いるの?」
「いない……けど?」
「じゃあ、気になっている人はいるの? 由美……とか。亀山くん、いつも由美の方を見ているよね?」
斉藤さんの名を聞いてドキリとした。
「私、亀山くんのことが気になって仕方がないの。どう……かな? 私じゃだめ……かな?」
斉藤さんの友達からの突然の告白。生まれて初めての告白。
一瞬にして景色がバラ色に輝いて見えた。
「そ、そんなこと……ないけど?」
心臓がバクバクで、思わず声が裏返った。
コミュ力ゼロの僕にとってはこれが精一杯の返答だった。
「じゃあ、私と付き合ってくれる?」
「う、うん」
僕がコクリと頷くと、突然『わあっ』と歓声が周囲から沸き起こり、隠れていたクラスメートたちがあちこちから姿を現した。
違う。
よく聞いたら歓声なんかではない。
罵声だ。
斉藤さんの友達の顔は嫌悪感いっぱいの表情に変化する。
「えっ、本気にしたの? 亀山キモ! 相手が女だったら誰でも良いっての? まず由美に謝りなよ! あんたにキモい目で見られて夜も寝られないってさっ、ねえ、由美?」
僕の背後に斉藤さんがいた。
「うん……でも大丈夫だよ……私が亀山の視線なんか気にしなければ、それで済む話なんだから……みんな私のためにありがとう……ありがとう……ううっ……」
斉藤さんのつぶらな瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「亀山ァー、キモいあんたが悪いんだからさァー、責任とって消えなさいよ」
「由美、可哀想……」
「亀山を俺らのクラスから追放してやろーぜ!」
その一言を合図に『つーいーほう!』のシュプレヒコールが始まった。
何だこれ。ここは地獄だっけ?
僕はハメられたのか?
違う。きっと僕はまた何か勘違いして、間違いを犯してしまったんだ。
僕はこの世界では脇役はおろか、モブですらいられない。
こんな姿、母さんには見せられないなぁ。もうこれ以上泣かせたくないよなぁ。
僕は本当に駄目だなぁ……
地面がにじんで見えていた。
呼吸が苦しい。
もう頭には何も浮かんでこない。
その時、少し離れた所から声が響いた。
「楽しそーなことしてんじゃねーか。あたしも混ぜてくれよぉー」
その人は気だるそうに歩きながら、ポイッと何かを投げ捨てた。
「う、うん、いいよ。阪本さんが入ってくれるなら私たちも心強いよ」
「そうそう。阪本さんも亀山に言ってやりなよ」
「亀山を追放してやろうよ」
阪本さんはそれらの声には反応せずに無言で輪の中に入ってくる。
そして僕の前まで来ると――
「ああ、そうだな。ウゼェーから今すぐ消えろよ!」
皆から拍手と歓声が沸き起こった。
クラスで一番の不良を仲間に引き入れ、バラバラだった集団が結束していく。
悲しいけれどこれが現実。
天国でも地獄でもなく、僕がこれまで幾度もつまずき引き返してきた、社会へ通じている道だ。
もういい。家に帰ろう。この世界に僕の居場所なんて無いことが分かったのだから。
悔しい。恥ずかしい。悔しい。恥ずかしい。悔しい――
僕は鉛のように重くなった足を引きずりながら歩き出す。
皆の容赦ない誹謗中傷の言葉が僕の背中に突き刺さる。
「はあーっ? テメェーら何か勘違いしてんじゃねーか?」
そんな中、阪本さんの呆れ半分怒り半分というような声が聞こえた。
「あんな弱ぇー男一人に、寄って集ってギャーギャー騒いでんのは、あたしの正義に反するからよぉー! だからあたしはテメェーらに今すぐ消えろって言ってんだよ!」
僕は立ち止まって振り返る。
阪本真彩は怒りに満ちた表情で皆を一瞥し、そして――最後に僕にだけ微笑んで見せた。





