085:怪盗隈取り
母屋で起こった騒ぎはしだいに庭へと場所を移した。「あっちに逃げた」「いや、あっちだ」「だれか提灯を持ってこい」と家人が口々にどなるうちに、塀の外でどさりと何かが落ちる音。「塀を越えたようだぞ」「追え、追え」「警察にも知らせに行け」と、騒ぎの中心は屋敷の外へ移ってゆく。
そのころ、静まり返っていた離れに何者かの気配が入ってきた。玄関の靴脱ぎにうずくまって、荒い息を整えようとする。
「くそ、しくじったぜ」かすれた声がうめくと、
「荷物を塀の外に投げ出してごまかしたが、あんなものでいくらも時間は稼げんぞ。早く逃げ道を見つけねば」落ち着いた声が答える。
しかし、気配は一つなのに声が二人分あるのは、いったいどういうことであろうか?
「少し休まなきゃ、痛くってとても動けねえよ」
「たいした傷ではあるまい。もし捕まって仕置きを受けることになれば、痛いどころではすまんぞ」
おどしがきいたか、気配はようやく起き上がった。闇をすかしてあたりを見回し、不思議そうな声を上げる。
「ずいぶん短い廊下だ。変なつくりだなあ」
「廊下の途中にあとから板戸を設けたようだな。たしかに妙だ」
玄関を上がってすぐの廊下が、一間と進まぬうちに頑丈な板戸にさえぎられているのだった。
「南京錠で外から施錠してあるな……おい、何をしている」
気配は板戸ににじり寄って、錠前をいじりはじめていた。さきほどまで痛がっていたのが嘘のような気楽な声で答える。
「何って、錠前を破るに決まってるじゃねえか。大事に鍵をかけてるんだ、この中にゃさっき捨てたやつよりもっと上等なお宝がしまってあるにちげえねえ。これを見逃しちゃ泥棒の看板は上げていられませんよっと。ほれあいた」
南京錠を床にごろりと転がし、引き戸をきしませながらひらくと、気配は廊下を奥へ進みだした。
「さて、お宝はどこでしょうかね。おっと、ここは便所か」
「あまり長居はできんぞ」
「わかってるってば、相棒。こっちは水屋だな。あとはいちばん奥の部屋だけか」
障子をさっと開け放つ。そこは十二畳の和室だった。ただ、四方はすべて厚い土壁で、いま開けられた障子のほかには明かりとりの窓がひとつあるばかり。その暗い部屋の中央に、若い娘がすわっていた。化粧気はなく、髪は短くまとめ、ややくたびれた小袖をまとっている。娘は丁寧にお辞儀して言った。
「いらっしゃいまし。わたくしがここで暮らすようになってから、お客さまをお迎えするのは初めてですわ」
「こりゃどういうこった。お宝はねえのか」
「まあ、みごとな隈取り」
娘の言うとおり、入ってきた男の顔には隈取りがほどこされていた。地肌を白く塗ってこそいないが、目、鼻、口のまわりの紅が闇のなかにあざやかである。
「ふむ、ここはどうやら座敷牢だったようだな」
娘は目をみはった。というのも、部屋に入ってきたのは一人だけなのに、二人めの声がしたからだ。しかもその声がするときに、男の隈取りが顔とは無関係にうごめいたのである。それはあたかも隈取りがしゃべったかのようであった。
娘は何か言おうとしたが、そのとき離れの外で家人たちの声がした。
「おい、離れの入口があいてるぞ。あの盗人め、ここにも来たんじゃないか」
「これはいけません、中の戸もあいております」
それを耳にするや、部屋の中で男が動いた。娘の手をとって後ろ手にひねりあげ、どこからともなく短刀を抜いて首に突きつける。隈取りがうごめき、二番めの声がした。
「おい、何をする気だ」
「決まってるじゃねえか。この女を人質にして逃げる算段をつける」
「そのような野蛮なまねはやめたまえ」
「ほかに方法があるってのかよ、ええ?」
二人の声はどちらも娘の耳元で発せられた。この男は一人で二人分の声を出して、自分と自分で会話をしているのに違いなかった。
相談がまとまらぬうちに、部屋の入口に家人二人、住み込みの書生と下男が顔をのぞかせた。手には木刀や鉈を持って、怪しい者は生かしておかぬという構えである。それにむかって、男が一番めの声で呼ばわった。
「やい、部屋の中に入るんじゃねえ。さもないと大事なお嬢様の首すじにぶすりと行くぜ」
これには血の気の多い連中も部屋に踏み込むことができない。二人は目くばせをすると、下男がさっと外へ走り出た。応援を呼びに行ったのだろう。ぐずぐずしていると取り囲まれてにっちもさっちもいかなくなってしまう。男はさらにどなった。
「今から外に出ていく。てめえは先に表に出ろい」
書生はせんかたなく廊下を後ずさりした。それを追うように男は娘を押して部屋を出る。娘はつぶやいた。
「申し上げにくいのですけど、わたくしには人質としての値打ちはありませんよ。父はむしろ喜ぶと思います。自分の手を汚さずにわたくしを始末できるのですから」
「ほう」
興味を示したのは男の二番めの声。廊下をじわじわと玄関にむかって進みながら、娘にたずねる。
「ご令嬢はいったいどのようなわけでここに閉じ込められているのかな」
「わたくしには悪い癖がありまして、どうにもそれが治らないものですから」
「悪い癖とは」
「盗み癖です。幼いころから隙あらば人さまのものに手を出してしまうのです」
書生が玄関を出、男と娘も出た。離れの前には家人たち、その数およそ十人が手に手に得物を構えて勢ぞろいしており、中央には屋敷の主人某伯爵がどっしり立っている。男は一番めの声に戻ってどなった。
「見てのとおり、お嬢様の命はおれの手の中だ。やられたくなかったら馬を用意しろ。いや、あと屋敷の中にありったけの金目の物もだ」
「これでは強盗ではないか。このようなやりかたは好まぬ」
隈取りが二番めの声でこっそり嘆いたが、一番めの声は意に介しない。
「だまれ、これよりいい手があるかってんだ。さあ、さっき言ったものを早く持ってきやがれ」
「ことわる」
主人がおもむろに口をひらき、娘が初めて体を固くした。主人は冷たい声で言いはなった。
「皇室の藩屏たる当家が、娘を人質にされた程度のことで盗賊風情に膝を屈するはずがなかろう。娘自身もそれは重々わきまえている」
「まさか見殺しにするってのか」
一番めの声は絶句し、かわって二番めの声が娘にささやいた。
「ご令嬢、私とともに行く気はないか。正直なところ、私は私でこの男にいささか愛想が尽きた。あなたとのほうが相性が良さそうだ」
「どういうことでしょうか」
娘はあっけにとられたが、そのときついに主人が一喝した。
「さあ、みなの者、娘のことは気にしなくてよい。かかれ!」
「わかりました、あなたと参ります」
娘は背後の男に、というよりその隈取りにむかってさけんだ。それと同時に家人たちが一斉に襲いかかる。男がとるべき手を決めかねた一瞬、その顔から赤いものがずるりと抜け落ちて娘の顔に乗り移った。つぎの瞬間、娘は男の手を抜け出してとんぼがえりをひとつ、肩を足場にして離れの屋根の上に。一同があっと息をのんだときには、隈取りの影だけを残して屋根から庭木の枝へ、さらに塀へと跳び移り、またたくまにその姿は屋敷の外に消えてしまった。あとには隈取りのなくなった男が呆然と離れの前に立ち尽くすばかり。
このあと五十年にわたって、顔に隈取りをほどこした女盗賊が全国各地に出没した。この女、ありとあらゆるものを盗みまくったが、人を傷つけたりましてや殺したことは一度たりともなかった。
警察に捕まることもついになかったのでその正体は不明だが、丁寧な言葉づかいと洗練された物腰から、いずこかの名家の出であろうと推測されている。
今回イメージした曲は、『降魔霊符伝イヅナ弐』(サクセス、2007年)から、
バルダー等戦闘BGM(曲名不明、作曲者不明)です。




