*22* ばいばい、またね。
色々な棚を渡り歩き、満足する内容の本を手に本屋から出た頃には、夏の午後でまだ明るいながらもすでに六時。完全に時間配分を失敗した。今から帰れば門限の七時を少しすぎてしまうだろう。
「僕たちは思ったよりも長く店内にいたようですね。建物の陰が長い……」
「本当ね。本屋の中はあまり明るくないから気付かなかったわ」
地面に伸びる陰に感心するルドの言葉に苦笑してそう返しつつ、内心はちょっぴり焦っていた。スマホも携帯も公衆電話もないこの世界で門限に遅れると、家族に連絡する術はまったくない。
王都にいる間は心配性の父との同居なので、こういうときは結構困る。そんな私の様子に気付いたのか、ホーエンベルク様が申し訳なさそうな表情で口を開いた。
「今日は一日中付き合わせてしまってすまなかった。門限には……間に合わないな。そちらの屋敷まで送って行く。エステルハージ殿に謝罪させてくれ」
「いいえ、そんな大袈裟ですわ。こちらこそ新しい教材を揃える手助けをして頂いたのですから、謝罪は必要ありません。一人だと一日でこれだけの数を探すのは難しいので」
というか、この歳になって帰宅時間に遅れた理由を同年代の人間に一緒に謝ってもらう方が恥ずかしい。前世でもした記憶がない分、羞恥心は計り知れないことになるだろう。
何とか送ってくれようとするホーエンベルク様に諦めてもらおうと思っていたら、隣で私達のやり取りを見ていたルドが「まだベルタさんとお話し足りないです」と。しょんぼりと肩を落として言われてしまった。
「ルドもこう言っていることだし、どうだろう。送りがてら話をしてやってくれないだろうか?」
「ええ? ですが急にそう言われても私はそんなに面白い話題なんて――、」
「駄目、ですか?」
「うっ……」
知り合って間もないとはいえ、子供のこういうおねだりは卑怯だと思う。結局私は二人の連携の取れた申し出に頷く羽目になったものの、一応最後の一線として、屋敷の角で別れる約束を取りつけて帰路につくことに落ち着いた。
購入した本は全部ホーエンベルク様が持ってくれたので、私は手持ち無沙汰。ルドを真ん中に挟んで横一列に並び、三人で夏の香りのする石畳を歩き始める。
道の両側に建つ民家の開いた窓から夕食の準備をする音と香りが流れ、子供達が夕食の献立を予測し合いながら家へと駆けて行く。慌ただしく仕事へと向かう朝とは違い、憩うために足早になる人々。
そんな人の営みを強く感じるこの時間帯が、私は一日のうちでもっとも好きだった。これも前世にはなかったことだから、憧憬に近いのだろう。
私とホーエンベルク様はお互いに教え子のことに触れる話題を避けるため、会話の内容はほぼルドが選択することになったのだけれど――。
ルドは家庭での躾がしっかりしているのか行儀が良いものの、やはり普段自身の見る世界とは別の景色に憧れるものらしい。
何が面白いのか、いつしか話題は主に私の故郷であるエステルハージ領のものになり、ついにはホーエンベルク様との出逢った頃の話にまで及んだ。
「それではヴィー兄さんは、偶然ベルタさんの領地の噂を思い出して立ち寄っただけだったんですか?」
「ええ。だけど当時は会話の途中で急にいなくなったから、てっきり白昼夢でも見たのかと思ったわ。四年も経って再会したときに、初めて実在したのだと分かって驚いたくらいだもの」
「……ヴィー兄さんにもそんな頃があったんですね」
「当時はすまなかった。だがあのときは馬車が出る時間がギリギリで……そういえば再会したときはお互いに謝罪から入ったな。アンナ嬢に自己紹介を挟んでもらわなければ、いつまでも話が進まなかっただろう」
ホーエンベルク様がそう苦笑して、私もその言葉に同じような表情を浮かべて頷き返す。するとルドは私達の顔を交互に見上げ、すぐに視線を自身の腕に抱えた本へと移した。
「この本を翻訳した方で、ベルタさんの妹さんですよね。まさか本屋に作品が並ぶ人のご家族に会うとは思ってもみませんでしたが……勉強はやはりベルタさんが教えてあげていたのですか?」
次に視線を上げたルドがそう訊ねてきたので「基礎を少しだけね」と答えた。実際に私がしたことは、元からその方面への素養が少し高かった妹に道を示して褒めたことだけ。
バッドエンド阻止のためとはいえ、彼女の未来を誘導したと言えなくもない。結果的にそれがアンナの好きなことになり、翻訳の仕事ができるまでに至ったのは、ひとえにあの子の努力が実を結んだということだ。
「それは謙遜がすぎるのではないか? 同業としては、領民の識字率を飛躍的に上げた君にそう言われると立つ瀬がないぞ」
「ふふ、ですが本当のことですわ。妹はもともとがとても努力家ですし、領地の人達も学ぶ切欠と環境さえあれば学びたいと思うのは当然です。知識は武器を持たない者達が己を守る鎧となる。言い方はあれですけれど、私は自領の者達に鎧を纏わせたかった」
他者に踏みつけられても立てる強さを。たとえ立ち向かう力は持てなくとも、逃げることに、生き延びることに、知識は嘘をつかない。
自我は知恵と強く結び付く。家庭教師をしていて思ったのは、何も学力の知恵だけが知恵と呼ばれるわけではないということだ。
「私は知識は【興味】と言い換えることができると思います。それは決まった階級の人々だけが持っているものではないでしょう?」
一つだけでいい。特別抜きん出ていなくても、得意でなくても構わない。
大切なのは“興味をもつこと”と“これならできる”と自分を思い込ませること。それはいつか辛いことにぶつかったときに、卑下して俯いてしまう自身の心を踏み留まらせる。
「知恵の鎧、ですか。ベルタさんは面白いことを考える」
「そういうルドも詩的な表現が上手ね。作家に向いているかもしれないわ」
「……そんなに簡単な紐付けでいいんですか?」
「こういうものは直感よ。あとは貴男が【興味】を持つかどうかだけね」
「待ってくれベルタ嬢。ルドが作家になりたいと言い出したりすれば、俺が親戚に大目玉をくらってしまうだろう」
――などという他愛のないお喋りを延々としていたら、いつの間にか屋敷の塀が見えてきた。もっと気詰まりな時間をすごす覚悟でいたのに、意外なことにそれなりに楽しい時間だった気がする。
それはルドとホーエンベルク様も同じだったようで、ルドに至っては別れる間際に「今日は本当に楽しかったです。また会えますか?」と訊ねてくれて。
もうすぐ社交シーズンも終わり、教え子とコーゼル領に帰ってしまう私は答えに窮したけれど、ホーエンベルク様の困ったような視線に気付いて「来年の社交シーズンに」と約束してしまったのだった。




