34.小さな結婚式会場で-01-
『白い結婚』のはずだった。愛のない結婚のはずだった。
それなのに、なぜ自分は真っ白なドレスを着て、ドレッサーの前に座っているのだろうか。
人生とは、わからないものだとセシリアはつくづく思う。
「もうっ、セシリアちゃん、動いちゃだめよぉ」
セシリアの顔にブラシでくるくると粉が叩かれる。目の前の母エルゼは、まるでお絵かきをする子どものように、はしゃぎながらセシリアにメイクを施していった。
だが、落ち着かない。セシリアは、ブラシが離れるたびに、首を動かし、脚を伸ばし、気を散らせていた。
「……だって、動かないと色々考えちゃって涙が出るんだもん」
「あらあら、可愛らしいことを言うようになったわね。今までは、『ううん!大丈夫!』しか言わなかったのに」
「確かに」
セシリアは笑った。アルフォンスと出会ってから、セシリアはちょっとだけわがままを言えるようになった気がする。
不意に、エルゼは手を止めた。
「結婚式の前にする話じゃないんだけどね。聞いてくれる?」
「もちろん」
鏡越しに、セシリアは母と目を合わせる。
「本当はね、ユリウス君との婚約破棄は、あの夜会の日に我が家から申し込んだのよ」
「……えっ」
さらりと、セシリアの知らない事実が耳に流れ込んでくる。
今までずっと揺蕩っていた違和感に、かちり、とパズルのピースがはまっていく感覚がした。
セシリアもおかしいとは思っていたのだ。あの婚約破棄は、あまりに晴天の霹靂だった。ユリウスがいくら傲慢な性格だったとしても、夜会の場で、大声で婚約破棄を宣言するなんて。
「ど、どうして……」
「我が家の大切な娘を、あんな浮気者に任せられるわけないでしょう? ……まさか、あんな公衆の面前で婚約破棄されるなんて思ってもいなかったけれど」
エルゼはにっこりと笑った。だが、その目はどこか曇っている。
「だから、もちろん、それ相応の対処はさせていただいたけれどね?」
(もしかすると、ユリウスが恋人と別れたのって……)
セシリアは、市場でユリウスに詰め寄った日を思い出す。あの時のユリウスの怯えようは異常だった。
……セシリアと母エルゼの容姿は、よく似ている。特に、凛と張った時の、その声も。
そこまで考えて、セシリアは頭を振った。やめよう、これ以上考えると、母が恐ろしくなってしまう。
「あの夜会の日、我が家と親交のあった貴族たちから申し出があってね。『さすがに、あの婚約破棄は酷すぎる』って言ってくれて。私が泣きついたら、お金を借り入れられることになったのよ」
「…………」
「でも、セシリアちゃんがいきなり『アルフォンス・グレイブと結婚することになった!』なんていうからびっくりよぉ」
ちょっと、待って欲しい、とセシリアは思った。声を震わせながら、母に尋ねる。
「じゃあ、なんで、あの時に私を止めなかったの?」
「それはね」
エルゼは、ぱちんとウインクする。
「セシリアちゃん、嬉しそうだったのよ。ユリウス君の時とは違って。本当は不本意だったけれど、一旦セシリアちゃんに任せてみることにしたの。うちは放任主義だから」
「えっ、止めてよ、それは! アルフォンス様と『白い結婚』なんてする必要無かったんじゃない!」
「えぇ、だって、恋の予感がしたんだもん」
エルゼは、ぱちん、とウインクする。
あの夜会の後の報告で、恋の直感なんて感じ取れるわけがあるまい。セシリアは身震いした。
「じゃあ、我が家が没落する可能性って……もしかして……」
確かに、ウィンターズ家は没落寸前だったはずだ。減っていく人口。増えることの無い小作料。
ずいぶんと昔から衰退の一途をたどっていたはずなのに、よく考えれば、セシリアが成人するまで持ちこたえているのもおかしな話である。
思えば、幼い頃から、お金が無いわりに、最低限の教育も受けていたし、夜会に出る金はあった。古い物ではあるが、ドレスや宝石を売るまでの状況に追い込まれたことは無い。
貧乏だったのは確かだが、まさか、この母は──
「やだわぁ、セシリアちゃん。最悪、国王陛下と交渉よ」
セシリアは息が止まるかと思った。
あまりに胆力が違い過ぎる。
今までだって、没落しそうなタイミングは幾度とあったのかもしれない。今回、たまたまセシリアは気が付いたというだけで。
「だから、アルフォンス君からもらった報酬金も使っていないのよ。彼には、もうお返ししています」
「…………」
セシリアは腑に落ちた。
この母は、『セシリアとアルフォンスが恋に落ちるわずかな可能性』を計算に入れたうえで、『白い結婚』を了承していたのである。もし、つつがなくセシリアとアルフォンスが別れていれば、報酬金を使う予定だったのだろう。どちらに転んだとしても、ウィンターズ家にメリットがあるように。
だとすれば、不可解な点がある。
「えっ、待ってよ。じゃあ、あの馬車は?」
「…………それは、セシリアちゃんの知らなくていいことよ」
にっこりと微笑む母エルゼに、セシリアは何も言えなかった。思い出すのは、セシリアを迎えにきた真っ白な馬車である。
(あの白い馬車、ユリウスが良く乗っていたものと同じ型だったのって、まさか……男爵家から……?)
セシリアは口を噤んだ。もう絶対に母には逆らうまいと決意した瞬間だった。
エルゼは、最後に粉をパタパタと叩いて、満足げに頷いた。
そして、セシリアの肩を優しく持った。柔らかい、鈴の鳴るような声で話しだす。
「我が家が貧乏だったのは、本当よ。今回も危なかったの……貴方には、昔から心配と迷惑ばかりかけたわね。無理して王都の学校に通わせればとかったんじゃないかとか、ユリウス君と婚約させなければ良かったんじゃないかとか、そもそも、もっとお金があれば、とか。後悔しても、しきれない」
「……後悔なんて」
セシリアは思う。
この生き方は自分自身が選んだものだ。後悔なんてしていない。だから、その言葉を否定しようとしたのに、エルゼから遮られてしまう。
「後悔するのよ。母親という生き物は。みんなそうなの。貴方が生まれてきたその日からずっと、貴方の幸せを願ってる、それなのに」
後悔を吐きだすようにして、彼女は言う。
「私たちは、長女の貴女に助けてられてばかりだった。本当に、ごめんなさい……」
(そんなこと、無いのに)
セシリアはそう思うけれども、エルゼの表情を見ていると、安易な否定はできなかった。
「これだけは言わせて。私は後悔なんてしていないから。ウィンターズ家に生まれて、貴方が母親で、沢山の家族に囲まれて、本当に良かったなと、そう思うの」
ずっと、幸せだった。
ウィンターズ領で沢山の家族と、領民に囲まれて。今までの人生を振り返ってみても、楽しいことしか思い出せないくらいには。
「これからは、もっと羽を伸ばして。自由に生きなさいね」
好きな人と一緒になることは幸せなのに、別に今までと生活は変わらないのに、言いようのない寂しさがこみ上げてくる。
完全に自分がウィンターズの人間ではなくなってしまうのだと実感してしまったのだ。
ウィンターズ領での日々が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。
ヴィルヘルムと喧嘩し続けた日々も。兄弟たちと領地を駆け回った日も。なんで自分だけがと自己嫌悪に陥った日も。父親と一緒に剣術の稽古をして、ボロボロに負けた日も。母が作った料理がびっくりするくらい美味しくなかった日も。
(楽し、かったなぁ……)
セシリアは、ふんわりと広がる白いドレスを見つめる。
ちょっとだけ。いいや、すごく寂しい、けれど。
「……お母さん、私、ウィンターズ家に生まれて本当に良かったよ」
久々に『お母さん』とそう呼ぶと、唇が震えてせっかくのメイクが落ちてしまいそうになる。そのタイミングで、がちゃりと扉が開いた。
「奥様、そろそろ」
スタッフが、セシリアに声をかける。入場の時間が近づいているようだった。真っ白なドレスを持って、セシリアは立ち上がった。
「……セシリア」
セシリアは、振り返る。自分と同じ、水色の瞳からは、一筋の涙が流れていた。
「幸せに、なりなさい」
セシリアは、ただ頷いて控室を後にした。




