*9* 終わりが始まる。
私が寝込んだ日から一週間後の四月一日。馬車の中から見る窓の外は前日までの曇り空から一転、春先の薄青の空が広がっている。
『一昨日、ランベルク公爵が陛下より毒盃を賜ってみまかられた。表向きは陛下の義兄への恩情ということになっているが、使用されたのは遅効性の毒だ。イザークとの約束は守れたと思う。今回の一件に関与していたことは認めたが、最後まで何故一連の件について手を出したのかという理由だけは分からなかった』
あの日、予定よりも早く戻られたホーエンベルク様にその理由を尋ねて得られた答えは、こちらが思っていたよりも遥かに大きな出来事だった。詳しく知りたいとせがめば、彼は倒れたばかりの私を気遣いつつも一つ一つ疑問に答えてくれた。
実は私が倒れる五日前にはすでに隣国から戻っていたこと。陛下の容態が安定している間に禍根を断つという動きがあったこと。隣国との外交のこと。中枢の人事が近いうちに新体制に一新されるであろうこと。その中にホーエンベルク様と父の名が上がっていることなどなど。
一介の子爵家の娘が聞いて良い領分を大きく超えた情報を、それでも彼は噛み砕いてこちらに危険が及ばないギリギリの部分まで教えてくれた。けれどその後に彼は気恥ずかしそうに笑って。
『だが、やはり一番の理由は貴方に早く会いたかったから……だな』
――と。少し隈のある顔でそんなことを言ってくれた。
そのときの彼の表情と声音が脳裏に甦った瞬間、穏やかに外を見ていた気分が掻き乱されて悶絶しそうになったのだけれど――。
「……ねえ、お姉さま。公演の途中で体調が悪くなったら、絶対に無理をしないで。今回の最終公演は自画自賛するつもりはないけど、これまでで一番公演期間が延びると思うの。だから今日が駄目でも次があるわ」
ちょうどタイミング良く、隣に座ったアンナが膝に置いていた私の手を握って心配そうにそう言った。どうやら自分で思うよりも長く外に気がいっていたらしい。形の良い眉を下げる妹を安心させようとその手を握って「大丈夫よ」と揺らせば、向かいに座っていた父も口を開いた。
「アンナの言う通りだ、ベルタ。お前はまだ病み上がりだからな。無理をして身体を壊すような真似はもう止めてくれよ?」
「もう……二人とも心配しすぎだわ。ほんの少し寝不足だっただけで、病気ではないのだから。それに今日はせっかく初めて家族揃って公演を観に行くのだもの。次にいつこんな機会があるか分からないわ」
そもそも馬車に親子三人で乗り込むこと事態がすでに大変珍しいことなので、年甲斐もなく内心はしゃいでいる自分がいた。前世では親に自分の関わった仕事を知って欲しいと思ったことなど皆無だったけれど、今世では大いに見て欲しい。
最初は領地でアンナとのやり取りから始まった一連の出来事が、周囲の協力を得てどんどん大きくなっていった先の集大成を見てもらえる。それに今日は久々にアグネス様とフェルディナンド様にも会えるのだ。そう思うと劇場までの残り僅かな道程ですら長い気がして気持ちが逸る。
馬車はその間も軽快に走り、やがて人の多い大通りに出た。どうやら劇場に向かう馬車で混雑しているらしい。まだ公演の開始まで時間はあるものの、こんなところで足止めを食らうのもつまらない。そこで家族三人顔を見合わせて思ったことは同じだったようだ。
父は馭者席の後ろにある窓を叩き、馭者がこちらを向いたのを確認してから「わたし達はここで降りる。すまないがお前はこのまま馬車で屋敷に戻ってくれ」と告げた。その頃にはすでにアンナが馬車の鍵を開けてドアを開いていたところだったけれど、父は苦笑しつつ先に降りて「お手をどうぞ。我が家のお転婆な姫君達」と笑って手を差し伸べてくれたので、私とアンナも笑いながらそれに応じる。
私達が色違いの編み上げブーツで石畳の上に降り立つと、周囲の馬車からも同じように幾人かが降りたって劇場の方へと歩き出していた。
「ね、お父さま、お姉さま、わたし達も早く行きましょう!」
「ふふ、アンナったら。劇の他にも何かとっておきの見せたいものがあるのね?」
「やあそれは楽しみだ。いったい何だろうね?」
「あら、お父さま。ここで教えてしまったらつまらないでしょう? 大人しくついてきてびっくりしてくれないと面白くないわ」
ツンと顎を持ち上げてそう言うアンナの表情は、けれど言葉ほどはツンツンしていない。上気した頬からは楽しみで仕方がないという気配がビシバシと感じられる。そんなアンナのことを父と微笑ましく思いながら劇場へと歩を進めた。
――そして。
劇場の入口で立ち止まっている人集りに潜り込んだとき、妹が自慢したくて仕方がなかったそれを前にして思わず息を飲んだ。そこには最後の公演に相応しく命を削って描いたのではないかというポスターが、観客達を席につかせる前から圧倒していた。
「ほう……これは……」
「最終章を飾るのにこれ以上なく素敵でしょう?」
隣で父とアンナが言葉を交わしているのに、私の目はその絵に釘付けだった。
燃え盛る紅蓮の渦の中、熱を孕んで翻る軍旗。血と焔の表現に境目が見出だせない。赤にここまでの種類があるのかと胸を突かれた。
銀色の甲冑に身を包んだ騎士が剣を高々と掲げて叫んでいる。間違いない。彼が今回の主人公だ。けれどその隣には、戦場には場違いとも思えるカソックのようなものを着込んだ紳士の姿がある。
峻烈と静寂。ただ、どちらも同じものを見据えている。そんなことを感じさせる見事な一枚画に目を奪われていると、背後からトンと遠慮がちに肩を叩かれて。魂を抜かれたように茫然と振り返った先には、ホーエンベルク様が立っていた。
「ベルタ嬢、エリオットの本気の絵は素晴らしいだろう?」
静かな興奮と陶酔の入り交じったその言葉に頷く私を見て、くしゃりと少年のように笑った彼の背後から「しっかりして下さいませフェルディナンド様。せっかくの晴れ舞台ですのよ~」という親友の困りきった声。
最高の舞台の終わりと、新たな始まり。その予感に高鳴る胸を押さえて、私は強く深く頷き返す。




