私の悪魔様-3
に、逃げろって……聞こえました。でも、リュウトさん……。
私、どうしたら良いですか?
視線だけで、授業中の教室を見渡す。
逃げる? ここから?
私にも、不穏な事が起こったのは分かります。だって、雲で出来た大きな手が、猫ちゃんを投げ飛ばしたのが見えたから……。
そして、外からはパリパリと乾いた音と、何かが弾けるような音、そして猫ちゃんの不安そうな鳴き声が聞こえて……。
一体何が起こったんですか?
窓の外には、ゆさゆさと揺れる、いつもの大きな木。
木……!?
……いつもよりと枝の位置が近い……! 木が傾いてる?
「ろ、廊下に逃げて下さい!」
そう思った瞬間、叫んでいた。
静かな教室に、想像したよりもずっと大きく声が響き、突然立ち上がった私に視線が集まる。
「あ……わわわ……」
かっと顔が熱くなった。
でも……。
「に、逃げてください。あの……木が倒れそうで……危ないんです」
好奇的で白けた視線を感じて、胸が痛くなる。誰も私の言葉なんて……でも……。
窓の外からバリバリと雷鳴のような音。猫ちゃんの声。
「先生!」
呆然とする先生に視線を預け、後席の子の腕を引っ張った。窓の近くは危ない! 早く逃げて! と叫びながら。
「な、何よ」
「危ないんです……!」
ふうと息を吸った。
「廊下へ逃げてください!!」
今まで出した事の無いような、大きな声で叫んでいた。
目はぎゅっと強く、つぶっていた。
怖い……。
だけど、ちゃんと伝えないと……。もう一度。すうっと息を吸って、大きく吐いた。
「あの……!」
――逃げようか。
誰かの言葉と、椅子を引くガタリとした音を合図に、ガタガタと椅子を引く慌しい音が、教室中から波のように立った。
……良かった。
「あ……ありがとうございます」
ほっ、と胸を撫で下ろしたその時、よりいっそう大きく、バキバキと乾いた音が外から聞こえ、木が大きく傾いた。木から落ちる小枝や葉が、窓ガラスに容赦なくぶつかり、乱暴なほど窓枠がガタガタと鳴った。
「七瀬! あんたも!」
誰かが私を呼ぶ。
駆け出そうと机に手をついたその時、目の端で青く小さな体が跳ねた。
ピーちゃん?
反射的に窓を開けていた。
その瞬間、鋭い枝先が私を捉え、振ってくる。何もできず、頭を抱え、その場にしゃがみこんで縮こまった。
体が揺さぶられ、引きずられる。視界が真っ暗になり、全身に何かがぶつかってくる。
轟音と共に校舎が大きく揺れる。
瓦礫を崩すような音、ガラスが割れる音。悲鳴。
ザアザアと音が立ち、嵐の中にいるようで、痛くて、怖い……!
……でも、背中に添えられた細い腕は頼もしい。
「大丈夫か?」
「リュウトさん……」
暗闇の中でリュウトさんと目が会った。
「お前の重たい体を引っ張る事ができるとは! 火事場の馬鹿力が出たのだろうか」
言葉に悪意はないのか、リュウトさんは嬉しそう。
……絶対に痩せますから。
音が止み、リュウトさんが立ち上がると、マントからガラスの破片がパラパラと落ちた。
床に散らばる色んな大きさのガラスの破片、木の枝や葉。
「危なかった」
ぽつりと漏らすリュウトさんの言葉と、視線につられ、自分の席へと目をやる。
そこにもう、私の机は無かった。
変わりにあったのは、太い枝。枝は窓を突き破り、机や椅子をなぎ倒しながら教室の中央の席まで伸びている。
散乱したノートや教科書……。
「これ……全部リュウトさんのせいですよね……?」
「救ってやったのに、嫌な事を言う女だな」
「七瀬!」
「怪我してない!?」
廊下から誰かが駆け込んできた。
バスケ部の中西さんと武井さんだ。
「……うん、ありがとう」
「お礼を言うのはこっちだよ……私の席見てよ、木の下敷き!」
「逃げなきゃヤバかったって!」
「怖かったねぇ!」
……わっ……!
二人に抱きしめられてしまいました……。
な、中西さん泣いてる?
「あ……あの」
「お前たち、怪我はないか? もう大丈夫だ」
「お姉さま先生ぇ!」
「ちょ、ちょっと……あの……」
リュウトさんが間に入ってきたせいで、不思議と四人で抱き合う形になってしまっている。
……な、何なんですかこれ。
リュウトさん何故だか、にやけ顔ですし……。
『クロロ……クルルル……』
「ん……? 何の声?」
不思議な声に、皆が顔を上げ、リュウトさんが叫んだ。
「害鳥め!」
……ピーちゃん!
ピーちゃんは、後方の机上で、のんびりと羽を伸ばしている。
リュウトさんは、輪から飛び出すと、机や椅子をかきわけ、ガチャガチャと乱暴に突進していく。
「ニャッ!」
木を伝い、教室の中までやって来た猫ちゃんが、獲物を狙うライオンのように、リュウトさんを追い、体を弾ませた。
二手から挟まれたピーちゃんは逃げる様子も無く、悠長に首を上下に振る。
「決着をつけてやる!」
椅子を台にして、リュウトさんが両手を伸ばして大きく飛んだ。
ガチャンと反動で椅子が後ろに倒れ、リュウトさんの手がピーちゃんに覆いかぶさる。
捕まえた!
そう思った瞬間、ピーちゃんの青い体が、ひらりと手の中をすり抜け、空を舞った。
それを猫ちゃんが狙い、しなやかに飛び出すが、その鼻先をかすめピーちゃんは逃げ切った。
リュウトさんには悪いけど、ピーちゃん凄いです!
「……あ」
「いいか! 穂積、絶対に放すなよ!」
「は、はい!」
温かくて小さな体が手の中にあった。ふわふわとした羽が手の中をくすぐる。
『……バカダナー』
ピーちゃんは私の手の中で誇らしそうに鳴いたのだ。
*****
「労力に見合わない……」
リュウトさんはがっくりと肩を落とし、何度目かの愚痴を言うと石を蹴った。
蹴った石は音もなく排水溝に落ち、それを見たリュウトさんが、また深いため息を付いた。
「……ピーちゃんの飼い主さん、喜んでいたじゃないですか」
「他人の喜びで俺の腹が膨れるものか。まったく無益な苦労を買ってしまった」
リュウトさんが手の中の五百円玉をきつく握り締めたのが見えた。
ピーちゃんの飼い主さんは、小学生。それも低学年の女の子でした。その五百円はきっと、大切なお小遣いで……価値は大きいのだと思います。
それを伝えても、無駄骨を折ったと唇を尖らせかねないので、胸にしまっておきますけど……。
「フン! あの鳥、やはりトゥンペルの部類であったのだろうな」
……トゥンペル?
聞きなれない言葉に戸惑う私を、リュウトさんがジトリとした目で見た。
「休校になって嬉しいんだろう?」
「え……そんな事は……」
……リュウトさんの言うとおり、早めの帰宅は嬉しいです。
教室に飛び込んできた木と、散乱したガラスで授業にならず「また局所的な“突風”があると危険だから」と、全校生徒が帰宅する事になってしまいました。
「俺のおかげだろう、感謝しろ」
「……それは……違うと思いますけど」
「フン。まぁ、お前は良くやったよ。怪我人が出なくて良かった」
「あ……」
思い出して、恥かしさに顔が熱くなった。
教室で大きな声を出した事、皆が私の言葉を聞いてくれた事……。
そして私を心配をしてくれた人が居た事。
期待してはいけない。でも、何かが変わりそうな、変われそうな兆しをほんの少しだけ感じて、胸が温かくなる。
「何を照れてるんだよ」
「べ、別に照れてなんて……ないです……」
それよりも、リュウトさんと猫ちゃんが、どんな魔法を使ったのかが、気になります。
……一瞬だけ見えた、あの大きな手。
魔法を使う。って、どんな感じなのでしょうか? 念じれば魔法って使えるんですか?
……でも聞いた所で私には分からないし、あまり退屈な質問をして、呆れられても嫌ですから……。
柊さんだったら、臆せずに、納得するまで聞くのかな。
比べては駄目なのに、憂鬱になってきてしまう……。
「やっぱり私、柊さんの部活には入れません。役に立ちそうもないです」
リュウトさんの小さい肩が私の腕にぶつかった。口の端を吊り上げ、ニヤリと笑ったので、わざとぶつけたのだと分かる。
「面倒な女だな」
「……すみません」
「お前は、無駄な事をあれこれ考えるから悪いんだ」
「……」
「もっと直感的に動け、何を怖がる? 気弱でいても得はない」
そんな事、言われても……。
私には、怖い事ばっかりです。
「俺の事も不必要に聞いてこないが、知りたい事だってあるだろう? 魔界から来た悪魔だぞ」
薄茶色の瞳が、楽しそうに私を見上げた。
「……あると言えばありますけど……」
「例えば?」
「つまらない事ですから……痛いっ」
ひどいです……頬っぺたをつねるなんて!
「じゃあ……怒らないで下さいね」
リュウトさんはニコリと笑って、目を細めると、顎を上げ、早く言え。と、促してくる。
じゃあ、聞きますよ。
「……どうして、同じ石鹸やシャンプーを使っているのに、リュウトさんからは、そんなに良い匂いがするんでしょうか……?」
……ずっと気になってたんです。でも、だから、どう。と言うわけではなくて……。
やっぱり、くだらない質問でしたよね……期待させてごめんなさい……。
「きゃ……!」
不適に笑ったリュウトさんは、私にもたれかかるように腕を組み、必要以上に密着して、私のお尻を掴んだ。
「なっなに……!」
「今日は一緒に風呂に入るとしよう」
「えっ……? え……?」
「だから、教えてやると言っているのだ。楽しみだな、穂積。早く帰ろうぜ」
「嫌です……」
「そうだ、洗いっこしよう」
背筋がぞっと寒くなる。
女の子同士なのに、下心を感じるのは何故なのでしょうか……。
「あ、あの……リュウトさんって……女の人ですよね?」
「え……」
リュウトさんの顔が、明らかに引きつった。
ごにょごにょと、しどろもどろになって、視線が泳いでいる。
冗談のつもりで、聞いたのに、こんなに動揺するなんて。
「お、女だが? まさか女に見えないとでも……」
じっと見つめていると、ぷいと顔を逸らされる。
「フン、じゃあ、お前! もしも俺が本当は男だったら、どうだと言うんだ?」
「……男の人なんですか?」
「……今は女だ」
「今……?」
悪戯っぽく片目をつぶって、口元を緩めたその顔は、リンネさんを強く連想してしまう。
「……」
「何を赤くなる? いやらしい女だな。フフン、まぁ女の子同士、遠慮する事は無い。手取り足取り教えてやる」
「な! 誰が……! そんな……!」
やっぱり、余計な事を聞かなければ良かったです。
鼻歌交じりの横顔を苦々しく見ていると、息を飲むような美しい笑顔が向けられた。
きっとこの笑顔のせいで、流されたくない方向に流されているのかもしれません……。
そして、その事が心地よくなっているのが少し怖かった。




