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2-08 君はまだ、断末魔を叫んじゃいない。

 高校二年生の七月。梅雨。

――その日、僕は生まれて初めて断末魔の叫びを聞いた。


 高校二年の夏、春谷は初めて人が崖から落ちて死ぬ瞬間を目撃してしまう。その落ちていった人物は彼が通う高校の女教師――霧上蛍夏だった。

 彼は慌ててその彼女の安否を確認するために崖の下を覗くが、そこには信じられない光景があった――


予測不能な『青春』×『ミステリー』

 薄暗い教室。窓から差す夕日に照らされた埃がキラキラと踊る。少し埃っぽくて古びていて、そんな見慣れた部室が今日はなんだか違って見えた。

 いつもは部活のメンバーで賑わっているその場所は、今は虚しい哀愁だけが漂っていた。


 僕は今日、決心をしてここにいる。『彼女』に、言わなければならないことがある。


 唯一の光である夕焼けが照らす教室の窓から、一筋の風が通り抜けた。古びた窓額縁ががたがたと揺れる。

 その風は青春の様な爽やかな風ではなく、荒んでいて、重たい。僕は一度、小さく息を吐くと『彼女』の瞳を捉えて言う。


「……僕は、霧条先生が好きです」


 緊張で唇が震えた。手に汗が滲む。

 だけど、彼女の答えはもう既に分かっている。


 また、びゅうと風が吹いた。

 青春の風が澄んだ青色だとして、その風に色をつけるならばきっとくすんだ灰色だ。

 しかし、そんな風も僕にとっては青春だった。

 それがどんなに不吉な色をした風だろうと、僕はそれを受け入れただろう。青春なんてこんなものだろうと、僕は心の中で諦めていた。

 だが、そんな青春も案外悪くない。どんな風だって、どんな答えだって僕にとってかけがえのない青春になるだろう。

 彼女はこちらを振り向いて言った。


「――私は君が、大嫌いだ」


 彼女は力強くそう言った。僕を拒むように、迷いを断つように。そうだ、僕は先生のその力強さを惹かれたのだ。


「……知ってましたよ」


 彼女の顔に夕焼けの光が差した。彼女の鋭い瞳が僕をじっと捉える。僕は、僕だけが彼女の正体を知っている。


 僕はこの青春を、この人生の一頁を物差しで計ることなんて出来ない。これはかけがいのない、他の誰のものでもない僕だけの青春であり、清算である。



* * *



「あぁああぁあぁああぁぁぁぁああぁあああ!!!!」


 思わず耳を塞ぎたくなるような叫び声の後に、汚くて鈍い破裂音がした。それは、僕の手の届く範囲で初めて人が死んだ瞬間だった。

 人が崖から落ちる。漫画やサスペンスでよく見たその光景は、実際目の前で起きてみるとどうしていいか分からなくなる。ざわざわと周りの木が揺れるたび、どうしようもない焦燥に駆られる。雨の日の小さな森に、助けは期待できない。


 僕はただ、彼女が目の前から消えていくように、崖から落ちる瞬間を、茫然と眺めていることしかできなかった。


 崖の下の様子を少し想像するだけで猛烈な吐気を催す。肌をぽつぽつと打つ小雨は次第に強くなり、先程の叫び声をまるで飲み込んでいくかの様に雨音を強くする。


 泥濘んだ土と怠くなるような雨の匂い。それらが混じった汚い泥の香りが厭らしく鼻孔を刺激した。眼の前の崖に残る彼女の足跡に、僕の心臓は激しく鼓動する。

 高校二年生の七月。梅雨。

――その日、僕は生まれて初めて断末魔の叫びを聞いた。

 断末魔といえば基本的にそれを叫ぶ時は『悲劇』の真っ最中であり、その人にとってバッドエンドの時である。

 その断末魔の叫び始めから、重くて鈍い着地音が鼓膜に届くまでの時間はあっけないくらい一瞬だった


 僕は落ちていった女性を知っている。

 彼女の名前は『霧条蛍夏(きりじょうけいか)』。僕が通う高校の女教師の一人である。あの地獄のように黒い長髪は彼女以外にありえない。

 僕の頭がようやく目の前の光景を知覚する頃にはもう既に肉塊が着地する鈍い音が鼓膜を刺激していた。


「な、なんとかしなくっちゃ……!」


 何をしてももう手遅れだというのに、それが状況の把握を終えた脳が咄嗟に出した言葉だった。

 冷たい雨が頬に触れ、肌が敏感に震える。

 その雨の冷たさが狼狽える僕を現実に戻す。恐怖で息が荒くなる。おぼつく思考で状況を再確認する。しかし、脳は思考を整理する暇もなく、思考よりも先に体が動き出した。

 むしろ、考えることができたのなら、僕の体は動けなかっただろう。


「だ、大丈夫ですかぁー!?」


 大丈夫なはずがないのは分かっている。恐らく、僕の声はもう彼女には届いてないのだろう。そんなこと分かりきってはいるが、勝手に口からそんな言葉が出た。

 僕は彼女の安否を確認するために雨に打たれながら小走りで崖の方へ向かう。

 少し崩れた崖の端から首を伸ばし、下を見渡す。その崖の下の景色をみて、僕は驚愕し、恐怖した。

 もしかすると、見なければよかったのかもしれない。見てはならなかったのかもしれない。


「……死体が、ない」


 何故なら――そこには崖から落ちた彼女、霧条蛍夏の死体がどこにも無かったからである。


 彼女の死体どころか血液すら見当たらず、肉の一片すら視認できない。落ちたのならば必ず崖の下に倒れているはずである霧条蛍夏の肉体は、どんなに見渡しても、目を凝らしても何処にもなかったのだ。


 なんだかくらくらしてきた……


 あまりのことに脳が考えることを拒否している。確かに僕はこの目で見た。霧条先生が崖から落ちていくところを見たはずなのだ。

 なぜ? どうして? 僕は死体が消えるなんてことが到底信じられず、四つん這いになりながら必死に目を凝らして辺りを見渡す。その時、腕が泥濘に取られ、不意にバランスを崩した。

 あっ――なんて、声を出すタイミングも無く、顎が地面を直撃し、その拍子に僕の体は崖から放り出される。


 僕としたことが、必死になって周りが見えていなかった。


 崖から落下していく僕の体はまるでスローモーションの様に、ふわふわと宙に浮いている様にも思えて、それでもやっぱり徐々に落下していく。


 この状況は僕の人生の中で一番にピンチな状況であるにも関わらず、僕の脳はこんな状況とは裏腹に不思議と焦りや不安といった感情は無い。

 いや、ただ現実逃避をしているだけか……

 そんなことを考えている間にも呑気な僕とは相反して、落下するスピードは加速していく。

 

 こんな時は断末魔でも叫ぶのが定石なのだろうか。


 しかし、僕に叫ぶ気は無かった。

 何故なら、なんだか負けた気がするから。本当に馬鹿らしい理由だと思う。

 それでも、叫ばないことこそが今僕に出来る精一杯の『死』への“足掻き”であると思ったのだ。

 この後命を落としたとしても、僕は最後まで『死』に抵抗したのだと胸を張れる。


 あぁ、そろそろ地面だろうか?

 僕は落下するにつれて次第に加速していく風と意識の中で、夢見がちで幼稚な淡い希望を抱いた。




 ***



「――というのが、つい先日起こった出来事なんですよ。霧条先生」

「ほぅ、春谷は私が崖から落ちて死んだというのか。ならば、此所にいる私は一体誰なんだ?」


 あの日、崖から消えたはずの『彼女』は不機嫌そうに腕を組み、疑問を抱く眼差しはこちらの瞳を強く捉えている。

 その鷹の様に凶悪な眼光は悪い冗談ならただでは帰すまいと釘を刺しているようで、緊張のせいか僕の額に一筋の汗が垂れた。それでも僕は質問を続ける。


「それは僕の台詞です。先生は何なんですか。幽霊なんですか? それともドッペルゲンガーですか?」


 ふざけた様な発言の内容とは裏腹に真剣な僕の顔を見て彼女は手を自身の顎に添える。数秒考える素振りを見せて眉間に皺を寄せながら怒っているのか、呆れているのかの様な低い声で言った。


「……もしや、君はイカれているのか?」


 騒がしい声のする学校の廊下。昼休み。

 霧条蛍夏は、呆れた様子で大きな溜息をはいた。

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