◑2◑ 君がいないと駄目なんだ。
帰国予定の社交界シーズンが近付いてきたこともあり、連日女性に人気の台詞を書くのが得意な脚本家仲間に頭を下げ、何度も駄目出しをされながら必死にそれの仕上げ案を固めて帰ってきた部屋の前に、不安そうな表情で旅行鞄を手に佇んでいる彼女を見た瞬間……背筋が凍りついた。
そこから続いた彼女の言葉にさらに胃が重く冷たい鉛のようになり、自分の失態の大きさがここで初めて分かるほど馬鹿だった。
「僕も一緒に戻るから、一人で、社交界の準備をしに帰らないで」
覚悟を決めた表情で単身国に帰ると言った彼女に対して絞り出した、どこまでも身勝手な願いだと思う。それにこんな図体の男に急に腕を掴まれたりしたら、誰だって怖いに決まっている。
――だけど。
「君の不安に気付かなくて、ごめん。自分勝手で、ごめん。でも……ごめん。僕は……君を、失うのは、嫌だ」
声が震えて視界が滲む。彼女にせっかく褒めてもらったばかりの背筋もまた丸くなってしまった。
彼女の旅行鞄が床に落ちる音。
掴んだ華奢な腕が震えている。
怖がらせているのだ、彼女を。
でも今この手を離して、彼女が去ってしまう方がずっと怖い。彼女はそんな小心なこちらの心を見透かすように見上げたまま、一言も発することなく唇を引き結んでいる。美しいライムグリーンの瞳と栗色の髪に見惚れた。
いつも僕を知らない世界に連れて行ってくれる……憧れの女性の目だ。
一度彼女と王都で別れ、その後に急に我が身に降りかかった一大転機に、僕は喜びよりも先に恐れを感じた。隣国の劇団から持ち込まれた公演依頼。
駆け出し弱小劇団に依頼されるには思いもよらない大仕事に、団員達の盛り上がりは凄まじいものがあったけれど、僕はそのことでくるかもしれない揺り戻しの方が怖かった。
上手くいけばこれ以上ない弾みがつく。でも上手くいかなかったときの風評も同じくらい大きくなる。それなのに、普段なら天秤にかけることすらしない二択を前にして、僕は迷った。
劇団としての岐路がこんなに早く現れるとは思ってもみなかったこともある。それに失敗したときの責任の重さも。
だけどそんな僕の背中を押してくれたのは、共に舞台を作り上げてきた団員の皆と、憧れの世界に足を踏み入れる切欠となったアンナ嬢だった。彼女は狼狽える僕を前に声をあげて楽しげに笑い、歌うように『やってみましょうよ。できるところまで!』と、さも簡単に見知らぬ世界に飛び込んだ。
そんな眩しい彼女に、僕はいつしか分を弁えないものを感じるようになり、それを伝える自信と言葉を持てないもどかしさから、こちらに来て脚本の台詞に悩む時間も増えていった。
「あ、あの、聞いて欲しい、ことが……あ、あるんだ」
「そう……何かしら?」
「ちょ、ちょっと待ってて、すぐに用意する、から」
彼女が猶予をくれた。そのことに慌てて上着のポケットに入っているそれを引っ張り出そうともがく。それは脚本家仲間に教えてもらった、女性に好意を伝える情熱的な台詞が書かれている、いわば“脚本”だ。
けれど、こちらを真っ直ぐ見上げてくれる彼女を前にして、ふと、疑問が頭をもたげた。これは、果たして彼女に聞いてもらいたい僕の言葉だろうか、と。
ジスクタシアでは貴族や一部の裕福な市民の嗜みでしかなかった演劇が、この国では辻や宿や酒場の小さな舞台でも行われている。最初は尻込みしていたのに、いつの間にか僕は他の団員達と一緒になって、演劇一色の日々を送っていた。
時折こちらの団員達に彼女との関係性を訊ねられても、一方的に憧れているだけの僕には答える術もなく。下手でも笑ってさえいれば、そのうちにそういった話題から逃れるコツも掴んだ。
――昔の自分とは、変わったと思う。
――彼女のおかげで、変われたと思う。
でも、それは同じ趣味を共有して、離れた場所にいる彼女と、重ならない時間を手紙で交わした言葉から変わっていったものだった。
「僕は……君がいないと、駄目なんだ。君がいないとペンも執れない。君がいないと物語が思い浮かばない。君がいないと背筋も伸ばせないし、また王都で会えると分かっていても……君と離れることが……寂しいんだ」
上着のポケットに手を突っ込んだままの僕の唇からは、手伝ってもらった“脚本”の格好良い台詞とは、全然似ていない言葉が零れた。
「アンナ・エステルハージ嬢、こんな情けない男ですが……あ、貴女に、婚約を申し込んでも、良いですか」
きっと彼女が今までの人生で聞かされてきた台詞の中でも、一番格好悪くて、幼稚で、詩的さの欠片もない駄作だったのに――。
「そうね……垢抜けないけど、悪くはないわ。国に戻ったら、今の台詞をもう一度お父さまとお姉さまの前で聞かせて頂戴」
「が、頑張ります!!」
そんなあがり症の僕にとって特大級の舞台を用意されたとしても、格好悪くても最後まで演じきってみせるんだ。




