*8* 着地に失敗した猫の気分。
昼からの公演時間に間に合うよう少し早めに屋敷を出ようと思いつつ、十時頃に自室で身支度を整えていたら、にわかに階下の玄関ホールが騒がしくなった。
「何か下が騒がしいですね。お客様でしょうか?」
「変ね……お父様からは特に誰かが訪ねて来るとは言われていないのだけれど。あとは一人でもできるから、貴女は少し下の様子を見てきてくれないかしら?」
「畏まりましたお嬢様。それでは少し失礼致します」
というような一連のやり取りを経て、鏡台の前で髪型の最終チェックを行っていたのだが……。
何故か戻ってきた彼女とその援軍に再びひんむかれ、私の持っている服の中でも色味の華やかものに着せ替えられた。髪型もそれに合わせて緩い三つ編みから、やや手の込んだ編み込み風に。
さらに最初の髪型に合わせて耳許を飾っていた小さな淡水真珠の耳飾りも、勿論選手交代。その場所をフェルディナンド様お手製の、若草色に金と銀の掠れが入った葉っぱのイヤリングに席を譲った。
こちらが口を挟む間もなくあれよあれよと整えられたのち、着飾ることに不慣れな私はフラフラになりながら、侍女に「応接室にお茶の用意がございます!」とやけに元気に伝えられて向かったものの、そこにはすでに先客の姿があった。
「おはようベルタ嬢。待ち合わせまでの時間の潰し方を思い付かなくて、迷惑だとは思ったのだが立ち寄らせてもらった」
そう言いながら謎の歓待ぶりに困った表情を浮かべるホーエンベルク様と、やけに理解のある表情でやりきった感を出す我が家の使用人達。その対比に思わずこちらまで苦笑してしまった。
「おはようございます、ホーエンベルク様。ちょうど私も支度を整えていたところでしたので、紅茶を飲み次第お話しながら劇場までご一緒しましょう」
――三十分後。
ニコニコ顔の使用人達に見送られながら屋敷を出発し、夜の間に降った雪の積もる街路を並んで歩く。その途中で雪かきをしてくれている商工会の人達に会釈をしたり、されたり。滑りやすい足許に気をつけて歩くせいで、会話も散発的だ。
寒い冬空の下をわざわざ徒歩で出かけるのは、今日の公演場所も前回と同じ裏通りの小劇場なので、馬車を使っては混雑するからだ。お客の馬車で混雑するならまだしも、主催者側の馬車が混雑を生み出してはどうしようもない。
そういった理由から本来であれば、屋敷の人間と一緒に出かける予定だったのであまり気にしていなかったけれど……伯爵家の人間が雪道を徒歩で移動って、どうなんだろうか? 今さらこんなことに気付くのって、社会人としては大失敗では?
しかし引き返して馬車を手配しようにも、すでに結構歩いて来てしまった。だったら街の辻馬車に……とも思ったけれど、一般人との相乗りは嫌だと言う貴族は多い。というより、現在の職場環境からはむしろ全体の九割がそうだ。
さっきから会話が途切れているのも辛いし……ええい、ままよ! と、気合いを入れて口を開こうとした次の瞬間。
「その耳飾りは……エリオットの自作か?」
いきなりホーエンベルク様に出鼻を砕かれた。いや、正確には彼なりに気を使って会話を探してくれていたのだとは思うけど、いまかー。
「ええ。良くパッと見ただけでお分かりになりましたね。流石長年のご友人ですわ。以前フェルディナンド様が髪につけられているガラスビーズに言及したら、去年の誕生日に頂いたのです」
「そうか。相変わらずあいつの装飾品の見立ては確かだな。貴女の優しげな雰囲気と今日の装いにとても良く似合う」
「は……い……?」
まったく褒め言葉を予期していないところで、いきなり微笑み混じりにそんなことを言われたものだから、ジワジワと頬に熱が集中する。前世で同僚の異性にかけられた言葉と言えば、
『親御さんから“この塾ってブラックなんですか?”って聞かれたけど、あれお前のことだろ。隈すごいから本部の視察がくる前に化粧で隠しとけよー』
『デスマーチ期間だからって、肌荒れ酷いよ○○先生』
『はー……たまには華やかな色の服でも着て、彩り添えてくれたらいいのに』
などなど。誰もが限界の状況下、ギスギスしい事務所内で主にマイナスの発言しかされてこなかったせいか、こういう場合の免疫が少ない。インフルエンザだって一度かからなければ抗体ができないから。
勿論言われっぱなしになるのは嫌だが、言い返して次の授業に使う体力が減るのも面倒だったので、相手に手持ちの手鏡を印籠のように翳して『そっちもね』とは言ったけど。
「ベルタ嬢? どうかしたのか?」
自分でも知らない間に立ち止まっていたらしく、彼がそう言って顔を覗き込んできた。赤くなっているだろう顔を見られたくなくて、一歩下がっ――。
「えっ?」
「危ない!」
いきなり後ろに倒れかけた身体は、真逆の力で引き起こされて。気が付けば私はホーエンベルク様の腕の中にいた。
「靴の踵が雪の塊を踏んだようだ。大丈夫だったか?」
「は、い、ご迷惑を……おかけしました」
「はは、これくらいで大袈裟だ。雪のせいなのだから気にしないでくれ。それよりも足首や膝に痛みはないか?」
「たぶん……ありませんわ」
「“たぶん”はかえって心配になるな」
彼は私を抱き留めた状態のまま笑った。冬の空気で冷えていた身体は冗談のように熱くなる。恥ずかしい。
考えてみたらこの気温で頬が赤くなっていることなんて普通だ。それを焦って自意識過剰な動きを見せたりするからこうなった。恥ずかしい。
「また転びそうになるのは心配だ。貴女さえ嫌でなければだが……劇場まで杖の代わりとしてでも頼って欲しい」
そう身体を離した彼が、見た目通りの逞しさだった腕をこちらに差し出して、エスコートを待つ姿になる。
「……では、これ以上みっともない姿をお見せしないで済むよう、お言葉に甘えさせて頂きますわ」
涼しい顔でそう言い繕うのが、何気に一番恥ずかしかった。




