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悪魔の契約-3


 男を下敷きに植栽へと落ちた俺は無傷であったが、下敷きとなった男は体中いたる所に引掻き傷を作っていた。


「大丈夫か?」

「こんな傷、唾でも付けとけば治りますよ、痛くないと言ったら嘘になりますけどね」


 男の軽快な喋り方は若い近衛兵のように、はつらつとしている。


「まったく、無茶をしたな」


 だが、男なら当然か。力がある。それに比べて己の身と言えば男を尻に敷き、すっかり守られる存在になっているではないか。

 鏡の君の姿を思い浮かべ、鏡の君が俺なのだから仕方が無い。と、半ば強引に自分を納得させる。


「さぁ、つかまれ」


 植栽に、はまり、立ち上がれずに、もがく男へと手を差し伸べ微笑みかけた。


「ありがとう、あなたは命の恩人だ、助かったよ」


 精一杯の皮肉を言ったつもりだったのに、男は目を輝かせていた。

 ああ、これは俺が鏡の君に言われたかった台詞ではないか……。


「どういたしまして!まさか、女の子が落ちてくるなんて思わなかったよ、もっと格好良く助けられると思ったのに、現実はスマートにはいかないね」


 男は照れくさそうに、俺の手を取り立ち上がる。

 短髪で、背の高い男だ。そして俺の腕を見ると目を剥いた。


「君の方が酷い怪我をしているじゃないか!」

「ああ……これは今できた傷じゃない。ガラスで切ったんだ、卵がチンで爆発して」

「卵……?」

「大丈夫ですかー?」


 頭上から穂積の声が聞こえる。


「大丈夫だ!この男に助けられた」

「あ!中森くん!」


 穂積はこの男に気が付くと、さっと顔を隠し部屋へ引っ込んだ。


「穂積の知り合いなのか?」

「ああ、僕、七瀬さんの隣の部屋に住んでる大学生で、中森って言います」


 中森は真っ直ぐに俺を見据えた。

 意図せず見詰め合ってしまったが、逸らす事無く俺を写すその瞳は、自信に満ち溢れた男の目だ。

 そして、その視線の先に期待感を寄せている。


「何が聞きたい?」


 俺の言葉に中森は少し驚いたようだが、目をぱっと開かせた。


「実は聞きたい事が沢山あって、全部を知りたいと言ったら君は怒るかな」

「そうだな、希望には添えない。だが、一つだけ教えてやろう、俺は天使じゃない」


 俺がにこりと笑うと中森も釣られて笑った。


「良かった、それが一番聞きたかったんだ」





***************






「天使様!」


 部屋に戻った俺を穂積がそう呼んだのだ。


「気色悪い!俺は天使などと言う臆病な種族ではない。悪魔!魔人族の大悪魔!」

「で、でも白い羽が」

「あれは間違い。錯覚、幻、お前の記憶違いという事にしろ。俺の本来の翼は闇よりも深く美しい漆黒だ」

「でも……」


 短い沈黙の後、穂積は「綺麗でした」と、少し頬を高揚させてそう言った。

 こいつ、本当に納得しているのか?


「ふん、まぁ良い。で、俺との取引に乗るか?」

「あの……私は何をしたら良いの?」


 寄せた眉の片方が無いせいで、慎重な口調も滑稽に聞こえてしまう。

 眉に視線が行っている事を穂積は気が付いたようで、さっと両手で眉を隠した。


「俺は魔界へ帰りたい」

「魔界……?」


 人間というのは魔界の存在を知らないようだ。

 当然のように自分の住む世界を説明する日が来るとは思ってもみなかった。


「此処とは違う異世界だ。だが、一部は重なり合っている。魔力の強い者はチャンネルが合わずに境界を渡れないが、魔力の弱い者、例えば学者や鬼の一部は古来よりその境界を往来している。お前たちにも、そう遠くは無い、身近に在る世界だ」


 関心はあるのか、しきりに頷いている。


「来た道は帰れないの?リュウトさんはどうやって来たの?」

「扉だよ、人間界への扉が開いたんだ。本来、俺は魔力の高い悪魔だったが、その力が封印されたせいで境界を越えられたようだ。だが、その扉は俺を落として笑いながら消えやがった」


 退屈した門の機嫌の良い笑い声が耳の中で蘇る。


「……魔界、鬼、悪魔……実在するなんて知りませんでした……」

「でも、俺が人外である事はもう信じただろ?」

「……それは、はい」

「なら俺が魔界へ帰れるよう協力しろ。特別な事は期待していない。宿と食事さえ提供してくれりゃ良い」


 穂積は神妙な顔を作ると「それなら」と、決心したように頷いた。


「よし!お前は悪魔と契約したからな」

「そんな怖い言い方しないで欲しいです……ん……!リュ、リュウトさん?かっ……顔が近い……」

「締結の証に唇を交わそう」

「く、唇!?」


 穂積の呼吸が俺の産毛に触れる。

 床に座る穂積の、その肉厚な腿の間に俺の華奢な膝を割り入れた。

 女の肌と肌とがふれあう感触は、柔らかでしっとりと温かい。

 穂積はびくりと体を振るわせ「な、なんですか」と、体を仰け反らせるが、俺は構わず穂積へのしかかり、その首に腕を回し捕まえた。


「早くしろ、そういう決まりだ」


 嘘だ。

 俺は、二つの熟れた果実が互いに果汁を滴らせる様を、味わいたい。

 身を女に変化させたからには、その機会を伺っていたのだ。今が好機。

 念願を叶える為、俺の可憐な唇はその時を待っている。


「俺からしても良いのか?どうなっても知らんぞ」

「リュウトさん……さっき自分は男だって言っていませんでした?」

「どこが男だ。どう見ても女だろ?」

「お、女の子同士で変です……」

「じゃあ俺が男だったら、したのかよ」

「もっと、ダメです……!」

「なら良いだろ。俺は女だ」


 俺が目を閉じると穂積が「えっ」と悲鳴をあげ「リュウトさーん……」と呼びかけてくる。そして、少し悩んだようだが、観念したように、その唇を軽く押し付けてきた。

 男女のものとは違う、ふわりと沈み込むその感触に胸が震えた。

 すかさず花弁を解くように舌先を捻じ込むと、穂積は驚いて体を離した。


「契約成立だな。なんだ、その顔は、物足りなかったか?」

「い、いいえ!……あー……恥かしい……」


 俺がおもむろに服を脱ぐと穂積は「キャッ」と目を背けた。


「じゃあ、これ、俺の服。洗っといてくれよ、おいおい、まさか何か別の事を期待した訳じゃあるまいな」

「ち……違います!」


 穂積は一度は嫌そうな顔をしたが、渋々俺の脱いだ衣服を受け取った。人間の穂積は押しには弱そうだ。快くとまではいかないが大抵の事は押し切れそうな隙がある。

そういう所が付け込まれ嫌がらせを受けるのだろう。


「あれ……胸の所に血が!リュウトさん……!ガラスでこんな所も切ったの?」

「いや、それとは違う。こっちは傷は無いが刺したんだよ、その服、生地が破れてるだろ、繕っといてくれよ」

「刺した?」

「そ、死に切れなかったがな」

「……自分で刺したの?」


 穂積は唇を尖らせた。


「ふん。俺の事はどうでも良い。次は、お前の眉毛をどうにかしようではないか」

「どうにか……?」

「助けてやるよ」


 にっこりと微笑んで見せたが、穂積は釣られて微笑む事はなかった。代わりに頬を引き攣らせて無い眉を寄せた。

 何故なら俺が手に血の付いた短刀を持っていたからだ。


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