姫は焼き立てのパンを所望する
「しかし、アリーナがそんな知識を披露するとは思わなかったな」
無事、書面を交わして正式に養女となり、婚約が成立した。
国王夫妻との短い謁見も終わって、公爵家の城にある広い中庭を見ながらお茶を頂いている。
「ずっと考えていた訳ではございませんの。話を耳にした時は、私には何の縁も無い話だと思っておりましたし、ただ美味しいなあと食しただけで……」
「何だ、食べたこともあるのか?」
ディオンルーク様が楽しそうに訊いてきたので、私も笑顔で頷く。
「ほんのり甘くて、美味しゅうございましたよ。あれでしたら、子供の良いおやつにもなるのではないかと思いますし、牛乳と合わせて煮れば、美味しいスープにもなるかと存じます」
「君は料理も出来るから、発想が豊かだな」
感心したように言うディオンルーク様に、侯爵夫人も嬉しそうに頷く。
実は、立ち寄る先でも朝の内に働かせてもらっている。
侯爵夫妻と公爵夫妻の許可は貰っていた。
新しい調理法も知りたいし、そこで働く人々と交流するのも楽しい。
大抵は貴族としての私と顔を合わせる機会のない人々なので、問題は起きないだろうと私は主張した。
ファルネス侯爵家ではのんびり朝食間際まで働くけれど、立ち寄り先ではそれよりも早く撤収する。
侍女や侍従、小間使いや従僕と顔を合わせないようにする為だ。
調理人や台所から出ない小間使い、下男下女ならば、主人達と顔を合わせる事は殆どない。
客である私などは全く縁のない相手なのだ。
料理は食べるのも作るのも楽しい。
私はディオンルーク様に微笑む。
「色々な経験をしておりますと、役立つ情報もございますね」
「ああ、勉強になるよ」
その日はファーヴルにあるフェンブル公爵邸に泊まり、次の朝にまた国境を越えてネペンテス王国へと戻る。
翌朝も日の出と共に目覚めた私は、勿論公爵邸を散歩してから調理場へと足を向けた。
ファーヴルは国境沿いにあるので、食生活はそこまで変わらない。
変わるとしたら、公爵様が食べ慣れているという理由で出される黒パンだ。
酸味を含む発酵種を使っているという事で、僅かに酸味があるのが特徴だという。
どっしりとしたパンだ。
何より美味しそうだと感じたのはパン皮にひき肉や玉ねぎを炒めた物を詰めてオーブンで焼きあげるという料理。
手のひらサイズの大きさで、たっぷり中身も詰まっている。
絶対美味しい!
焼き立てを食べたい!
などと思いながらオーブンを見つめていると、慌てた大声が響いた。
「ひっ、姫様!!何をなさっておいでなのです!」
姫様?
私は周囲を見渡した。
あっ、私の事ね?
一晩寝たから、すっかり頭からすっぽ抜けてましたわ。
「あの……働いておりました」
公爵夫妻はまさかここでも働くとは思っておらず、お城の執事には伝わっていなかったのかもしれない。
さっと、顔をひきつらせた下男下女が手を止めて、顔を上げないように下を見る。
「このような場に尊き御身が居てはなりません」
「此処は、あなた方や公爵夫妻の胃袋を支える大事な場でしてよ。わたくしは親切にして頂いて、楽しく過ごさせて頂きました。それに……」
きょとんと眼を丸くした老齢の執事が繰り返した。
「それに?」
「焼き立ての!あのパンが食べたいのです!!」
びしりとオーブンを指さした。
これだけは譲れない。
寧ろ、この為に働いていたと言っても過言ではない。
さっきまで存在すら知らなかったけれど!
思わず、というように噴出した使用人から、笑いが広がっていく。
参った、とばかりに執事は額に手を当てて、ため息を吐く。
「姫様がお望みなら仕方ありませんが、お召し上がりになったらお部屋にお戻りください」
「分かりました。皆さん、手を止めさせてしまって、申し訳ない事をしました。一緒に過ごしてくれて有難う。黒パンも、楽しみにしております」
皆を見回せば笑顔だ。
私は焼き立てのパンを、調理場の片隅のテーブルで頂いた。
焼き立てでさっくりしたパンに、じゅわっと広がる玉ねぎの甘みと肉汁。
スパイスと塩気で美味しい。
「とても美味しゅうございますわ!」
注目していた使用人達は、拍手喝さいである。
ほんっとに美味しい!
これは冷めても美味しいやつ!
温かいパンは勿論美味しいので、もう一つ遠慮なく手に取った。
そして、念の為執事にお願いもしておく。
「執事さん。これは帰りの馬車でも食べたいので、別途ご用意して頂ける?」
「お気に召して頂いて嬉しく存じます。勿論、お包み致します」
にこにこである。
こんな美味しい食べ物が隠れていたなんて。
世界はやっぱり広いのね!




