18 言葉はいらない
敷地の中の散歩道を、若いふたりが歩いていく。ダイアナが先に立って歩き、その後ろを少し遅れてフェビアンがついていく格好だ。
ふたりで話し合ってこいと追い出した仲間たちが、城の窓から遠目に眺めていた。
「フェンの野郎も案外抜けてんな。何年も勘違いしてダイアナを避け続けてたのか」
窓枠に頬杖をついたエチエンヌがせせら笑う。メロディもちょっとおかしかった。頭の回転が速く何事にも察しのいい彼が、誤情報に騙されて振り回されていたなんて不思議な話だ。あれほどこじれる前に、どこかで真実に気付くことができなかったのだろうか。
「まあ、話を聞くかぎり、たしかに誤解が生まれたのも無理はない。実の母親が言うのだから、動揺せずにはいられなかっただろう」
そう言うナサニエルの顔も穏やかに笑っていた。恋愛問題にどう口出ししていいのかわからず、ずっと黙って見ていることしかできなかったのだ。話が丸くおさまって、いちばんほっとしているのは彼かもしれなかった。
「誤解がとけたのはよかったけど……でもフェンは結局どうするのかな? ダイアナ様のことをどう思っているのか、まだ答を聞いてないよ」
メロディが首をかしげると、男たちは声を立てて笑った。
「んなもん、聞くまでもねえだろうが」
「特別な気持ちがないのなら、とうの昔にダイアナ嬢を上手に振っていただろう。普段やっているように、あとくされなく、きれいに別れていたはずだ。はっきり別れを突きつけることができず、黙って遠ざかっていただけなのは、あいつの中にもダイアナ嬢を手放したくないという気持ちがあったからだろう」
そんなものだろうか。メロディにはよくわからない。
「ちゃんと両想いならいいんだけど……問題は、フェンが浮気しないかだよね。見るたびに違う女の人とデートしてたからなあ」
「本命とうまくいったなら、あんまり目移りもしなくなるんじゃねえの。多分遊びまくってたのは、ダイアナに見せつけてあきらめさせるためでもあったんだろうし。……それだけだったわけでもねえだろうけどな」
「今度見かけたら殴りに行ってやろう」
いつぞやの光景を思い出してメロディは宣言した。もしもダイアナ以外の女性といちゃついている場面に遭遇したら、次からは黙っていない。
「お、いいな。オレも混ぜろよ。あいつをぶん殴る貴重な機会だ、一口乗るぜ」
「それを伝えてやれば、フェビアンも身を慎むだろう」
「副長も一緒に殴ってやってください」
さわやかな夏の窓辺に笑い声が響く。すべてが解決したあとの世界は、ことのほか輝いて見えた。
「……あ、そうだ。エチ、あれ」
「あん?」
ふと思い出したメロディは、エチエンヌに顔を向けた。
「『ヒモ』と『種なし』。どういう意味か教えて」
「おま……っ、ここで聞くな馬鹿!」
聞いたとたんエチエンヌが目を剥き、ナサニエルがしゃっくりを飲み込んだような、妙な音を立てた。
なぜ怒られるのだろうと、メロディは口をとがらせる。
「あとで教えてくれるって言ったじゃない」
「もっとあとにしろよ!」
それっていつ、と聞くより早く、背後から低い声が響いてきた。
「エチ」
「まだなんも言ってねえ!」
青ざめたエチエンヌが身を翻す。止める暇もなく逃げ出した彼を、メロディは呆気にとられて見送った。そそくさとナサニエルも部屋を出て行く。メロディの前には、ジンとセシルだけが残った。
慇懃に一礼して場を外そうとするジンを、セシルがつかまえた。
「見捨てないでくれ」
「……わたくしからお話を?」
主に忠実なジンは、命じられれば嫌とは言わないだろう。けれどできれば遠慮したいと思っていることは明らかだった。
メロディにわからないよう、セシルはシュルク語でささやいた。
「何か、他の話でごまかしてだな、そのまま忘れるように」
「無理でしょう。あれだけ気にしていらっしゃるのですから、教えてさしあげるよりないかと」
セシルは頭を抱えた。
「ヒモはともかく……あっちはどこから教えればいいんだ。やはり雄しべと雌しべか? まさかとは思うが、赤ん坊はキャベツ畑で拾ってくるとか信じていないだろうな」
「出産の手順をよくご存じのようでしたから、それはないかと」
そうだった、と思い出してセシルは顔を上げる。すると不思議そうにこちらを見ている少女と、ばっちり目が合ってしまった。
「……だめだ。自分がものすごく、汚れている気分になってきた」
「メロディ様に比べれば、たしかに汚れていらっしゃいますね」
何気なくも辛辣な一言にセシルは詰まり、恨めしくジンをにらんだ。
「念のために聞くが、余計なことを教えたりしていないだろうね?」
「余計なこととおっしゃいますと」
「……アイシャのこととか」
ジンの黒い瞳が、わずかに揺らいだ。
「聞かれてはおりませんし、お話しするような機会もございませんでしたので」
「けっこう。そのまま、今後もけっして口外しないように」
「ご命令とあらば。ですが、我が君」
「ん?」
めずらしく反論してきた従者に、セシルは軽く眉を上げた。
ジンは、彼なりに精一杯真摯な顔で(他者には見分けがつかないが)言った。
「今回のことを鑑みますに、そうした話は秘匿なさらないほうがよろしいのでは。セシル様の場合は事実無根と否定できませんので、先にご自分から説明なさった方がまだしも傷は浅いかと存じます」
「傷って……いや、別に夫婦じゃないんだし、あの子にそんな話をする必要はないだろう」
しもべの目に非難の色が浮かんだのを知り、セシルは肩を落として息を吐いた。
「リスター家とは事情が異なるよ。とうに終わった、昔の話だ。子供に聞かせるようなものではないし……私もまだ、気軽に話せる気分ではない」
苦さと痛みを含んだ声に、ジンは主の中に残る傷を思う。それ以上踏み込むことはせず、目を伏せて恭順を示した。
そんなふたりのようすを眺めていたメロディは、ちょっぴり不機嫌になっていた。
みんなが知っていることをメロディだけがわからず、問えば妙な雰囲気になってごまかされる。そしてセシルは聞くなと話をさえぎる。完全に仲間外れだ。
目の前で、メロディにわからない言葉でこそこそ内緒話をされるのも不愉快だった。どうしてのけ者にされるのだろう。
むくれていることに気付いたのか、セシルがなだめるような笑顔を向けてきた。
「ああ、ええとね――ヒモというのは、自分で稼ぐことをせず、女性に頼って養ってもらうろくでなしのことだよ。あまり品のいい言葉ではないから、君が覚えておく必要はない。間違っても、どこかで口にしたりしないように」
「……はい」
「さあ、そろそろ夕食の時間かな。今夜はフランク卿やコヴィントン夫妻も一緒だから、にぎやかになりそうだね」
「あの」
「そうだ、ドレスに着替えておいで。お客様がいらっしゃるんだから、普段着のままというのはよくないよ」
「…………」
話を変えてみるも、やはりごまかされてくれない少女に、セシルは内心冷や汗だ。
「…………」
強い瞳にまっすぐ射抜かれると、たじろがずにはいられない。
結局白旗を振る、押しの弱い公爵だった。障りのなさそうな部分だけ、手短に説明してやる。
「……その、アレはね、なんというか、端的に言うと子供を作れない男性のことで。しかしこれは本当に下品だし失礼でもある言葉なので、絶対に口にしてはならない。ダイアナ君も頭に血が上っていなければ言わなかっただろう。きっと恥ずかしい思いをしているだろうから、もう忘れて、なかったことにしてあげなさい」
「……はい」
即座に叱られていたことや、ダイアナ本人も真っ赤になっていたことを思えば、セシルの言うとおりなのだろう。なかったことにという指示には異存なかった。
しかしすっきりしない。セシルの説明は、完全ではないような、どうにも物足りない気がする。失礼はわかるが、なぜ下品ということになるのだろう。
もう少し教えてくれないかと見つめるも、セシルはわざとらしく視線をそらして、それ以上言ってくれなかった。
「ドナが淡い薔薇色のドレスを選んでいたのを見たよ。たしかあれは、まだ一度も着たことがなかったよね。今夜はそれにしてくれないかな? 髪も結って――宝石よりリボンの方が君には似合いそうだ。赤いリボンを結べば、さぞかし可愛らしいだろう。小さな花を飾れば、きっと妖精みたいになる。うん、ぜひ見せておくれ」
「嫌です」
ふくれた顔を隠さず、メロディは断った。
「……どうして」
「可愛くなんかないですもん。黒くて太くてみっともないですから」
「いや、あんな戯言を真に受けなくても」
「ドレスなんか着たら、よけいに太い腰が目立ちます」
「腰って……」
話につられて、セシルはなんとなくメロディの腰に注目する。すると嫌そうに身をよじられて、痴漢扱いされいるような気分になってしまった。
もう一度目をそらせば、いつの間にかジンが姿を消している。裏切り者、と彼はしもべを恨んだ。
「太くないよ。それは、たしかに一般的な貴婦人とはちょっと違うかもしれないが、健康的でいいじゃないか。こちらでは両手におさまりそうなほど細い腰がもてはやされていることは知っているが、正直私にはいいものに思えない。矯正して不自然にくびれさせた腰は、見ていて怖いよ。骨とか内臓とかどうなっているのだろうと、つい考えてしまう」
「内臓……」
「じっさい健康に悪そうだしね。だから、コルセットもきつく締めなくていいよ。いつものように腹一杯食べなさい。元気にモリモリ食べている君は、十分に可愛いと思うよ」
「…………」
セシルの言葉に嘘やごまかしは感じない。多分彼は本当にそう思って言ってくれているのだろう。
喜ぶべきなのだろうか? しかし女性らしい美しさや優雅さとは対極の部分で誉められた気がして、なんだか微妙な気分だった。
「セシル様は、太い方がお好きなんですか?」
「そうだね、肥満はよくないが、健康的な範囲なら豊満な方が魅力的かな。折れそうな腰より弾力のある腰の方が抱き心地が――あ、いや」
メロディの機嫌が直ってきたことで油断して、うっかり口を滑らせてしまった。あわててセシルは口を閉ざすがもう遅い。向けられる目が、このうえなく冷たく白くなっていた。
「ふうん……」
「いや、だから、健康的な方がいいという話で」
「…………」
まさに墓穴というものだろう。思春期の娘に軽蔑されて、軽くはない打撃を受ける大人だった。
「なにやってんだか」
こっそり覗いていたエチエンヌは呆れ果てる。
「ちょっとは進展するかと思いきや、本当に色っぽい方へ向かわねえな。お嬢がガキなのはしょうがねえが、セシルの奴もいつまで保護者やってんだか」
「うむ――しかし、あれはあれで似合いのような気もするな。そのうち、自然にまとまるのではないかな」
笑いながらナサニエルがジンに同意を求める。うなずく仲間の目が、いつもよりずっとやわらいでいると感じたのは、きっと間違いではないだろう。
まっすぐに伸びた背中が、振り返らずに歩いていく。いつもは気品を失わず、そして弱さを見せないように伸ばされている背中だが、今は意地でも振り返るかという怒りに満ちていた。
「どこまで歩くのさ。城を一周する気かい」
フェビアンが声をかけても、反応はなく歩みも止まらない。
「そろそろ暗くなるよ。もう晩餐の時間だ。お腹が空いてこないかい? 僕は腹ぺこだけどね」
強い熱で地上を焦がしていた夏の太陽も、ようやく山の向こうに消えゆこうとしている。長い昼が終わりを迎え、世界に青さが満ちていく中、黒髪の令嬢はただ歩き続ける。
「ダイアナ」
「…………」
「ダイアナってば」
「…………」
「――ディア」
もう何年も呼ばれることのなかった、なつかしい呼び名に、ようやく足音が止まった。
「ディア」
もう一度、フェビアンは甘く優しい声で呼ぶ。細い肩が小さく震えた。
「マイディア」
「…………」
振り向いた顔は怒っている。けれど頬が色づき、瞳はどうしようもなく潤んでいた。
「やっとこっち見てくれた」
うれしそうに笑うフェビアンに、ダイアナは子供っぽい表情になった。
「……わたし、怒ってるのよ」
「うん」
「暢気に笑わないで。本当に怒ってるんだから」
「うん、ごめんよ」
フェビアンはダイアナのそばまで歩き、背をかがめて緑の瞳をのぞき込んだ。
「でもさ、僕も被害者なんだよ。母上はもちろん、父上だってひどいよ。周りから誤解されていたことを知りながら、払拭しようという努力もせずに放置していたんだから。おかげで無駄に悩まされたし、何年も損しちゃった。やっぱり慰謝料請求しようかなあ」
普段どおりのとぼけた態度に、ダイアナはますます顔を怒らせた。
「そうじゃなくて! ……どうして言ってくれなかったのよ。何も言わずに離れて行っちゃって、わたしがどれだけ辛かったと……っ」
「教えれば、君が傷つくと思った」
「聞かなくたって傷ついたわ! 同じ傷つくなら、あなたと一緒に傷つきたかった。同じことを知って、一緒に悩んで、それで傷つくならかまわない。でもあなたは一人で勝手に結論を出して、何も言わずに離れていった。そんなにわたしが嫌いになったのかと悲しくて、でもたまに会えば変わらずに笑うし、危ない時は助けてくれる。もしかして嫌われてはいないのかしらって期待したくなる。なのに、期待するそばからすぐまた突き放されて、もうわけがわからなかった。結局あなたがわたしを傷つけたわよ!」
「……そうだね、ごめん」
なじる娘をフェビアンは抱きしめる。ダイアナは逆らわず、涙と小さな拳を彼の胸に叩きつけた。
「どうして信じてくれなかったのよ。もし誤解じゃなくて事実だったとしても、それで傷ついても、わたしはきっと立ち直ったわ。わけもわからないまま突き放されるより、すべてを知って納得した方がよっぽどいい。それに耐えられないほど弱い人間じゃないつもりよ」
「そうだね……けど、自分の親を恨ませたくなかったんだ。それに比べれば、幼なじみへの気持ちなんて、もっと簡単に吹っ切れるものだと思ってた。子供の頃の関係なんて、たいていの人はなつかしい思い出にするだけで、大人になればたくさんの出会いを知り、本物の恋をするものだから」
「そう思っていたのなら、やっぱり許せないわ」
ダイアナは顔を上げた。涙の残る目で、間近にあるなつかしくも愛しい顔を見上げる。
「あなたをただの思い出にして、簡単に忘れてしまえると思われていたなんて許せない」
「そこは謝る。本当にごめん。僕も忘れられなかった」
艶やかな黒髪に口づけを落とし、フェビアンは抱きしめる腕に力を増した。
「いろんな女の子とつきあえば忘れられるかなと思ったんだけどね。きれいな子や可愛い子、色っぽい子や積極的な子――魅力的な女の子は山ほどいたのに、いつまでも吹っ切れずにいる自分が信じられなかったよ」
「よくもぬけぬけと言うわね」
ダイアナの顔に呆れが混じる。フェビアンはくすりと笑いを漏らした。
「隠しようがないだろう? 士官学校でも社交界でも、僕は女好きって評判だったからね。否定はしない。女の子は大好きだ。でも、離れても忘れられないのは、一人だけだったよ」
「…………」
背から離れた右手が、ダイアナの頬をなでる。吐息がふれそうなほどの距離で、フェビアンはささやいた。
「正直、まだ戸惑いが大きいよ。何年も信じていたことが間違いだったと言われても、はいそうですかとすんなりはうなずけない気分だ。……だけど、君にこうすることを誰からも誹られずに済むのなら、やっぱりうれしいね」
甘く熱い言葉に返される瞳にも、たしかな熱がこもっていて。
あとはもう、言葉は必要ない。フェビアンもダイアナも、それ以上の会話など求めない。
足元の草むらで、虫が音楽を奏でていた。涼やかな夜風と小さな楽隊による演奏の中、寄り添い合う影は離れることなく、宵闇の中にまぎれていった。
思いがけずいろいろあった滞在期間を終えて、領主一行がカムデンへ帰る日の朝、城館の前には近くの住民たちが見送りにきていた。
「なんだい、この人だかりは。ずいぶん盛大なお見送りだなあ」
フェビアンが驚いて農民たちを見回す。今日も忙しいはずなのに、畑仕事を休んで来ている人々の顔は明るかった。見覚えのある顔も混じっていた。畑を荒らされて困っていた老人は、猪退治に感謝を述べる。脚の後遺症はそのままでも、ジモン村の村長から怯えの陰は消え、いくらか若さも取り戻したように見えた。
「村を代表して領主様にお礼を申し上げます。どんなに厳しい罰を課せられてもしかたのないところでしたのに、寛大なお言葉をいただきまして感謝しきれないほどです。皆で力を合わせて村を立て直し、ご恩に報いたいと思います」
村ぐるみでの犯罪行為を、セシルは大きく咎めなかった。咎められなかった、という方が正しい。彼らが受けた被害を考えれば、しばらくは税を上げるわけにもいかない。猶予期間ということで、まずは生活の立て直しを命じた。
その上で、蛍石の採掘以外の道を模索するようにも命じた。
今は必要なくても、いずれかならず必要となる時が来る。その時のために今から用意しておくようにと、ジモン村に対してだけでなく、ヘクターにも話しておいた。
以前フェビアンが提案した焼き物づくりも計画に入れておく。専門の人間をさがして派遣することを約束し、村人たちには快く協力するようにと命じた。
「甘いと思うかね?」
主に問われたヘクターは、首を振った。
「いいえ――お礼を申し上げます。彼らのしたことは悪事にはちがいありませんが、暮らしを楽にしたいというのは誰もが抱く望みです。不満が溜まっていたことに気付かず、悪党どもに付け入る隙を与えたのは私の責任です。そのせいで旦那様まで危険な目に遇わせてしまい、本来ならば最も厳しく罰せられるべきは私なのですが」
セシルは軽く笑った。
「その理屈でいくと、いちばんの責任者である私がもっとも罪が重いことになる。私が処罰するまでもなく、村人たちは十分な報いを受けていたから許すことにしたんだ。これがもっと悪質な犯罪で、人を傷つけるようなことをしていたなら、けっして許さなかったがね」
セシルがどういうことに怒るのか目の当たりにした家令は、頭を下げて主の言葉を受け止めた。
「奥方様」
農民たちの間から若い夫婦が進み出た。女房は腕に生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。
「奥方様ってだれ?」
「ここにそう呼ばれそうな女性は君かダイアナしかいないよ。ダイアナがモンティースの領民から奥方様と呼ばれるはずないから、やっぱり君のことだよねえ」
フェビアンが言って、他の仲間も笑う。困惑するメロディに、すっかり腰の治った農夫と女房が頼み出た。
「奥方様にお願いいたします。どうかこの子に、名前を授けてやってくださいませ」
「わたしは誰の奥方でもないんだけど……って、名前? 名付け親になってってこと?」
「はい! 厚かましいってわかってますけど、ぜひ奥方様から名付けてやっていただきたいです」
「だから奥方じゃないってば……」
困りながらメロディは赤ん坊をのぞき込んだ。生後ひと月未満なので、本当に小さい。頭髪はまだ申し訳程度にほよほよ浮いているだけだ。鼻もちんまりと低く可愛らしい顔の中、眉毛だけがなかなか立派だった。周りの騒々しさに動じることなく眠っているのも頼もしい。
「わたしが名付けちゃっていいの? 子供の大事な名前だよ?」
「ええ、ぜひ奥方様にお願いしたく」
「奥方様のような強くて優しい子に育ってほしいんです」
「奥方じゃないって言うのに」
メロディはうーんと考えた。赤ん坊はたしか男の子だった。強い子にという願いだから、強そうな名前がいいだろう。
「……アレクサンダーはどうかな。うちのご先祖様なんだけど、三国に並ぶ者なしと言われた猛将で、重装騎兵を片手にあしらい百人斬りしたって聞いてる。三日三晩休むことなく戦い続けたとか、熊を素手で仕留めたとか」
さらりと語られた先祖の武勇伝に、その場にいた人々は反応に迷った。
「普通そういう話は大げさに脚色されているものなんだけど、君んちの場合はまんま実話の可能性が高くて笑えないなあ」
「熊殺しはお前んちの伝統か何かかよ」
農夫と女房も、いささかたじろいでいた。
「そ、それはまた、ものすごく強そうな名前ですね」
「でもちょっと、立派すぎるような気も……」
メロディは首をかしげてセシルを見上げる。青い瞳が苦笑した。
「たしかに、農民の子には立派すぎて、将来名前でからかわれそうな気の毒な予感がするな。では、半分取ってサンダーはどうかね。それも十分強そうな響きだが」
夫婦は顔を見合わせ、うれしそうに笑った。
「サンダー……はい! その名前をいただきます!」
「ありがとうございます!」
メロディたちが使う馬車の他に、コヴィントン家の馬車も準備を終えて、出発の時を待っていた。
ダイアナとはここで一旦お別れだ。彼女はまだカムデンへは帰らず、両親の待つ別荘へ向かう。
不安の雲がすべてきれいに追い払われたため、ダイアナの顔は明るかった。
カムデンへ帰れば、フェビアンとの婚約が正式に整えられることになっている。ただ、結婚は当分保留とのことだった。
フェビアンは今の仕事を優先したいと考え、セシルの身辺がもう少し落ち着くまで結婚は後回しにしたいと言った。メロディたちとしてはありがたい言葉なのだが、いろいろ心配にもなる。
「ダイアナ様は、本当にそれでいいんですか? 不満は我慢せずに言っちゃった方がいいですよ」
そっと尋ねると、ダイアナは笑顔で首を振った。
「いいえ、大丈夫です。わたしもまだ結婚を急ぐ歳ではありませんから。結婚してどこで暮らすのかという問題もありますし……まさか公爵邸に二人で住み込むわけにはいきませんし、新婚早々別居というのも望ましくありませんもの。通いで勤められるお仕事でもありませんし」
身分を考えると、仕事にこだわる必要はない。フェビアンは家に帰って子爵家の嫡男として暮らすべき立場だ。それを選ばず、セシルを守る仲間であり続けてくれたことは、素直にうれしかった。理解を示し受け入れてくれるダイアナにも感謝する。
女同士で話しているうちに、ふとメロディはまだ解決されていない疑問があることを思い出した。ダイアナに聞くには、今がちょうどいい。
「あの、ダイアナ様。ずっとお聞きしたかったのですけど、以前におっしゃっていた、フェビアンに嫌われたと思った原因は……」
途中まで言いかけた時だった。後ろの方で、「うわぁっ」という情けない悲鳴があがった。
メロディとダイアナは、そろって振り返る。大体察しはついていた。田舎に来て以来、たびたび目にした光景だ。
「来るな来るな! ちょっ、エチ、なんとかして!」
フェビアンが一人で暴れている。周りは呆れた目で冷たく眺めていた。
「てめー、いい加減慣れろよ」
「慣れでどうにかなる問題じゃない! あああっ、なんでこっちに向かってくるんだよもうっ!」
腰の剣に手をやるフェビアンを、ため息をついたセシルが取り押さえる。ジンが、そばを飛び回っていた小さな虫を追い払った。
「……フェンの虫嫌いは、筋金入りですね」
メロディも呆れるばかりだ。蜂に襲われたというならともかく、無害な虫にまで悲鳴を上げて逃げ回るなど、騎士としてあまりに情けなさすぎる。
しかしダイアナは笑わなかった。
「わたしのせいですわ……」
え、と聞こえた皆が注目する。ダイアナは罰の悪そうな顔で告白した。
「昔、わたしがいたずらしたんです。その前にフェビアンにからかわれて腹を立てていて、仕返ししてやろうと思って……バスケットに虫を一杯詰めて、おやつだと言ってフェビアンに渡したんです」
「虫って、どんな……」
尋ねられて、令嬢は恥ずかしそうに頬を覆った。
「手当たり次第に集めたものですわ。わたしは割と平気な方だったので、庭のあちこちでさがしてつかまえましたの。まだ子供だったので、あまり深く考えなくて……本当に、ちょっとした意趣返しくらいのつもりだったのですけど」
一匹二匹なら、そのとおりささやかないたずらで終わったのだろう。
けれどダイアナは、バスケット一杯に詰め込んだと言った。
「おなかを空かせていたフェビアンは、ろくに中身をたしかめずに手を突っ込みました」
パイやスコーンが入っていると思ったバスケットの中身は虫。
庭中から集めてきた虫がうじゃうじゃ。
妙な手ざわりにあらためて中を確認したフェビアンは、目の前の光景にそれはそれは驚いた。なにせ虫の中に手を突っ込んでいるのだから、見た目だけの衝撃ではなかった。
「さらに悪かったのは、狭い場所にいろんな虫を入れていたことで」
虫の世界もけっこう過酷な弱肉強食だ。人間から見れば「虫」の一言で片付けられる存在も、さまざまな種族がおり強者と弱者が存在する。
簡単に言うと、食べ残し状態になった虫やら、今まさに捕食されている最中の虫などがいたのである。
元から虫が苦手だった少年にとって、それは地獄の光景だった。
悲鳴を上げてバスケットを放り出したものの、混乱していたため自分の上に虫をぶちまける結果になってしまった。さらに彼は悲鳴を上げ、恐慌状態におちいり、大人が駆けつける騒ぎとなったのである。
それ以来、虫と見るや鳥肌が立つようになったフェビアンを、メロディは同情の目で見やった。
「……まあ、それは忘れられないよね」
「あー、オレでも驚くかも。さすがにそういう経験はねえや」
「いわゆるトラウマというものだな」
エチエンヌやナサニエルとうなずき合う。フェビアンがうらめしげに言った。
「あれで大騒ぎしたせいで、ダイアナと会っていたことが母上にばれちゃったんだよ。ただでさえ弱っていたところに衝撃の事実を聞かされて、僕はしばらく寝込んだよ」
「だからごめんなさいって言ったじゃない。反省してるわよ。あんなことになるとは思わなかったのよ」
「別にもう許してるけどね。でもこの傷は一生消えないよ。張本人として、しっかり責任はとってもらうからね」
「責任って」
「一生かけて償ってもらうから」
「……ばか」
なんだかんだ言いながらすぐに甘い雰囲気に突入する。微笑ましいというより馬鹿馬鹿しくて、メロディたちはふたりを置き去りにして馬車へ向かった。
「さあっ、さっさと帰りましょうセシル様!」
主も笑いながら長身をかがめ、馬車に乗り込む。
「じゃあ、またしばらくお前に任せきりになるが、よろしく頼むよ」
「はい。旦那様も皆様も、どうぞご健勝で。次のお戻りをお待ちしております」
親愛を向けてくれる人々と別れて、彼らは帰路につく。領地を出るまで、行き先々の道端で別れを惜しむ民が手を振ってくれていた。
長らく領主不在だったモンティースの領民たちにとって、新しく領主となる人物には期待と不安があった。異国からやってきた若き公爵を、はじめおっかなびっくり見ていた人々は、彼が帰った後思い出話で盛り上がるようになった。
視察で行き合えば気さくに挨拶をしてくれて、困っていれば助けてくれて。あんまりおっとり優しいものだから、ちょっと頼りないかもと危ぶんだり。
けれど思いのほかたのもしく、悪党どもをこらしめてくれた。
いちばん自慢していたのは、畑仕事を手伝ってもらった上に息子の名前までもらった農夫たちだ。
彼らは末永く、領主を慕い続けた。




