♕幕間♕寂しがり同盟。
暖炉の薪が弾ける音と、揺れる火が部屋の壁に濃淡をつける。冬の薄日の他には暖炉の火しか明かりのない自室で、フェルディナンド様と二人、小さな画板に赤一色で描かれた素描に向き合う。
けれどすでにモデルをして下さる先生はここにはいない。下絵になっているのは、以前フェルディナンド様が描かれたいつかの先生だ。
「ちょっと待って……その線の部分、少し薄いよー。光と影を良く見て。これは秋の夕方に描いた設定のベルタ先生なんでしょ? この影のつき方なら窓の位置はどこだと思う? その時間帯の日の角度と窓の位置を意識して」
背後からフェルディナンド様の持つ赤を含んだ絵筆の先が、わたくしが描いた先生の髪をなぞっていく。淡くぼやけていた髪の輪郭線は、記憶にある暖かい先生の色に染まる。
「ほら、これが正しい夕方の色と窓から射し込む光の角度だ。さっきの淡さだとそれっぽいだけの色になる。いまの説明で分かる?」
「はい、分かります」
「ん、理解の早い生徒で嬉しいね。ならこのまま続けてみて」
絵筆を持つフェルディナンド様の手が引かれ、わたくしは言われた通り夕方の先生との授業を思い出しながら、淡すぎると思える場所に少し濃い赤を足す。それだけでグッと朧気だった先生の姿や声が鮮明になった。
先生がいなくなって、今日で三週間。こうしてまともに座って授業ができるようになったのは、九日前。
先生がいつもの時間に現れないことを不思議に思っていたら、急にお父様が授業部屋にいらして、他に教えを乞いたいと言う有望な生徒が現れたので、先生はそちらの方へ行ってしまったと仰った。
誰のところに行ったのか聞いても、お父様もお母様も先生の出世を喜びなさいと仰るばかりで。
最初はそんなはずがないと信じられず呆然としたけれど、どこかで“見捨てられて当然だ”と。もう随分感じていなかった劣等感が囁きジワジワと心を蝕んだ。
一日目は涙は一滴も出なくて、二日目は涙が止まらなくて、三日目は交互で、その間は誰も……フェルディナンド様すら部屋に近寄らないでと喚いて、水も食事も絶った。お父様とお母様は、そんなわたくしを子供の癇癪だから放っておくようにと使用人達に言付けた。
潜り込んだベッドの中ではいままで感じたことのない怒りに押し潰される。お父様に、お母様に、フェルディナンド様に、わたくしを置いていった先生に。そして、何よりも先生を引き留められる能力に到達できなかった自分自身に。
部屋に籠って食事を拒み続けていれば先生が戻ってきてくれるなら、飢えても涸れてもいいと本気で思った。先生がいなくなって元通り愚図で無能な子供に戻ってしまえば、お父様が呼び戻して下さるかもと狡いことも考えた。
――だけど。
『あのさー、お姫様。そろそろ泣いてもベルタ先生が帰って来ないことくらい分かってよ。本気でベルタ先生が望んで行ったと思うのー? このままお姫様が泣きすぎて死んじゃったりしたら、オレがベルタ先生に怒られるんだよね』
四日目の朝に部屋のドアの前でフェルディナンド様がそう仰った。いつも明るいフェルディナンド様のとても疲れた声。
そこで初めて自分ばかりが悲しいと思い込んでいたことに気付いた。同時に自身が先生を信じきっていなかったことにも。
四日間何も口にせず弱りきった身体を引きずってドアをほんの少し開ければ、隙間から素早く入ってきた綺麗な指先が、一気にドアを開けてしまって。堪えきれずによろけた身体を、フェルディナンド様の腕が抱き留めてくれた。
『先生の新しい生徒が誰か教えてあげるからさ、顔を見に行こうよ。その代わりただ顔を見に行くだけでもかなり頑張らないと駄目な相手だけど。協力してくれそうな人ならお姫様も知ってる人だ。やってみる価値はあるよ。横入りされて泣き寝入りとかつまらないでしょ』
そう言ってぎこちなく頭を撫でてくれたフェルディナンド様を見上げたら、そこにいつものフワフワとした笑顔はなくて。困ったように眉を下げた笑顔は、太陽を失った花みたいだった。
そのときのことを思い出していたら、後ろから画板をトン、と叩かれる。
「あー……ここはあと少し水を含ませた方がいい。せっかく主線がない水彩画なんだし、ぼかして魅せる手法もありだ」
注意された箇所を確認して頷けば、今度は訂正の筆先は伸びてこなかった。緊張しつつ、自分の持っている赤一色を乗せたパレットの上で、水を含ませた筆先をすでに緩く溶かした水彩絵の具に浸す。
「この授業が終わったらアグネス嬢から届いてる課題内容の見直しと、今月末の夜会に向けて社交術の特訓ねー」
「はい! 先生をこちらに取り戻すためにも、ご指導よろしくお願いしますフェルディナンド様」
「アハハッ、良い返事だ。その調子でバリバリやっていこっか」
「全身全霊をかけて頑張ります」
先生からの手紙は一通も届かないけれど……いまのわたくしは先生と、先生が残していってくれた味方を信じているから大丈夫。だから次に貴女の前に立てるまで、待っていて下さいわたくしの太陽。




