*3* 唐突な時間切れ。
十一月も終わりとなれば、時計の針がまだ六時にもなっていないのに、窓の外は夜を感じさせる。あの教え子の誕生日にあった重大発表から一ヶ月と三週間。
もうすぐ第一王子の家庭教師に引き抜かれるのだと思うと、焦りから授業の質や量もかなり詰めているのに、教え子は弱音や不満の一つも吐かない。むしろ教われる範囲が増えたことを喜んでいる節すらある。
そんな健気な彼女を前に今日も今日とて大切な話を切り出せないまま、メイドから帰りの馬車の準備が整ったとの報せを受けて、一日の授業が終わってしまった。
この屋敷から仮屋までの距離は大したものでもないけれど、一応貴族の令嬢と子息を暗い時間帯に帰すのは危険なので、冬季は大抵朝は自分で屋敷を訪れ、夕方にはこうして馬車を用意してもらうのだ。
「もうそんな時間ですか……。ベルタ先生、フェルディナンド様、今日も授業と楽しいお話をありがとうございました」
「今日もいっぱい勉強お疲れお姫様。最後に描いたやつはなかなかいい感じに描けてたし、彩色教えるのは年明けにしようかと思ってたけど、この分だともう十二月からは彩色の仕方を教えてもいいかもね」
「ほ、本当ですか?」
「うん。最初はまずいつも通り基本練習だから、一色だけ使って濃淡のつけ方を教える。油絵は最終授業に回す予定だから、使うのはパステルか水彩ね。どっちがいいか明日までに決めといて」
憧れの画家にいよいよ彩色を教われるとあって、喜びの興奮からか教え子の頬にみるみる赤みがさしていく。しかし彩色の話が出たと言うことは、芸術レベルが中級の中くらいに届いた頃か。
ダンスの授業でも、一通りのステップを詰まることなく流して踏めるようになったから、間違いなく中級の下には引っかかっているだろう。
学力の方は数学で苦戦しているけれど、十二頁に及ぶ近隣諸侯百年の歴史年表を八頁まで暗記できているし、外国語もエステルハージ領でのアンナとの勉強で飛躍的に伸びたから、上級の下に食い込めるまであと少しと言ったところ。
十歳でそのレベルに到達できるとは、流石は私の教え子。前世ではこの域に到達するのはまだだいぶ先だったから、育成記録を大幅更新してしまった。
いつも通り屋敷の玄関ホールまで見送られ、そこで一度今夜の予習分を口頭で確認し、教え子の「また明日もお待ちしておりますわね」という言葉を合図にドアをくぐり、待たされていた馬車に乗り込む。
ゆっくりと動き始めた馬車の速度が一定になり、外への音が漏れ聞こえにくい速度になったところで、前の座席に腰かけたフェルディナンド様が口を開いた。
「ベルタ先生さー……あんま追い詰めるようなこと言いたくないんだけど、いつアウローラ嬢に家庭教師ができなくなるって言うつもり?」
「……あ、明日には、言うつもり……です」
「そう言い出してから今日まで引っ張ってるんだけど。明日から十二月だよ? そろそろ話しておかないと、あれだけベルタ先生に懐いてるんだ。オレが引き続き家庭教師を受け持つって言ったって、なかなか納得しないと思うんだよねー」
フェルディナンド様はそう苦笑しつつガラスビーズの髪飾りを弄って、こちらにダメージを与える正論を口にする。彼の言うことは至極尤もだ。これ以上告げることを引き伸ばしては、教え子を宥め諭すことにかける時間がなくなる。
けれどそんな正論で割り切れない思いが私の胸の中にあるのも、また事実なのだ。返す言葉を失くして俯いていると、不意に顔を隠すように流れ落ちていた髪を一房掬い上げられる。
二人しかいない馬車の中でそんなことをしてくるのは、当然フェルディナンド様しかいない。恨めしい気分で少しだけ視線を上げれば、美しい翡翠色の双眸がこちらを覗き込んでいた。
「そもそもさー、ベルタ先生は第一王子の家庭教師に抜擢されることの何がそこまで嫌なの? ある意味教育者としての頂点じゃない?」
「それを貴族同士のしがらみから逃げているフェルディナンド様が問います?」
彼の指先からやんわりと髪を抜き取り耳にかけ、彼の翡翠色の双眸をジト目で睨んでそう返すと、フェルディナンド様はニヤリと笑う。意地の悪い笑い方なのに嫌な感じがしないのは、ひとえにこの人の持つ飄々とした雰囲気のせいだろう。
「おっと、墓穴掘ったかー。でもどうなるにしても、アウローラ嬢の家庭教師役はオレだけになっちゃうってことか。劇団と遊戯盤は引き続き相棒でいられるけど、やっぱりちょっとつまらなくなるなー。それに絵画とダンスは自信あるけど他の教科は普通なんだよね」
座席に深く腰かけ直したフェルディナンド様は、そう言って顎を撫でる。男性とは思えない女性的なラインを持つ輪郭の彼が取るこういう動作には、いちいち色気があって時々羨ましい。
「それについてはアグネス様に文通方式で出題と添削をして頂けるよう、すでに手を打ってあります」
「うわー、まさか最初からあてにされてないとは思ってなかった」
「フェルディナンド様をあてにしていなかったわけではないのですが、確実性を求めた結果ですわ」
「はは、どうだかー……っと、先生の家の前に到着したみたいだな。それじゃあ今夜一晩しっかり眠って、明日こそはお姫様に伝えられるように祈ってるよ」
――と、いうような会話をして別れた翌日。
身支度を整えて、さぁ今日こそ伝えるぞと気合いを入れて仕事に向かおうというときに、家のドアがノックされた。一瞬フェルディナンド様かと思ったものの、どのみち昼にはコーゼル伯爵の屋敷で会えるのだ。彼であるはずがない。
そもそもコーゼル領で与えられているこの仮屋に来客があったことなど、いままでなかった。訝かしみながらもドアを開ければ、そこには上質な服を隙なく着込んだ人物が数人立っていて――。
「おはようございます。ベルタ・エステルハージ嬢ですね? 我々は陛下の命により、王都から貴方のお迎えに上がりました。本日はコーゼル伯爵にお許しを頂いておりますので、このまま王城までご同行願います」
あんの顔だけ良いタヌキ親父めぇ!! ズルズル引き伸ばしても年末まで時間があると思っていた私も私だけど、こんなことならフェルディナンド様の言うように、昨日のうちに言っておけば良かったわ。




