今日も明日もここに-2
「俺の居場所がカリガネに知れた今、帰るのは一刻も早い方が良い」
「ニャ!?」
カリガネの名に猫は姿勢を低くし、爪を立てキョロキョロと見回した。
「カリガネの操る仮面は来たが、もう追い払った。安心しろ」
「あのぉ仮面って……隣町に出た仮面の強盗の事ですか?ニュースで見ました。飲食店で発砲して逃走って」
「あ、もうニュースに出ちゃったんだ」
誠司がため息混じりに肩を落とす。
「俺のせいで母上に迷惑がかかったな……」
「いや、良いよ。大丈夫」
あの黒い外套に赤い仮面の者、その風貌から強盗として人間に判断されたようだ。
俺は他の女達と同じように、恐怖を感じたと弱々しく嘆き、若い警察官も特に執拗な追求などせず「絶対に捕まえて見せますよ」と、胸を張り「困った事があったらいつでも連絡を下さい!」と、数字と英列の書かれた紙を俺に寄越したのだった。
「とにかく、カリガネの手は、また俺へと伸びるだろう。俺は二人を危険な目に合わせたくない」
穂積は置き去りにされた子供の表情で涙を浮かべ、誠司は何か考え深げに沈黙しているが、その目は真っ直ぐに俺を捕らえ続けた。
今生の別れともなれば、このような悲痛な表情が引き出せるのだろうか。実に愉快だ。あまりの気分の良さに口笛でも吹きたいところだ。
「……リュウトさん……でも……」
「何も言うな、別れが辛くなる」
言って、猫の首根をひょいと掴んでぶら下げた。
「おい。この耳は鬼の角が変化した物なのだろう。その耳があれば魔界に帰れると思わないか?」
「ニャーッ!」
猫は俺が何を言おうとしているのか察したのか、全身の毛を逆立たせ、目を剥き手足をばたつかせ空を泳いで逃げ出そうとする。この期に及んで自分の立場が分かっていないようだ。
「ははぁ……お前、まさか自分の角が惜しいのか?」
「ニャッ!」
猫は目を三角にして「そうだ」とキッパリ俺の問いに答えた。
「俺には、猫の言葉はわからんなぁ。……悪く思うなよ」
三角にピンと立った左耳の根元に手をかけ、ぐいっと引っ張ると、猫が「ニー」と悲鳴をあげ、穂積が慌てて手を出した。
「リュウトさん!や、やめて下さい、耳を引っ張るなんて猫ちゃんが可哀相です……!」
「止めるな、穂積。俺はただ、この猫の可愛らしい耳を千切るだけだ。俺がこの家に居ると、お前に危険が及ぶ。つまりお前のために猫の耳を千切るのだ。なぁに、殺すわけじゃない」
穂積は、毛を逆立たせて震える猫と、俺の顔を見比べ「でも……」と口ごもった。
「とはいえ、手では千切れないか」
太腿に縛り付けた短刀を素早く抜き、冷たい刃を猫へと向けると。猫は静かに瞳を閉じた。
「お、覚悟を決めたか。良い子だ」
「ニャ……」
誠司が慌てて猫を俺から奪い取る。
「リュウト!お願いだからやめてくれ!」
誠司には威嚇し続けていた猫だが、今回ばかりは大人しくその腕の中に納まり、穂積に耳の根を優しく撫でられ、恨めしそうな目を俺へと寄せてくる。
「ほう。二人して、俺が魔界に帰るのを邪魔するという事だな」
「……み、見てられないです!」
「これは、きつい」
穂積は頬を膨らませ、誠司は眉間に縦皺を入れた。
「良かったなぁ、猫のホズミよ。心優しい人間に救われたな。この者らは身の危険をも顧みない勇敢な者たちだ」
猫が不安そうに「ニー」と鳴くと、穂積は顔をしかめながらも「大丈夫だよ」と猫を励ます。
「では、猫の耳は切り取らない。俺はこのまま人間界に留まる事になるが、これから危険な目に合おうとも、あの時、リュウトを魔界に帰して居ればよかったと、後悔するなよ。言っておくが俺に求愛している男はしつこいぞ」
猫が申し訳無さそうに「ナァ」と鳴くと、誠司は「僕らなら大丈夫だよ」と笑顔を向ける。
そして、猫は誠司の腕から、するりと抜け出し、俺の膝へ飛び付くと、ペロリと舌なめずりをして見せた。
猫のマヌケ面を両手で包むと、ふわりとした柔らかな毛に俺の指が沈む。
「お前のような愚者が良く、ここへたどり着いたな」
「ニャア」
本来あるべきはずの右耳の根を指でなぞる。傷などにはなっていないようだ。
俺に触れられ、調子に乗った猫は、ぐいぐいとその頭を俺へと押し付けてくる。
「調子に乗るな」
ピンと鼻先を指で弾く。
痛い。
痛みを伴ったのは、俺の可憐な指先だけだ。猫は面食らって入るが平然としている。ホズミを猫に変えた術は恐らく簡易的なものだろう。猫になっても、小鬼は頑丈だ。
俺の非力な腕では短刃を使っても、この耳が切り取れるはずが無い。
「……リュウトさんって、そんな顔するんですね」
「あ?」
「リュウト今、凄く優しい顔してた。いつもそうしていれば良いのに」
「ニャア」
気色が悪いほど温かな笑みが向けられ、耳まで赤くなるような羞恥に駆られていく。
「な、なんだよ!」
「あ、もしかして……!もう素直じゃないなぁ、『危険な目にあっても、ここに居ても良い?』って普通に聞いてよ。僕らは別に迷惑だなんて思わないよ」
「あっ、そうだったんですね……今更、そんな小芝居しなくても良いじゃないですか……悲しくなって損しました」
「まぁ不安なんだよね、リュウト。あんな仮面が来たりしてさ、帰る途中も七瀬さんに、しかられたくないって、ぐすぐす言って病気のふりなんて――」
「お、おい止めろ何を言い出すんだ」
穂積と誠司は邪気の無い笑顔を見せる。
「リュウト、まだ帰らないでよ」
「……あ!リュウトさん!」
猫を床へ投げ、布団を頭から被り、その中に丸まって耳を覆った。
好き勝手言いやがって。
これ以上、でたらめな評価を聞かされたならば、恥ずかしさに身もだえ、七転八倒する羽目になる。
遠くから笑い声が聞こえてくる。笑い話のネタにされるなど冗談ではない!
そんな事より、目下の問題はカリガネだ。
どうしてカリガネは俺の居場所が分かったのか。
ホズミのわずかな魔力がこの町へ呼び寄せたか?しかしホズミの前にカリガネは現れなかったようだ……。
力が無いように思える俺に、魔界の者の気配があると言うのだろうか。
「あー!」
がばっと跳ね起きると、帰り支度をしている誠司と、猫をタオルでじゃらしている穂積がこちらを向いた。
「どうしたの?」
指輪だ。
カリガネから贈られた金の指輪。これが一番疑わしい。
小袋からから指輪を取り出すと「綺麗ですね」と穂積が覗き込んだ。
「おい、猫」
「ニャ」
「これをどこか遠くに捨てて来い」
「ニャ?」
「それを持っていると、カリガネが来るかもしれない。できるだけ遠くに行け、朝まで走り続けろ。お前は、やれば出来る小鬼だ、俺はよく分かっているぞ」
「ニャ!!」
猫が口に指輪を咥えた事を確認すると、猫の首根を掴み、窓を開けて放り出した。
「きゃ!ひどいです!」
「酷くない。見ろ、元気に走っていったぞ」
「猫ちゃん怪我してないかなぁ」
「全く、お前達は見た目に惑わされているが。あれは猫に見えるが魔界の鬼だ。俺だってただの超絶美少女に見えると思うが中身は大悪魔リュウト様だ!」
そして男だ!
「リュウトはさぁ、もう悪魔とかそう言うのじゃなくて、リュウトって言う生き物って感じだから」
誠司が苦笑いを浮かべた。
この男、ついさっきまで思いつめたような顔をしていたのに、今は俺をからかうと言うのか。
「なんだと!」
「いやぁ、なんかそういう感じなんだって。今日ずっと思ってたけど、リュウトって可愛いけど可愛くないよね」
「はぁ?お前、俺の可憐なこの姿を見ながらそう言うのか?では、触ってみろ、このしなやかな甘栗色の髪!一日触っても飽きないぞ」
まるで珍獣を見るような目で俺を見やがって。
「そういう事じゃなくて、容姿は可愛いんだけど中身がリュウトっていうか、可愛くない所も可愛いけど……」
誠司は照れたように「何言ってんだろう僕は」と、後頭部を掻いた。言うだけ言って全く失礼な男だ。
「あの……盛り上がってる所すみません。ずっと聞きたかったんですけど、良いですか?」
穂積がおずおずと手を上げた。
「なんだ?」
「えっと……今日は二人してこんな時間まで、どこで何してたんですか?リュウトさんお化粧してますよね?」
「……」
言葉に詰まり、誠司の顔を見る。まかせてくれ。と、言わんばかりに誠司が口の端を引いて見せた。きっと適切な言い訳があるのだろう。ゆっくりと顎を上げ発言を促した。
失言を挽回して見せよ。
「七瀬さんの家の食費、僕が持つ事になったから、安心して」
そう言って誠司は笑ったのだ。今はまずい。恐る恐る穂積に目を向けると、穂積が瞼を吊り上げていた。
「……リュウトさん!」
「誠司が良いってんだから、良いじゃねぇか。誠司が自分から言い出したんだよ『僕の可愛いリュウトをこんな店で働かせたくないよー』ってさ。俺が可愛いばっかりに。お前も、さっきまで寂しいって泣いてたくせに怒る事はないだろう」
「僕のリュウトなんて言ってないからな!ただ、あんな店はリュウトには――」
言い終わらないうちに穂積が「店ってなんですか?」と片眉を上げた。
「……じゃあ、七瀬さん長居してごめんね。おやすみなさい」
「おい!誠司!まて!」
掴み損ねた手が空を舞う。
「じゃあね、可愛いリュウト」
穂積は「じっくり聞かせて下さい」と、俺の華奢な肩をがっちりと掴む。
「良いか?絶対に怒ったり、落ち込んだりするなよ?俺はお前に一喜一憂されるのが心底面倒なんだ」
仕方なしに事情を掻い摘んで説明すると、穂積は大方の予想通り「私のせいでリュウトさんが水商売なんて……」と、沈み「中森君のお母さんにも迷惑をかけたんですね」と、怒りと共に暫く沈黙した後「モヤシも美味しいですよ、頑張りましょう。中森君にはこれ以上迷惑なんてかけられないです」と、続けたのだった。




